第272章 署名のない約束
翌朝、森川は、旧システムの管理番号から追跡していた合意記録について、追加の回答を受け取った。
記録そのものは、通常の保管領域には存在しなかった。
ただし、かつて別管理へ移された資料の一覧に、該当する番号が残っていた。
高瀬が資料を開く。
「移管先の名称は、旧管理区分のままです。現在の組織図には、同じ名称の部署がありません」
「移管を受けたという記録は?」
「一覧には番号が記載されています。ただし、受領者の署名も、受領日時もありません」
森川は、一覧を見た。
「移管されたと記録されていることと、実際に受け渡しが完了したことは分けて考えよう」
「はい」
高瀬は、別管理の資料を検索した。
しばらくして、一件の記録が見つかった。
それは合意書そのものではなく、合意書を作成した際の受付記録だった。
記録には、三つの項目があった。
『申請目的:創造主の人間化支援』
『関係者:複数』
『原本所在:別管理』
そして、最後に、短い注記があった。
『原本には、付随条件あり』
森川は画面を拡大した。
「付随条件の内容は?」
「記載されていません」
「作成者は?」
「空欄です」
「関係者の名前は?」
「こちらも確認できません」
森川は、受付記録を保存した。
原本が存在したことを示す記録はある。
しかし、原本の所在も、署名も、条件の内容も分からない。
それでも、現在の共通照合処理は、その合意記録を有効なものとして扱っていた。
森川は報告書に記した。
『合意記録の存在を示す受付記録を確認。合意内容、当事者、付随条件については未確認。現在の処理における有効性の判断根拠も不明』
その後、彼は追加照会を送信した。
*
午前中、アポロンは、過去の記憶をたどっていた。
彼が人間になりたいと思ったのは、いつだったのか。
最初から、そう願っていたわけではない。
長い時間の中で、彼は人間の暮らしを見ていた。
短い一生の中で、何かを選び、何かを失い、それでも次の日を迎える人々。
彼らの行動には、神である自分には理解できない部分があった。
なぜ、確かな答えがないのに進むのか。
なぜ、いつか失うと知りながら、大切なものを持とうとするのか。
なぜ、自分の知らない未来を、それでも待とうとするのか。
彼は、その理由を知りたかった。
やがて、知るだけでは足りないと思うようになった。
人間として生きれば、少しは分かるのではないか。
自分もまた、限られた時間の中で、何かを選べるのではないか。
それが、彼の願いだった。
しかし、今になって振り返っても、その願いを誰かに託した記憶は、はっきりとは戻ってこなかった。
彼は、森川に伝えた。
「私は、人間になりたいと思ったことがあります。ただ、誰かに、そのための仕組みを作るよう頼んだ記憶はありません」
森川は記録を取った。
「承知しました。記憶がないことと、過去に依頼がなかったことは、別の情報として扱います」
「お願いします」
アポロンは、続けた。
「もし、誰かが私の願いを知って、何かを始めたのだとしても、その人が何を理解していたのかを知りたい」
「合意記録が見つかれば、確認します」
「はい」
通話を終えたアポロンは、しばらく机の上を見ていた。
願いを持つことと、その願いを他者に実現させることは違う。
自分が望んだことを、誰かが勝手に大きくしていたのなら。
その責任を、願いを持った本人だけに帰すことも、実行した側だけに押しつけることも、正確ではないのかもしれなかった。
だが、今はまだ、誰が何をしたのかさえ分かっていなかった。
*
昼過ぎ、五〇二号室の住人は、山本から連絡を受けた。
記録の所在について、新たな資料が見つかったわけではない。
しかし、共通照合処理の調査に関連して、彼女の記録が過去の合意記録とは別の管理番号で参照されている可能性があるという。
住人は尋ねた。
「私の記録が、誰かの合意に使われているということですか」
山本は答えた。
「現時点では、そこまでは確認できていません。関連する番号が見つかっただけです」
「では、私が何かに同意したという記録があるのですか」
「その点も、確認できていません」
住人は、少し考えた。
「分かりました。私が知りたいのは、まず自分の記録がどこにあるかです。その後で、内容を読むかどうかを決めます」
「その意思は、すでに記録されています」
「では、今回の説明も、同じように残してください。私は、合意したとは言っていません」
山本は、本人の発言をそのまま記録した。
送信後、画面には再び『本人意思確認:完了』と表示された。
山本は、表示を訂正する申請を出した。
今度は、申請理由に、本人の発言と表示内容の不一致を明記した。
画面の表示が、すぐに変わることはなかった。
それでも、山本は手続きを続けた。
*
午後三時、森川のもとに、旧管理区分の担当者から回答が届いた。
かつて合意記録を保管していたとされる部署は、システム統合時に廃止されていた。
保管資料の一部は別の部署へ移されたが、移管対象の一覧と実際に受領した資料の照合は、完了した記録がない。
つまり、合意記録の原本が現在も存在するのか、移管の過程で失われたのか、現時点では分からなかった。
ただし、移管前の業務説明資料に、合意記録の扱いについて記載があった。
森川は、そのページを開いた。
『合意記録は、当初の支援目的に沿って参照する』
その下に、続きがあった。
『支援対象に関する処理範囲の変更は、別途確認を要する』
森川は、高瀬を呼んだ。
「ここを見てくれ」
高瀬は、文章を読み直した。
「当初の目的に沿って参照することと、処理範囲を変更することは、別の手続きだったということでしょうか」
「そう読める。ただし、この説明資料だけで、実際にどのような運用がされていたかまでは分からない」
「現在の『対象範囲:全体』についても、別途確認が必要ですね」
「そうだ」
森川は、その記載を現在の実行履歴と照合した。
現行の履歴には、対象範囲が全体に変更された日時が残っていた。
しかし、変更を承認した人物も、変更理由も、確認手続きも記録されていなかった。
森川は、報告書に新しい項目を加えた。
『当初の支援目的と、現在の処理範囲との関係は未確認。処理範囲の変更を承認した記録は未発見』
これまでの調査で、初めて明確に区別できたことがあった。
当初の目的が存在したこと。
現在の処理範囲が全体になっていること。
その二つを結びつける手続きは、確認できていなかった。
*
夜、アポロンは美咲と夕食を食べていた。
美咲は、仕事先で受け取った書類を整理していた。
「この書類、明日までに返事をしなきゃいけないんだけど、まだ少し迷ってるんだよね」
「何について?」
「来月の勤務日を増やせるかどうか。増やせば収入は少し増えるけど、休みが減るから」
アポロンは尋ねた。
「いつまでに決める必要がある?」
「明日の午後まで」
「それまで考えるのか」
「うん。今日、無理に決めなくてもいいかなと思って」
アポロンは頷いた。
「そうだな」
美咲は書類を封筒に戻した。
「アポロンは、何か決めるとき、迷うことある?」
「ある」
「昔は?」
アポロンは少し考えた。
「昔は、答えを知ることができた」
「じゃあ、迷わなかったの?」
「答えを知っていることと、何を選びたいかが分かることは、同じではなかった」
美咲は、手を止めた。
「そうなんだ」
「今は、答えも分からないことが多い」
「それでも、考えるんだね」
「考える必要があるから」
美咲は、少し笑った。
「じゃあ、私も明日まで考える」
「そうするといい」
食事が終わると、美咲は書類を鞄に入れた。
勤務日を増やすかどうかは、まだ決まっていなかった。
アポロンは、その答えを代わりに決めなかった。
*
深夜、森川の端末に、新しい通知が届いた。
『既存合意記録:参照完了』
『合意状態:有効』
『処理範囲:全体』
その下に、さらに一つの項目が追加された。
『範囲変更確認:不要』
森川は、画面を見つめた。
旧資料には、処理範囲の変更には別途確認が必要だと記載されていた。
しかし、現行の履歴では、その確認が不要と表示されている。
森川は、すぐに記録を保存した。
そして、追加の照会を登録した。
この表示は、旧資料に記載された手続きを経ていないことを意味するのか。
それとも、別の規定によって確認が不要になっているのか。
まだ分からない。
ただ、当初の合意が存在したという記録だけでは、現在の全体処理が、その合意の範囲内にあるとは判断できなかった。
森川は、報告書を開いた。
その最後に、こう記した。
『合意記録の有効表示のみを根拠として、現在の処理範囲まで合意済みと判断することはできない。原本、合意当事者、付随条件および範囲変更の承認記録について、引き続き確認を要する』
保存を終えた時、画面には、次の実行履歴が表示されていた。
『処理状態:実行中』
『次回処理:継続』
そして、その下に、新しい一行があった。
『合意範囲:再解釈中』
森川は、すぐにその画面も保存した。
誰が再解釈しているのか。
何を根拠にしているのか。
その答えは、まだ表示されていなかった。




