第264章 全体
高瀬が取得した実行履歴は、通常の処理記録とは異なっていた。
対象番号の欄には、個別の番号がない。
『全体』
その文字列だけが記載されていた。
森川は、画面を確認した。
「これは、全ての記録を対象にするという意味なのか?」
「現時点では分かりません。処理の設定資料が見つかっていないので、『全体』が何を指すのか確認できません」
「実際に更新された記録は?」
「履歴に残っているものを抽出しています。ただ、今回の実行がどの範囲に影響したのか、一覧だけでは判断できません」
森川は頷いた。
『全体』という表示は、対象の範囲を示しているように見える。
しかし、それが一つの管理区分全体なのか、複数の管理区分を横断するものなのか、あるいは別の意味を持つのかは不明だった。
「過去に同じ表示が使われたことはあるか?」
「現在確認できる履歴では、見つかっていません」
「では、今回の実行履歴を保存して、直前と直後の記録も取得してくれ。表示が出たことだけで、全ての記録が処理されたと判断するわけにはいかない」
高瀬は作業を続けた。
*
午前中、山本は五〇二号室の住民に、調査の進捗を伝えた。
「参照先の番号と一致する記録が、別の管理区分に存在することは確認できました。ただ、資料の内容と現在の保管先は、まだ確認できていません」
「その記録は、今も残っているんですか」
「現在の一覧では、対象記録として表示されていません。ただし、記録そのものが存在しないという意味なのか、通常の照会対象から外れているという意味なのかは、確認できていません」
住民は少し考えた。
「では、私の記録が消えたのかどうかも、まだ分からないんですね」
「はい。現時点では、そうなります」
「分かりました。確認できたことと、分からないことを、そのまま教えてください」
「承知しました」
通話を終えた山本は、住民の言葉を記録した。
彼女は、過去の記録を無理に見たいと言っているわけではなかった。
まず、自分に関係する記録がどこにあるのかを知りたい。
そのうえで、内容を読むかどうかを決めたい。
山本は、その順番を変えずに調査を続けることにした。
*
昼過ぎ、森川の端末に、共通照合処理の追加履歴が届いた。
直前の記録には、個別の対象番号が残っていた。
その数分後、対象範囲が『全体』に変更されていた。
そして、その後の履歴には、複数の管理区分に属する記録が並んでいた。
ただし、すべての記録に更新が行われたわけではなかった。
一部は状態が変わっている。
一部は以前の状態のまま残っている。
一部は、処理結果の欄そのものが空白だった。
森川は高瀬に尋ねた。
「対象範囲が全体に変わった後、何が基準になって処理されている?」
「その条件を示す記録がありません。対象になったものと、対象にならなかったものの違いも、現時点では説明できません」
「処理を実行した管理者の記録は?」
「見つかっていません」
森川は画面を見た。
処理対象が広がったように見える。
しかし、どこまで広がったのかは分からない。
それでも、個別の案件だけを調べていればよい段階ではなくなっていた。
「これまでの調査案件以外にも、同じ処理が実行されているか確認しよう。特定の住民の記録だけを調べても、対象範囲は分からない」
高瀬は、管理区分を限定しない検索を開始した。
*
午後、アポロンは仕事の合間に携帯を確認した。
問い合わせの状態は、相変わらず『調査中』だった。
しかし、詳細画面には、新しい通知が追加されていた。
『対象範囲確認:完了』
彼は画面を保存した。
昨日までの通知にも、本人情報照合や参照先照合が完了したと表示されていた。
その一方で、連絡先が消えた理由は分からないままだった。
アポロンは、問い合わせ窓口に連絡した。
「新しく、対象範囲確認が完了したという表示が追加されました。これは、どの範囲を確認したという意味ですか」
担当者は、問い合わせ番号を確認した。
「申し訳ありません。こちらでは、その処理の詳細を確認できません」
「この表示によって、調査が終了したことにはなりませんね」
「はい。問い合わせは引き続き調査中です」
「分かりました。今回の表示についても、何を確認したのか分からないということを記録してください」
「承知しました」
アポロンは電話を切った。
画面には、完了という言葉が増えている。
しかし、自分が知りたいことは、まだ分からない。
彼は携帯をしまい、厨房に戻った。
*
夕方、広域検索の結果が表示された。
高瀬は、森川を呼んだ。
「同じ内部識別番号による処理が、複数の管理区分で実行されています」
「対象は?」
「住民の支援記録、連絡先情報、過去の申請記録などです。これまで調査していた案件以外にも、履歴がありました」
「対象範囲が『全体』になった実行については?」
「その後の処理履歴は確認できます。ただし、対象になった全ての記録を列挙できているかどうかは分かりません」
森川は結果を確認した。
検索で見つかった記録には、本人確認が完了したものとして扱われているものがあった。
しかし、本人への確認記録が見つからないものもあった。
また、参照先の設定が完了したと表示されているのに、実際の保管先を確認できないものもあった。
森川は、検索結果を保存した。
「これは、特定の一件だけの問題ではない可能性がある。ただし、すべての記録に問題があるとまでは言えない。確認できた件数と、検索できた範囲を分けて報告しよう」
高瀬は頷いた。
「管理責任部署が分からない以上、通常の担当部署だけでは全体を確認できません」
「そうだな。管理責任部署を特定する調査と、現在の処理を追跡する調査を並行して進めよう」
森川は、二つの調査記録を別々に作成した。
*
夜、アポロンは帰宅してから、窓を開けた。
外では、車が通り過ぎる音がした。
遠くから電車の走る音が聞こえる。
携帯には、まだ『調査中』という表示が残っていた。
彼は画面を閉じた。
その時、携帯が短く震えた。
新しい通知だった。
『共通照合処理:対象範囲更新』
アポロンは、通知を開いた。
詳細欄には、対象範囲が『全体』に更新されたと記載されていた。
実行元の情報はなかった。
処理の理由もなかった。
ただ、更新時刻だけが表示されていた。
アポロンは、その時刻を記録した。
彼の問い合わせとは別の画面に現れた表示だった。
なぜ自分の端末にこの通知が届いたのか。
誰が送ったのか。
今のところ、何も分からなかった。
アポロンは窓の外を見た。
街は、いつもと同じように動いていた。
それでも、見えないところで何かが進んでいる。
彼は携帯を閉じ、通知を保存した。
そして、翌日、森川にこの表示を見せることにした。




