第二十五章 乗り過ごした時間
朝。
アポロンはいつもより少し早く家を出た。
今日は仕事の日だった。
駅まで歩く。
空は晴れている。
雨の気配はない。
駅に着くと、ちょうど電車がホームに入ってきた。
アポロンは乗った。
車内はいつもより混んでいた。
立ったまま、窓の外を見る。
流れていく景色。
知らない駅。
知らない建物。
知らない人。
それらを眺めているうちに、電車は目的の駅を通り過ぎた。
アポロンは気づかなかった。
次の駅に着いてから、ようやく顔を上げた。
「……違う」
降りる。
駅の表示を見る。
一つ先の駅だった。
「乗り過ごした」
時計を見る。
仕事まではまだ時間がある。
急いで戻れば間に合う。
そう考えて、反対側のホームへ向かった。
電車を待つ。
五分。
十分。
いつもなら、この程度の時間は何でもなかった。
神だった頃なら、時間そのものを意識することすらなかった。
しかし今は違った。
何もすることがない。
スマートフォンを見る。
メッセージはない。
時計を見る。
まだ来ない。
アポロンはベンチに座った。
隣には、制服を着た学生がいた。
学生は眠そうに欠伸をしている。
少し離れたところでは、年配の男性が新聞を読んでいた。
誰も急いでいない。
誰も、この五分を特別な時間だとは思っていない。
それなのに。
アポロンには、少し不思議だった。
「……何も起きていない」
そう呟いた。
けれど、時間は進んでいる。
電車が来た。
アポロンは乗り込んだ。
今度は間違えなかった。
仕事にも間に合った。
店に入ると、健一が顔を上げた。
「おはよう」
「おはようございます」
「今日は少し遅かったな」
「電車を乗り過ごした」
健一は笑った。
「珍しいな」
「そうだな」
「寝てた?」
「寝ていない」
「じゃあ、ぼんやりしてたのか」
アポロンは少し考えた。
「そうかもしれない」
「まあ、間に合ったならいいよ」
健一はそれだけ言って、仕事に戻った。
その言葉が、妙に心に残った。
間に合ったならいい。
失敗したことより、その後のことを見る。
それも人間のやり方なのかもしれない。
仕事が始まる。
皿を洗う。
料理を運ぶ。
客から注文を受ける。
いつもの一日だった。
昼過ぎ。
アポロンが水を取りに行くと、健一が言った。
「そういえば、昨日の料理どうだった?」
「美味しかった」
「自分で作ったやつ?」
「ああ」
「また作ってみればいい」
「そうする」
健一は笑った。
「料理って、最初から上手くなくてもいいからな」
アポロンは頷いた。
神だった頃なら、最初から完璧にできた。
人間になった今も、知識だけなら同じだった。
けれど。
間違える。
待つ。
やり直す。
そういう時間が、少しずつ増えている。
仕事が終わった。
外に出る。
スマートフォンを見ると、美咲からメッセージが来ていた。
『今日は早く帰れそうです』
アポロンは返信した。
『分かった』
駅へ向かう。
今度は電車を間違えない。
ホームで待っていると、電車が来た。
乗り込む。
窓の外を見ながら、朝のことを思い出す。
乗り過ごした。
予定より少し遠くまで行った。
そして、戻った。
何も失っていない。
仕事にも遅れなかった。
それでも。
朝のあの十分間は、もう戻ってこない。
アポロンはそのことを考えた。
時間は、物とは違う。
なくしても、拾うことができない。
だから人間は、時間を使うのだろうか。
何かをするために。
誰かと会うために。
あるいは、何もしないために。
家に着くと、美咲がいた。
「おかえりなさい」
「ただいま」
「今日はどうでした?」
「電車を乗り過ごした」
美咲は笑った。
「珍しいですね」
「そう言われた」
「それで?」
「少し待った」
「大変でしたね」
「いや」
アポロンは靴を脱ぎながら言った。
「悪くなかった」
「どうして?」
少し考える。
「予定にはなかったから」
美咲は不思議そうな顔をした。
「予定になかったことが、ですか?」
「ああ」
アポロンは頷いた。
「予定通りに進まなくても、一日は続く」
美咲は少し笑った。
「そうですね」
アポロンも笑った。
今日も、予定通りではなかった。
それでも。
今日という日は、ちゃんと終わろうとしていた。




