第243章 返事を待つ場所
翌朝、森川は、五〇二号室の住民に関する記録を確認していた。
前日に山本が本人と直接話したことで、現在の状況については、いくつかの事実が明らかになっていた。
受付番号は存在する。
本人は、相談した事実を覚えている。
しかし、現在の管理画面からは相談内容を参照できない。
そして、相談内容が確認できない理由も、まだ分かっていない。
森川は、旧管理区分の記録を担当する部署に、改めて照会を送った。
今回は、相談内容そのものだけでなく、記録の保管場所と、現在の管理画面から参照できない理由についても回答を求めた。
送信後、画面には受付番号が表示された。
森川は、その番号を控えた。
数分後、通知が届いた。
『照会受付:完了』
続いて、別の通知が表示された。
『回答予定:設定不要』
森川は画面を保存した。
高瀬が隣から覗き込んだ。
「回答予定が設定不要になっていますね」
「照会先からの回答は、まだ届いていない」
「はい」
「では、回答が不要だと判断した根拠を確認しよう」
高瀬は、照会履歴を開いた。
回答予定を設定した記録はない。
設定不要と判断した担当者も分からない。
その状態で、回答予定だけが不要になっていた。
高瀬は、画面を閉じずに言った。
「回答を求めたことと、回答が不要だと判断したことが、同じ記録の中にあります」
森川は頷いた。
「本人が回答を求めている以上、こちらから不要だと決めることはできない。照会を継続しよう」
二人は、回答予定の表示を保存したうえで、照会先へ連絡した。
担当者は、受付番号を確認すると、少し困ったように答えた。
「こちらでは、まだ照会内容を確認していません」
「回答予定が設定不要になっていますが、そちらで判断したのでしょうか」
「いいえ。その表示については、こちらでは操作していません」
「分かりました。照会内容を確認したうえで、回答をお願いします」
電話を終えた森川は、通話内容を記録した。
表示が更新された理由は、まだ分からない。
ただし、照会先が回答不要と判断したわけではないことは確認できた。
*
午後、山本は旧管理記録の保管場所を確認するため、別の管理部署を訪れた。
事前に連絡していた担当者が、古い台帳を用意していた。
「こちらが、当時の受付番号を管理していた台帳です」
山本は、五〇二号室の住民が持参した受付番号を伝えた。
担当者は台帳を調べ、該当する番号を見つけた。
記載されていたのは、受付日と、記録の移管先だった。
相談内容は書かれていない。
しかし、欄外に小さな注記があった。
『関連資料、別管理へ移管』
山本は、その記述を確認した。
「この別管理というのは、どの部署でしょうか」
担当者は、古い管理区分の一覧を取り出した。
「当時は、いくつかの部署が共同で管理していました。現在の組織にそのまま対応するとは限りません」
「移管先を特定できる資料はありますか」
「今の台帳だけでは難しいですね。移管記録を別に調べる必要があります」
山本は、台帳の該当箇所を正式な手続きに従って複写し、確認記録を作成した。
相談内容は分からない。
移管先も、まだ特定できない。
それでも、関連資料が別の管理区分へ移されたという記録は残っていた。
山本は、その事実を森川に伝えた。
「少なくとも、相談内容が空欄だからといって、関連資料が存在しなかったとは言えません」
森川は答えた。
「そうだな。ただし、別管理へ移管されたという記録だけで、その資料が今も残っているとは限らない」
「次は、移管記録を調べます」
山本は、調査の対象を整理した。
旧台帳の保管場所。
関連資料の移管記録。
現在の管理区分との対応関係。
一つずつ確認する必要があった。
*
夕方、アポロンは仕事を終えたあと、いつもの自動販売機の前で立ち止まった。
財布を取り出すと、硬貨が一枚足りなかった。
いつも買っている飲み物の値段には、少しだけ届かない。
アポロンは財布の中をもう一度確認した。
硬貨はなかった。
仕方なく、隣の自動販売機を見た。
こちらには、少し安い飲み物があった。
アポロンはそれを買った。
缶を開け、一口飲む。
味は、いつものものと違っていた。
しかし、飲めないわけではなかった。
彼は缶を持って歩き始めた。
帰宅すると、美咲が台所で夕食を作っていた。
「今日は遅かったね」
「仕事が少し長引いた」
「お疲れさま」
美咲は鍋の火を弱めた。
「明日は、帰りに買い物へ行こうと思っていたんだけど、予定を変えてもいい?」
「何かあったのか」
「職場で頼まれたことがあって、終わる時間が分からなくなったの」
「分かった」
「ごめんね」
「まだ時間を決めていなかった」
美咲は少し笑った。
「そうだったね」
二人は夕食を食べた。
食事のあと、美咲は携帯電話を確認した。
「明日の予定、いったん消しておくね。行けそうだったら、また連絡する」
「うん」
彼女は、予定を削除した。
アポロンは、その操作を見ていた。
予定がなくなったわけではない。
明日、二人で買い物に行く可能性は残っている。
ただ、今の時点では、確実な予定として扱わないことにしたのだ。
「予定を消すと、忘れないか?」
アポロンが尋ねた。
「必要になったら、また考えるよ。今は時間が決められないから」
「そうか」
美咲は携帯電話を置いた。
「決まっていないことまで、決まったように残しておくと、あとで困ることもあるからね」
アポロンは頷いた。
その夜、彼は自分の手帳を開いた。
明日の勤務時間は書かれている。
買い物の予定は、まだなかった。
アポロンは、何も書き足さなかった。
*
翌日の午前、森川のもとに、前日の照会に対する回答が届いた。
回答には、旧管理区分の記録を確認するため、追加の調査が必要だと書かれていた。
具体的な回答は、まだなかった。
森川は、回答内容を確認した。
『調査継続』
その一文が、正式な回答として記録されていた。
高瀬が尋ねた。
「これで、回答が届いたことにはなりますね」
「調査を継続するという回答は届いた。ただし、こちらが尋ねた内容への回答は、まだない」
森川は、照会記録を更新した。
回答を受け取ったこと。
調査が継続されること。
相談内容や移管先については、まだ確認できていないこと。
それぞれを分けて記録した。
その直後、管理画面に新しい表示が現れた。
『照会処理:完了』
森川は、画面を保存した。
高瀬は、表示された時刻を確認した。
「調査継続という回答が登録された直後です」
「そうだな」
「この完了表示は、何を意味しているのでしょうか」
森川は、しばらく画面を見ていた。
「今の記録から分かるのは、回答が一度届いたことと、照会処理が完了と表示されたことだ。それ以上のことは、まだ確認できていない」
高瀬は、その言葉を記録に残した。
森川は、追加調査の依頼書を作成した。
照会は終わっていない。
本人が知りたいことも、まだ明らかになっていない。
画面上の表示が変わっても、確認すべきことは残っていた。
*
その日の夜、アポロンは帰宅してから、美咲に連絡した。
『今日は買い物に行けそう?』
返事が来るまで、少し時間がかかった。
『ごめん。今日は無理そう。また今度にしよう』
アポロンは返信した。
『分かった。仕事、お疲れさま』
それで終わった。
彼は夕食を準備し、一人で食べた。
しばらくすると、美咲からもう一通、メッセージが届いた。
『来週なら、時間を作れるかもしれない』
アポロンは、その文章を読んだ。
来週、二人で買い物に行くかもしれない。
けれど、まだ日時は決まっていない。
彼は、手帳を開かなかった。
返事を待つことはできる。
予定が決まるまで、何も書かずにおくこともできる。
それは、誰かに決められた空欄ではなかった。
アポロン自身が、今は埋めないと決めた空欄だった。




