第267章 選ばれる側
朝、森川は出勤すると、前夜に保存した実行履歴を開いた。
『対象選定条件:適用済み』
その表示は、今朝も残っていた。
条件の内容は空白。
設定者も不明。
それでも、共通照合処理は止まっていなかった。
高瀬が資料を持ってきた。
「別管理の設定資料について、保管先の候補が一つ見つかりました」
「候補?」
「旧システムの管理台帳に、資料を移管したという記録があります。ただし、受領者と移管先の部署名が欠けています」
森川は台帳を受け取った。
記載された移管日は、旧システムの統合直前だった。
資料名は、共通照合処理設定資料。
移管理由の欄には、短い文があった。
『処理継続に必要なため』
森川は、そこを指で押さえた。
「処理を継続するために、設定資料を移したのか」
「そう読めます。ただ、移管後に何が変更されたのかは分かりません」
「移管前の設定と、現在の設定が同じだという保証もないな」
「はい」
森川は台帳を保存した。
今度は、資料の所在だけではない。
処理が継続される理由そのものが、調査対象になった。
*
午前十時過ぎ、アポロンは駅へ向かう途中で足を止めた。
前を歩いていた男性が、急に立ち止まったからだった。
男性はスマートフォンを見つめていた。
画面を何度も操作し、周囲を見回している。
「すみません」
男性が近くにいた駅員に声をかけた。
「今、電車に乗っていたんですが……自分がどこで降りるつもりだったのか、分からなくなって」
駅員は、男性の様子を確認した。
「お名前や、行き先は分かりますか」
「名前は分かります。家の住所も。でも、さっきまで考えていたことが、急に抜けてしまったんです」
男性は困ったように笑った。
「寝不足かもしれません」
駅員は、休める場所へ案内しようとした。
その時、男性のスマートフォンが鳴った。
画面には、見慣れない通知が表示されていた。
『共通照合処理:完了』
『本人確認:完了』
『対象状態:確定』
男性は通知を見たまま、動かなかった。
「これ、何ですかね」
駅員が画面をのぞき込む。
「心当たりはありますか」
「ありません。こんなもの、頼んだ覚えもないです」
男性は通知を消そうとした。
しかし、画面を閉じても、同じ通知が再び表示された。
アポロンは、その文字列を見ていた。
森川たちが調べている記録と、同じ名称だった。
ただし、目の前の男性が受け取った通知と、行政記録の処理が同一の仕組みによるものかどうかは、まだ分からない。
アポロンは男性に声をかけた。
「少し休んだ方がいい」
男性は顔を上げた。
「そうですね。頭がぼんやりしていて」
駅員は男性を休憩できる場所へ案内した。
アポロンは、その場を離れる前に、通知の内容と時刻を確認した。
男性は、自分の名前を覚えていた。
住所も分かっていた。
何もかもを失ったわけではない。
しかし、本人が知らないところで、何かが完了したことになっていた。
その表示を、男性自身が取り消す方法は、画面には見当たらなかった。
*
昼前、アポロンは森川に連絡した。
男性の氏名や住所は伝えず、通知の文言と受信時刻だけを伝えた。
森川はすぐに確認した。
「同じ名称の処理が、別の端末にも表示されたということですね」
「そうです。ただ、男性の体調と通知の関係は分かりません」
「分かりました。通知の表示と、本人が話していた状態は、別々の事実として記録します」
「お願いします」
通話が終わった。
アポロンは、駅のベンチに座った。
人間の記憶は、疲労や睡眠不足でも曖昧になる。
一時的な不調が、何かの処理と同時に起きることもある。
だから、通知が原因だとは言えない。
しかし、男性が同意していない処理を、本人確認済みとして表示することには、別の問題があった。
原因が分からなくても、本人が何を望んでいるかを確認せずに、本人の状態を確定してよい理由にはならない。
アポロンは立ち上がった。
駅の改札を通る人々は、それぞれの行き先へ向かっていた。
誰が何を考えているのか。
何を望み、何を諦め、どこへ行こうとしているのか。
彼は、かつてなら、それらを知ることができた。
今は、目の前の一人についてさえ、分からないことがある。
それでも、本人が話す前に、その人の答えを決める必要はなかった。
*
午後、森川は新しい通知について、情報管理部門へ照会を行った。
回答は、これまでと同じだった。
通常の通知配信記録には、送信元が見当たらない。
ただし、今回は一つだけ違いがあった。
通知に含まれていた処理番号が、行政記録の共通照合処理の実行番号と一致していた。
森川は、番号を照合した。
一致している。
だが、その番号が同じ処理を指すのか、別の仕組みで共有されている識別番号なのかは、まだ確認できなかった。
高瀬が画面を見た。
「これまでの通知と違って、今回は実行履歴との一致が確認できました」
「番号が一致したことは事実だ。ただし、同じ処理主体だとはまだ言えない」
「はい」
森川は、照会結果を保存した。
その直後、画面の表示が更新された。
『対象選定条件:適用済み』
『処理結果:確定』
『本人確認:完了』
対象者の欄には、新しい識別番号が表示されていた。
森川は、その番号を検索した。
該当する人物情報は見つからなかった。
「高瀬、この番号を確認してくれ」
高瀬が検索範囲を広げた。
旧システム、現行システム、別管理の索引。
どこにも、人物情報は見つからなかった。
ただし、番号そのものは実行履歴に存在していた。
森川は記録を保存した。
本人情報が見つからないことと、人物が存在しないことは同じではない。
管理区分が違うのかもしれない。
記録が失われているのかもしれない。
あるいは、識別番号の意味を取り違えている可能性もある。
どれも、まだ仮説だった。
*
夕方、美咲は仕事から帰ると、玄関でアポロンに声をかけた。
「今日、何かあった?」
アポロンは少し考えた。
「駅で、困っている人を見た」
「具合が悪そうだったの?」
「本人は寝不足かもしれないと言っていた。原因は分からない」
美咲は靴を脱いだ。
「大丈夫だった?」
「駅員が休める場所へ案内していた」
「そっか」
美咲は、それ以上は聞かなかった。
アポロンも、男性について知っている以上のことは話さなかった。
夕食の準備をしながら、美咲が言った。
「明日、帰りにスーパーへ寄ろうと思うんだけど、何か必要なものある?」
「牛乳」
「この前買ったばかりじゃなかった?」
「残りが少ない」
「分かった。じゃあ、帰りに見てくるね」
「一緒に行くこともできる」
「明日は少し遅くなるかもしれないから、先に帰っていてもいいよ」
「分かった」
二人は、それ以上予定を決めなかった。
夕食を食べ終えると、美咲は明日の仕事の準備を始めた。
アポロンは、今日の通知について記録したメモを開いた。
通知の文言。
受信時刻。
実行番号との一致。
男性の発言。
それぞれを、分けて書いていた。
最後に、彼は一行を追加した。
『通知を受け取った本人は、その処理を依頼していないと話した』
それは、本人が実際に述べたことだった。
通知が何を意味するのかは、まだ分からない。
しかし、本人の言葉まで、画面の表示に置き換えることはできなかった。
*
同じ頃、森川の端末に、新しい実行履歴が表示された。
『対象範囲:全体』
『処理状態:実行中』
『次回処理:継続』
その下に、さらに一つの項目が追加された。
『未照合対象:再選定』
森川は、表示を見つめた。
未照合対象とは、何を指すのか。
再選定とは、誰が、どの条件で行うのか。
説明はなかった。
数秒後、未照合対象の件数が更新された。
前の件数は、履歴に残っていなかった。
森川は、更新後の画面を保存した。
そして、初めて一つの可能性を調査記録に加えた。
共通照合処理は、既存の記録を確認するだけではないのかもしれない。
現在の記録から対象を選び直し、次の処理へ進めている可能性がある。
まだ、証拠は足りない。
しかし、もしそうなら。
過去の記録を整理するための仕組みが、今を生きている人々を、新たな処理対象として選び続けていることになる。
森川は、報告書を保存した。
画面には、最後の表示が残っていた。
『次回処理:継続』




