第270章 明日を知らない神様
朝、世界は昨日と同じように動いていた。
電車が走り、店が開き、人々は仕事へ向かった。
けれど、いくつかの場所では、いつも使っていたものが使えなくなっていた。
病院の受付端末が、患者の登録情報を読み込めない。
介護施設の連絡先一覧から、利用者の家族の名前が消えている。
行政窓口では、本人が目の前にいるのに、システム上では本人確認が完了していた。
それぞれの現場では、紙の記録や電話による確認を使って、対応が続けられていた。
すべてが止まったわけではない。
しかし、今まで機械に任せていた確認を、人間が一つずつやり直さなければならなくなっていた。
森川は、午前中に集まった報告を確認していた。
高瀬が言った。
「共通照合処理の通知が、複数の管理領域で確認されています。昨日までの記録より、対象が広がっている可能性があります」
「実際に変更された情報と、表示だけが変わった情報を区別してくれ」
「はい」
「それから、本人が明確に否定した内容については、その発言を独立した記録として残す。システムの表示で上書きしないように」
高瀬は頷いた。
森川は、昨夜アポロンから届いた通知を開いた。
『支援対象:創造主』
『支援目標:人間化』
『未達条件:人間化の完了』
『対象範囲:全体』
これまでの調査で見つかった記録と、初めて明確につながった部分だった。
ただし、表示の意味をすべて理解できたわけではない。
なぜ人間化が完了していないのか。
なぜ全体が対象になるのか。
誰がこの条件を設定したのか。
どれも、まだ確認できていなかった。
森川はアポロンに連絡した。
「これから、あなた自身の過去の記録も含めて調べます。ただし、過去に何かを望んだことと、現在の処理に同意していることは、別々に扱います」
「そうしてください」
アポロンは答えた。
「私は、人間になりたいと思ったことがある。だが、それを理由に、他の人の意思を決めていいとは思わない」
「その発言も記録します」
「お願いします」
通話は、それで終わった。
*
昼前、アポロンは美咲と短い連絡を交わした。
『今日、帰りが少し遅くなる』
『分かった。夕食は先に食べていてもいいよ』
『一緒に食べたい』
少しして、返信が届いた。
『じゃあ、帰れる時間が分かったら連絡するね』
アポロンは画面を閉じた。
帰宅時間は決まっていない。
夕食を一緒に食べられるかも、まだ分からない。
それでも、二人の間では、それで話が済んでいた。
誰かが代わりに時間を確定する必要はなかった。
誰かが、返事をしたことだけを根拠に、その先の意思まで決める必要もなかった。
アポロンは携帯をしまい、森川のいる場所へ向かった。
*
午後、森川たちは、旧システムの管理記録をさらに調べていた。
新たに見つかったのは、共通照合処理の目的を登録した際の記録だった。
登録者の欄は空白。
承認者の欄も空白。
ただし、目的の欄には、昨夜の通知と同じ文言が残っていた。
『創造主の人間化を支援する』
そして、その下には、別の項目があった。
『支援対象の意思確認:不要』
高瀬が画面を見た。
「この項目は、本人の意思確認を行わずに処理を進める設定だったのでしょうか」
森川は答えた。
「その可能性はある。ただ、項目が何を意味するのか、設定時の説明がない。断定はできない」
「現在の処理にも、この設定が引き継がれているのでしょうか」
「それを確認する必要がある」
森川は、旧記録と現行の実行履歴を照合した。
完全な一致は確認できなかった。
旧記録には、現在の処理条件がすべて記載されているわけではない。
それでも、共通する項目が複数あった。
人間化。
共通照合。
対象範囲。
そして、意思確認の扱い。
森川は記録を保存した。
過去の設定が現在の処理にどこまで引き継がれているのか。
まだ分からない。
しかし、本人の意思を確認しないという項目が、目的の登録記録に存在していたことは、確認できた。
*
夕方、アポロンは森川たちと合流した。
見つかった記録を読み終えると、彼はしばらく黙っていた。
「この設定を、私が決めたという記録はありますか」
「今のところ、ありません」
「では、私が同意したという記録は」
「それも、確認できていません」
森川は正直に答えた。
「ただし、記録がないことだけで、過去に何もなかったとは言えません。別の場所に資料が残っている可能性もあります」
「分かっています」
アポロンは、画面を見た。
かつて、自分のそばには、長い時間を共に過ごした者がいた。
自分の考えを理解しようとし、自分の望みをかなえようとした者たちがいた。
彼らが何を考えていたのか。
何を約束し、何を恐れていたのか。
今のアポロンには、すべてを確かめることができない。
しかし、もし誰かが善意から始めたことだったとしても、その結果を、現在の人間が無条件に引き受けなければならない理由にはならなかった。
アポロンは森川に言った。
「処理を止める方法を探してください。私の過去については、その後も調べます」
「分かりました」
「ただし、私が人間になることを、すべての問題の解決条件にしないでください」
森川は、その言葉を記録した。
*
夜、異変は一つの場所に集中して起きた。
市内の複数の施設で、共通照合処理の実行履歴が一斉に更新された。
『対象範囲:全体』
『処理状態:実行中』
『未照合対象:再選定』
その直後、別の表示が現れた。
『支援対象の意思確認:完了』
『人間化処理:最終段階』
森川は画面を見た。
「最終段階?」
高瀬が別の履歴を開いた。
そこにも、同じ表示があった。
しかし、何が最終段階なのか。
どのような処理が行われるのか。
その説明はなかった。
森川は、すぐにアポロンへ連絡した。
「新しい表示が出ています。人間化処理が最終段階に入ったと記録されています」
アポロンは、携帯を見つめた。
「本人の意思確認は?」
「完了と表示されています。ただし、確認の日時や方法、担当者は分かりません」
「私自身は、何も確認していません」
森川は答えた。
「その発言を記録します」
アポロンは目を閉じた。
彼は、かつて神だった。
世界のすべてを知り、あらゆる場所の出来事を見渡すことができた。
だが、今は違う。
自分の知らないところで、自分の意思が確定したことになっている。
その結果として、他の人間の記録や生活が変えられている。
そして、誰もその処理を止める方法を知らない。
アポロンは目を開いた。
「私が確認していないものを、確認済みとして扱うことはできません」
森川は、その言葉を記録した。
*
深夜、アポロンは一人で部屋にいた。
携帯の画面には、最後の通知が表示されていた。
『人間化処理:最終段階』
『支援対象の意思確認:完了』
『処理継続条件:未達』
三つの表示は、互いに矛盾しているように見えた。
意思確認が完了している。
しかし、処理はまだ終わっていない。
人間化は最終段階に入っている。
それでも、継続条件は満たされていない。
アポロンは、通知の内容を保存した。
そして、初めて、自分自身に問いかけた。
自分が人間になりたいと望んだことは、誰かにとって、どれほど大きな意味を持っていたのだろう。
その願いをかなえるために、誰かが約束を交わしたのだろうか。
もしそうなら、その約束は、どこまで理解されていたのだろう。
答えは分からない。
彼は、まだ過去のすべてを思い出してはいなかった。
けれど、今の自分には、はっきりと言えることがあった。
人間になりたいという願いと、他の人間の人生を差し出すことは、同じではない。
その二つを結びつけた仕組みがあるのなら。
自分が神だったという事実も、その仕組みが作られた経緯も、言い訳にはならない。
アポロンは携帯を置いた。
窓の外では、夜の街が動いていた。
誰かが帰宅し、誰かが仕事へ向かい、誰かが眠りにつこうとしている。
彼らの明日が、どのようなものになるのか。
アポロンには分からなかった。
かつてなら、すべてを知ることができた。
今は、知らない。
それでも、彼は思った。
明日を知らないことと、明日を奪っていいことは違う。
そして、自分が人間になるために、世界が壊れていくのなら。
その願いを、かなえる必要はなかった。




