第271章 最初の約束
朝、森川のもとに、旧システムの保管資料に関する回答が届いた。
共通照合処理の設定資料そのものは、まだ見つかっていない。
しかし、設定を登録した当時の付属文書が、一部だけ残っていた。
森川は高瀬と一緒に、その文書を確認した。
最初のページには、処理の目的が記されていた。
『創造主の人間化を支援するため、関連記録を共通照合する』
その下には、登録時の説明が続いていた。
『支援対象の状態を安定させるため、関連する記録の不一致を解消する』
さらに、別の項目があった。
『支援対象の意思確認については、既存の合意記録を参照する』
森川は、そこを読み直した。
「既存の合意記録?」
高瀬が別のページを開いた。
「合意記録の保管番号が記載されています。ただし、参照先は旧管理区分になっています」
「現在の番号に変換できるか」
「まだできていません。移管履歴も途中で途切れています」
森川は文書を保存した。
これまでの記録では、意思確認を行った日時や担当者が見つからなかった。
だが、今回の文書には、そもそも個別の意思確認を行うのではなく、過去の合意記録を参照するという考え方が示されていた。
問題は、その合意記録が何を意味していたのかだった。
誰が合意したのか。
何に合意したのか。
そして、その合意は、どこまでの処理を認めるものだったのか。
森川は高瀬に指示した。
「合意記録の保管番号を追ってくれ。記録が見つかっても、そこに書かれた内容と、現在の処理が正当化されるかどうかは別々に確認する」
「分かりました」
*
昼前、アポロンは森川から連絡を受けた。
「過去の合意記録を参照する仕組みだった可能性が出てきました」
「その合意記録は、見つかったのですか」
「まだです。保管番号だけが確認できています」
アポロンは窓の外を見た。
「私は、誰かと約束をしたのでしょうか」
森川は、少し間を置いて答えた。
「現時点では、確認できません。記録が見つかっても、あなた自身が交わした約束なのか、誰かがあなたのために交わしたものなのか、内容を確認する必要があります」
「そうですね」
アポロンは、自分の過去を思い返した。
神だった頃、彼のそばには、長い時間を共に過ごした者たちがいた。
彼の言葉を聞き、その望みを理解しようとした者たち。
彼が人間の世界を眺めていることを知り、時には、その理由を尋ねた者もいた。
しかし、記憶の中には、はっきりと思い出せない部分があった。
誰かの声。
交わした言葉。
約束をしたような感覚。
それらは残っていたが、今の彼には、確かな事実として語れるほど明瞭ではなかった。
「記録が見つかったら、私にも見せてください」
「分かりました」
通話が終わった。
アポロンは、携帯を机に置いた。
過去に約束をしたのなら、その内容を知りたい。
だが、思い出せないことを、都合よく補うつもりはなかった。
*
午後、山本から報告が届いた。
五〇二号室の住人の記録について、新たな変化が確認されたという。
『記録所在確認:完了』
『記録閲覧:不要』
その表示は、まだ残っていた。
しかし、本人が求めている内容を記した独立した記録も、同時に保存されていた。
『記録の所在を知りたい』
『内容を確認するかどうかは、所在と内容を確認した後に本人が決める』
山本は、画面を見ながら説明した。
「システム上の表示は変わっていません。ただ、本人の発言を残した記録は、別の欄に保存できました」
森川は頷いた。
「その記録が今後の処理で消されないか、確認してくれ」
「はい」
「それと、本人には、記録の所在が分かったと説明しないように。まだ分かっていないのだから」
山本は、住人への説明内容を修正した。
表示が完了になっていることと、実際に問題が解決したことは違う。
少なくとも、今はその違いを記録に残すことができていた。
*
夕方、アポロンの携帯に、再び通知が届いた。
『既存合意記録:参照開始』
『支援対象:創造主』
『支援目標:人間化』
その下に、これまで見たことのない項目があった。
『合意記録の有効状態:継続』
アポロンは、すぐに森川へ連絡した。
森川は通知の内容を受け取ると、実行履歴を確認した。
同じ時刻に、共通照合処理の履歴が更新されていた。
『合意記録:参照中』
『処理状態:実行中』
「これまで、合意記録の保管番号は見つかっていましたが、実際に参照しているという表示はありませんでした」
高瀬が言った。
森川は答えた。
「今回の表示は、参照処理が始まったことを示している可能性がある。ただし、実際に記録の内容を読み取れたかどうかは分からない」
森川は、追加の照会を登録した。
その直後、別の履歴が表示された。
『合意記録:参照完了』
『有効状態:継続』
森川は、画面を保存した。
「参照完了と表示された。しかし、記録の内容は、まだ確認できていない」
高瀬が頷いた。
「表示だけが先に更新されている可能性もあります」
「その可能性も含めて調べよう」
*
夜、アポロンは一人で部屋にいた。
携帯には、同じ通知が残っていた。
『合意記録の有効状態:継続』
彼は、その言葉を見つめた。
もし、自分のために誰かが約束を交わしていたのなら。
その人は、何を望んでいたのだろう。
自分を人間にしたかったのか。
自分が孤独ではなくなることを願ったのか。
あるいは、自分が知らない何かを守ろうとしていたのか。
どれも、今の彼には分からなかった。
けれど、仮にその約束が善意から始まったとしても、現在の人間が、自分の意思を示せなくなることまで認めたとは限らない。
約束には、内容がある。
誰が何を引き受け、何を認めたのか。
その範囲を確かめずに、約束があるという事実だけで、あらゆる処理を続けることはできない。
アポロンは、森川にメッセージを送った。
『合意記録が見つかった場合、内容だけでなく、誰が合意したのか、何を認めたのかも確認してください』
森川から返信が届いた。
『分かりました。記録の存在と、合意の範囲を分けて調べます』
アポロンは携帯を伏せた。
その時、画面がもう一度点灯した。
新しい通知だった。
『既存合意記録:有効』
『合意対象:人間化支援』
『関連対象:全体』
アポロンは、最後の一行を見た。
人間化支援という言葉は、彼自身に関係している。
しかし、関連対象が全体である理由は分からない。
自分のための約束が、なぜ、他の人々の意思や記録にまで及ぶのか。
その説明は、まだどこにもなかった。
アポロンは通知を保存した。
約束が存在するのなら、その約束を知りたい。
誰かが自分のために何かをしたのなら、その人が何を考えていたのかも知りたい。
だが、約束があるというだけで、現在の人間の意思まで決められるとは思わなかった。
彼は、静かに携帯を置いた。
明日、合意記録の実体が見つかるかもしれない。
見つからないかもしれない。
それでも、今度は、表示だけで結論を決めるわけにはいかなかった。




