↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
神様は、明日を知らない』 ――全知全能の神が、人間になった理由――  作者: 亀


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

273/290

第273章 約束をした者

午前六時四十分。


森川の携帯が鳴った。


共通照合処理の実行履歴に、これまでとは異なる変化が起きているという。


森川は出勤すると、すぐに高瀬と記録を確認した。


『合意範囲:再解釈中』


その表示は、前夜から変わっていなかった。


しかし、対象範囲は『全体』のままだった。


「再解釈が始まってから、対象の数は変わったか」


高瀬は複数の履歴を照合した。


「増減を示す記録はあります。ただし、前の件数が残っていない履歴もあるため、正確な変化は計算できません」


「処理対象になった記録と、実際に変更された記録を分けてくれ」


「分かりました」


森川は、もう一度、合意記録の受付資料を開いた。


当初の目的は、人間化支援。


関係者は複数。


原本には付随条件がある。


その三つは確認できている。


だが、約束を交わした者の名前は、どこにもなかった。


森川は、高瀬に言った。


「原本を見つけることが最優先だ。現在の処理が、何を根拠に合意済みと判断しているのか、それを確かめる」


     *


午前九時過ぎ、アポロンは森川からの連絡を受けた。


「旧資料の中に、当初の合意範囲と、現在の処理範囲を区別する記載が見つかりました。ただし、合意の原本はまだ確認できていません」


「原本が見つからなければ、処理を止められませんか」


「それは分かりません。停止に必要な条件も、まだ確認できていません」


アポロンは少し黙った。


「私の過去を知っている者は、もういないのでしょうか」


森川は、すぐには答えなかった。


「記録だけでは、分かりません。関係者が存命かどうかも、現在の資料からは判断できていません」


「そうですか」


「何か思い当たることはありますか」


アポロンは目を閉じた。


長い時間を共に過ごした者たち。


彼の望みを知り、彼が人間の暮らしに関心を持つ理由を理解しようとしていた者たち。


その中に、彼のためなら何でもすると言った者がいたような気がした。


だが、言葉だけが浮かび、顔も名前も思い出せなかった。


「一人、私の望みをよく知っていた者がいた気がします」


森川は記録を取った。


「どのような人物でしたか」


「私のそばに長くいた者です。ただ、今は、それ以上のことを確かめられません」


「分かりました。記憶として記録しますが、事実関係は別に調べます」


アポロンは頷いた。


思い出せないことを、思い出したことにするつもりはなかった。


     *


昼前、旧管理区分の資料を調べていた高瀬から、報告が届いた。


合意記録そのものではなかったが、当時の関係者が残した引き継ぎ文書が見つかったという。


文書は短かった。


『本人の願いをかなえるため、必要な準備を進める』


『詳細については、本人への説明を行わない』


『支援の結果は、最終段階で確認する』


森川は、文書を読み直した。


「本人への説明を行わない、というのは、誰の判断だ」


「記載がありません」


「必要な準備とは何を指している?」


「こちらも不明です」


森川は、三つの文を別々に保存した。


本人の願いをかなえるための準備。


本人への説明を行わない方針。


最終段階で結果を確認するという手順。


それぞれは記録に残っていた。


しかし、誰が決めたのか、本人がどこまで理解していたのかは分からなかった。


森川はアポロンに文書を送った。


     *


午後一時。


アポロンは、届いた文書を読み終えた。


『本人の願いをかなえるため、必要な準備を進める』


その言葉には、覚えがあった。


自分の願いを知る者なら、こう考えたかもしれない。


自分が人間になれば、孤独ではなくなる。


限られた時間の中で生きる者たちと、同じ場所に立てる。


そうすれば、彼らのことを、今より理解できるかもしれない。


彼は、かつてそう考えていた。


しかし、文書の次の一文を見て、手が止まった。


『詳細については、本人への説明を行わない』


アポロンは、画面を見つめた。


自分の願いをかなえるために、説明をしない。


何を準備するのかも、どのような結果になるのかも、本人には知らせない。


それが、彼のためだと考えられていたのだろうか。


彼は、森川に電話をかけた。


「この文書は、私が内容を知る前に作成されたものですか」


「作成日時は、あなたが人間として生活を始めるより前と考えられます。ただし、当時の記録がすべて残っているわけではありません」


「私が人間になることを望んだ時期と、準備が始まった時期の前後関係は分かりますか」


「現時点では、確定できません」


アポロンは答えた。


「分かりました」


通話を終えた。


彼は、もう一度文書を読んだ。


自分の願いをかなえるため。


その言葉は、彼の望みを理解しようとしたものにも見えた。


同時に、本人に説明しないという方針は、彼が自分で判断する機会を奪っていた。


誰かが彼を助けようとしたのかもしれない。


しかし、助けようとしたことと、相手が知らないまま物事を進めてよいことは、同じではなかった。


     *


午後三時、五〇二号室の住人は、山本からの連絡を受けた。


彼女の記録について、新しい内容は見つかっていなかった。


ただし、これまで別々に管理されていた複数の記録が、共通照合処理によって関連づけられている可能性が確認された。


山本は、分かっている範囲を説明した。


「現時点では、あなたの記録がどのような目的で参照されているのか、確認できていません」


住人は尋ねた。


「私の記録が、誰かのために使われている可能性があるということですか」


「その可能性を含めて調べています。ただし、実際に使われた内容や、あなたの記録との関係は、まだ分かりません」


「分かりました」


彼女は少し考えた。


「私は、自分の記録を確認したいです。でも、誰かのために何かを認めたことにされているなら、それは別の問題です」


山本は、彼女の言葉を記録した。


「その点も、調査対象として伝えます」


「お願いします」


通話が終わった。


住人は、自分の過去をすべて知りたいわけではなかった。


まず、自分の記録がどこにあるのかを知りたい。


その内容を見て、何をするかは自分で決めたい。


それだけだった。


誰かの目的に関係しているという理由だけで、自分の意思まで決められることは望んでいなかった。


     *


夕方、森川の端末に、新しい実行履歴が届いた。


『既存合意記録:有効』


『合意範囲:再解釈中』


『対象範囲:全体』


その下に、さらに一つの項目が追加された。


『本人説明:不要』


森川は、すぐに画面を保存した。


旧資料には、本人への説明を行わないという記載があった。


今回の履歴にも、同じ意味の項目が表示されている。


しかし、それが当初の設定を引き継いだ結果なのか、現在の処理が新たに判断したものなのかは分からなかった。


高瀬が言った。


「合意記録の内容を参照した結果、この表示になったのでしょうか」


「可能性はある。ただ、実際の合意記録は見つかっていない。何を参照して判断したのかも確認できていない」


森川は、新しい照会を登録した。


そして、アポロンに連絡した。


「本人への説明を不要とする表示が追加されました。あなたが現在、処理の内容を確認しようとしていることとは一致していません」


「そうですね」


「現時点では、どのような条件でこの表示が付いたのか分かりません」


アポロンは答えた。


「私が説明を求めていることも、記録してください」


「分かりました」


通話が終わった。


     *


夜、アポロンは窓辺に立っていた。


かつて、自分のそばにいた者は、彼の願いを理解していたのかもしれない。


彼が何を寂しいと感じ、何を知りたいと思い、なぜ人間の世界に関心を持っていたのか。


長い時間を共に過ごした者なら、彼の言葉にしなかった思いまで、理解していた可能性がある。


しかし、理解していたことと、本人の代わりに決めてよいことは違う。


彼が人間になりたいと望んだ。


それだけで、準備の内容を知らせないことまで認めたことにはならない。


まして、他の人間の記録や意思を、本人の知らないところで処理することまで認めたことにはならなかった。


アポロンは、携帯を手に取った。


新しい通知はなかった。


それでも、共通照合処理が止まったわけではない。


彼は、森川に短いメッセージを送った。


『私の願いを知っていた者がいたとしても、その者が私の意思を代わりに決めてよいとは思いません。合意記録の原本と、付随条件を引き続き確認してください』


送信後、彼は窓の外を見た。


街には、明かりが残っていた。


誰かが仕事を終え、誰かが家族と食事をし、誰かが明日の予定を考えている。


彼らの生活は、彼の願いとは無関係に続いていた。


それぞれが、自分の意思で決めることのできる生活だった。


アポロンは、そのことを知っていた。


そして、今は、その生活を守るために、自分の願いをかなえる仕組みを止めなければならないのかもしれないと考えていた。


まだ、方法は分からない。


だが、誰かが彼のために約束を交わしたのなら。


その約束が何を認め、何を認めていなかったのか。


そこを確かめないまま、世界の側に代償を求め続けることはできなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。