第269章 誰のための世界
翌朝、森川の端末に、情報管理部門から緊急の連絡が届いた。
共通照合処理の実行範囲が、行政記録だけに限られていない可能性があるという。
最初に確認されたのは、行政の管理区分とは無関係な複数の端末だった。
通知の内容は、それぞれ異なっていた。
『登録情報:照合完了』
『本人意思確認:完了』
『対象状態:確定』
いずれも、本人が操作した記録は見つからなかった。
森川は、高瀬に資料を集めるよう指示した。
「通知が表示されたという事実と、実際に情報が変更されたという事実を分けてくれ。影響が出ている範囲も、推測で広げないように」
「分かりました」
しかし、調査を始めて間もなく、別の報告が入った。
複数の施設で、端末に表示されていた利用者情報が、一時的に参照できなくなっている。
一部では、本人がその場にいるにもかかわらず、システム上の本人確認が完了しない。
別の施設では、本人確認が完了したと表示されているのに、実際の担当者が本人を特定できない。
現場では、従来の確認方法を使って対応を続けていた。
問題は、画面の表示だけでは終わらなくなり始めていた。
*
午前十時、アポロンは森川から連絡を受けた。
「昨日までと比べて、何が変わりましたか」
アポロンが尋ねると、森川は答えた。
「処理の対象が、特定の管理記録だけではない可能性が出てきました。現在、影響範囲を確認しています」
「共通照合処理が、別の仕組みからも実行されているのですか」
「まだ分かりません。ただ、これまでの行政記録と同じ番号が、別の場所でも確認されています」
アポロンは、少し黙った。
「止める方法は?」
「停止権限を持つ部署も、停止条件も、まだ確認できていません」
「分かりました」
通話を終えた後、アポロンは窓の外を見た。
かつて、彼は世界のあらゆる変化を知っていた。
人間が何を考え、何を選び、どこへ向かうのか。
そのすべてを、知ることができた。
しかし、知ることと、他者の意思を決めることは同じではない。
今、彼の知らないところで、何かが人間の意思を確定し続けている。
その仕組みが、自分と無関係だとは思えなかった。
けれど、まだ確かな根拠はない。
アポロンは森川に伝えた。
「通知と実行履歴を、引き続き調べてください。私も、自分に関係する記録を確認します」
*
昼過ぎ、五〇二号室の住人は、山本と向かい合っていた。
山本は、追加で見つかった記録について説明していた。
「以前の照会番号に関連する記録が、新しい実行履歴に含まれていることが分かりました。ただし、記録の内容と現在の処理との関係は、まだ確認できていません」
住人は尋ねた。
「私の記録は、どこにあるんですか」
「現在も確認できていません」
「では、何が完了したんですか」
山本は、すぐには答えられなかった。
画面には『記録所在確認:完了』と表示されている。
しかし、保管先は空白のままだった。
「表示の根拠を確認しています。今の段階では、所在が確認できたとは説明できません」
住人は頷いた。
「それを、そのまま記録してください」
「はい」
「それから、私が記録を見たいかどうかは、私が決めます。見つかったからといって、すぐに見なければならないわけではありません」
「その点も、記録に残します」
山本は、本人の発言をそのまま入力した。
送信前に、内容を読み上げた。
住人は、記載された言葉を確認した。
「それでいいです」
山本が送信すると、画面が更新された。
『本人意思確認:完了』
続いて、別の表示が現れた。
『記録閲覧:不要』
山本は画面を見つめた。
住人は、何も言わずに表示を確認した。
「私は、閲覧しないとは言っていません」
山本はすぐに記録を保存した。
「分かっています。今の発言と、画面の表示は一致していません」
彼は、別の記録欄に、本人が実際に述べた内容を入力した。
閲覧するかどうかは、記録の所在と内容を確認してから本人が決める。
現時点では、閲覧の意思は確定していない。
送信後、画面には二つの記録が残った。
システムの表示。
そして、本人の発言。
どちらか一方を消すことはしなかった。
*
午後三時、森川たちは、共通照合処理の設定資料について新しい情報を得た。
旧システムの管理番号から、さらに別の管理領域へつながる参照先が見つかったのだ。
ただし、そこに保存されていたのは、設定資料そのものではなかった。
資料の表題と、管理番号。
そして、短い目的の記載だけだった。
『創造主の人間化を支援するため、関連記録を共通照合する』
森川は、その文章を何度も読み直した。
「創造主とは、誰を指しているんだ」
高瀬は答えなかった。
資料には、人物名が記載されていなかった。
目的の承認者も、設定を行った担当者も分からない。
この一文だけで、現在の処理とアポロンを結びつけることはできなかった。
しかし、アポロンに関する調査記録と、無関係だと断定することもできなくなった。
森川は、資料を保存した。
「この文書が何を意味するのかは、本人にも確認する必要がある。ただし、記載されている目的と、現在の処理が同じものだとは限らない」
「はい」
「設定資料の所在を、引き続き調べよう」
高瀬は追加照会を送信した。
*
夕方、アポロンは森川のもとを訪れた。
森川は、見つかった文書を見せた。
アポロンは、記載された一文を読んだ。
『創造主の人間化を支援するため、関連記録を共通照合する』
しばらく、何も言わなかった。
森川が尋ねた。
「この記載に、心当たりはありますか」
「創造主という言葉には、心当たりがある」
「あなた自身のことですか」
「かつて、そう呼ばれていた」
森川は、記録を取った。
「では、この処理は、あなたを人間にするためのものだと考えられますか」
アポロンは、すぐには答えなかった。
「この文書だけでは、分からない。目的として書かれていることと、実際に行われている処理が同じとは限らない」
「分かりました」
森川は、文書の記載とアポロンの発言を分けて記録した。
アポロンは続けた。
「ただ、一つ確認したいことがある」
「何でしょう」
「この処理を止めるために、私が何かを失う必要があるのか」
森川は顔を上げた。
「現時点では、分かりません」
「そうか」
アポロンは、それ以上は尋ねなかった。
彼には、過去の記憶があった。
自分が人間になることを望んだ時期があったことも。
その願いが、誰かの意思と結びついていた可能性も。
しかし、今目の前にある記録が、当時の自分の選択を正確に表しているとは限らない。
過去に望んだことがあったとしても、現在の人間を傷つけることまで望んだわけではなかった。
その二つを、同じものとして扱うことはできない。
*
夜、アポロンは一人で帰宅した。
部屋の明かりをつけ、携帯を机に置いた。
新しい通知は届いていなかった。
彼は、しばらく画面を見ていた。
自分が人間になるために、誰かが何かを準備したのだとしたら。
その準備は、いつ始まったのか。
誰が関わり、何を知っていたのか。
そして、なぜ今になって、本人の意思を確認しない処理が続いているのか。
答えは、まだない。
やがて、携帯の画面が点灯した。
通知の送信元は表示されなかった。
『共通照合処理:目的確認』
その下に、短い文章が続いていた。
『支援対象:創造主』
『支援目標:人間化』
『処理状態:継続中』
アポロンは、画面を見つめた。
これまでの通知にはなかった、目的そのものを示す表示だった。
しかし、誰がその目的を設定したのか。
そして、どのような手段で実現しようとしているのか。
説明はなかった。
画面が再び更新された。
『未達条件:人間化の完了』
『対象範囲:全体』
アポロンは携帯を手に取った。
人間化が完了していないから、処理が続いている。
そして、対象範囲は全体。
それが何を意味するのか、まだ分からない。
ただ一つ、確かになったことがあった。
この仕組みは、過去の記録を整理するためだけに動いているのではない。
何かを実現するために、現在も処理を続けている。
アポロンは森川に連絡した。
「新しい通知が届きました。支援対象が創造主、支援目標が人間化と表示されています」
森川は、すぐに記録を求めた。
アポロンは、通知の内容と受信時刻を送った。
「対象範囲は、全体です」
通話の向こうで、森川はしばらく黙っていた。
やがて、答えた。
「確認しました。明日、これまでの記録と照合します」
「お願いします」
通話が終わった。
アポロンは、携帯を机に置いた。
かつて、自分は人間になりたいと思った。
しかし、今の自分は、その願いをかなえるために、誰かの意思を奪ってほしいとは思っていない。
誰かの時間を。
誰かの記憶を。
誰かが自分で決めるはずだった未来を。
そのすべてを差し出してまで、人間になりたいとは思わなかった。
それでも、仕組みは止まっていない。
彼が望んだことを実現するために。
彼が望んでいない方法で。
世界の側が、何かを失い始めていた。




