第241章 同じ名前の人
翌朝、山本は旧管理記録の照会結果を受け取った。
五〇二号室の住民に関する記録ではなかった。
別の案件で、同じように参照先が確認できなくなっていた記録についての回答だった。
回答には、対象者の氏名と受付番号が記載されていた。
山本は、受付番号を確認した。
一致している。
しかし、氏名の表記が、手元にある旧記録とわずかに違っていた。
旧記録では、姓の漢字が一文字違う。
読み方は同じだった。
山本は、旧記録と現在の記録を並べた。
「同じ人なのか……」
すぐには判断できなかった。
漢字の表記が変わることはある。
登録時の誤記かもしれない。
本人が表記を変更した可能性もある。
あるいは、同じ読み方の別人なのかもしれない。
山本は、氏名だけで同一人物だと判断せず、他の情報を確認した。
生年月日は、旧記録に記載されていなかった。
住所は、番地の一部が欠けている。
連絡先も残っていない。
受付番号は一致しているが、その番号がどのような経緯で現在の記録に引き継がれたのかは、まだ分からなかった。
山本は森川に資料を渡した。
「受付番号は一致しています。ただ、氏名の表記が違います。ほかの情報だけでは、同一人物かどうか確認できません」
森川は、二つの記録を確認した。
「番号が一致している理由も、調べる必要があるな」
「はい。現在の記録では、同一人物として扱われています」
「その判断の根拠は?」
「回答には書かれていません」
森川は資料を返した。
「では、同一人物だと判断した根拠を照会しよう。氏名の表記が違うこと自体を、誤りだと決めつける必要もない」
山本は、照会文書を作成した。
氏名の表記が異なる二つの記録について、同一人物と判断した根拠を示すこと。
受付番号が引き継がれた経緯を説明すること。
本人による氏名表記の変更や訂正があった場合は、その記録を確認すること。
照会を送信すると、画面にはすぐに受付完了と表示された。
山本は、その画面を保存した。
しばらくして、別の通知が届いた。
『本人情報との照合:完了』
山本は、更新時刻を確認した。
照会への回答は、まだ届いていない。
彼は、照会記録と更新された画面を別々に保存した。
*
午前中、森川のもとに、別の部署から電話が入った。
現在の管理記録に登録されている人物について、本人から問い合わせがあったという。
その人物は、自分の名前で登録された申請を確認しようとしたところ、すでに手続きが終了していると説明された。
しかし、本人には、その手続きを終了した覚えがなかった。
森川は、窓口の担当者に尋ねた。
「本人は、終了していないと話しているのですか」
「はい。申請自体は覚えていますが、終了を希望したことはないそうです」
「本人の申請内容と、終了処理の記録は確認できますか」
「申請内容は確認できます。ただ、終了処理については、完了表示しか残っていません」
森川は、記録を送ってもらうよう依頼した。
届いた資料には、申請者の氏名、受付番号、申請日が記載されていた。
終了処理の実行者は空欄だった。
本人の意思を確認した日時も、確認方法も残っていなかった。
森川は、前日に山本が見つけた氏名表記の違う記録を思い出した。
ただし、二つの案件が関係しているという証拠はなかった。
森川は、今回の案件を独立して調べることにした。
「本人の話を記録して、終了処理の根拠を確認しよう。ほかの案件と結びつけるのは、そのあとだ」
高瀬は、本人の申告内容を記録するための書面を準備した。
本人は、申請を終了する意思がなかったことを確認した。
また、終了処理の理由を知りたいと希望した。
その内容は、本人自身が確認したうえで提出された。
しかし、記録を登録した直後、管理画面に次の表示が現れた。
『本人意思確認:完了』
『追加説明:不要』
高瀬は、画面を保存した。
「本人は、終了を希望していないと伝えています。それなのに、追加説明は不要になっています」
森川は答えた。
「本人が説明を求めていることも、別に記録しておこう」
二人は、本人の申告書と管理画面の表示を分けて保管した。
その後、担当部署から回答が届いた。
『対象者の申請は、規定の処理に従って終了しています』
森川は、回答を読んだ。
「終了した理由を尋ねたのに、終了しているという説明しかない」
高瀬は頷いた。
「処理が規定に従っているということも、その規定が今回の案件に適用された根拠も、確認できません」
森川は、追加照会を送った。
今度は、適用した規定の名称と、終了処理の実行記録を求めた。
回答を待つ間、二人は別の案件を確認した。
午後四時を過ぎても、追加照会への回答は届かなかった。
管理画面には、変わらず『処理完了』と表示されていた。
森川は、その表示を消さずに保存した。
本人が終了を希望していないと申告したこと。
本人が終了理由の説明を求めていること。
管理画面では処理が完了していること。
それらを、一つの結論にまとめることはしなかった。
*
その日の夕方、アポロンは仕事を終えて、駅前の店に立ち寄った。
美咲から頼まれたものを買うためだった。
店内には、似た商品が並んでいた。
アポロンは、以前に美咲が使っていた容器の形を思い出し、同じ種類の商品を探した。
棚の端に、よく似たものが二つあった。
容量は同じ。
値段も近い。
しかし、成分表示が違っていた。
アポロンは二つを見比べ、いつも使っている商品を選んだ。
レジで会計を済ませ、袋を受け取った。
帰宅すると、美咲は台所にいた。
「買ってきてくれた?」
「うん」
アポロンは商品を渡した。
美咲は包装を確認した。
「これ、前に使っていたものと同じだね」
「似たものが二つあった」
「そうなの?」
「容量も値段も近かった。でも、表示が違った」
美咲は商品を手に取った。
「気づかなかったら、別のものを買っていたかもしれないね」
「同じように見えても、同じとは限らない」
美咲は笑った。
「今日は、何かあったの?」
「店でも、似た皿を使っていた」
「また食器の話?」
「今度は、違う皿を間違えて使いそうになった」
「そうなんだ」
美咲は商品を棚にしまった。
「でも、ちゃんと確認できたんでしょう?」
「うん」
二人は夕食の準備を始めた。
食事をしながら、美咲が明日の予定について話した。
「明日は、帰りに少し遠い店まで行こうと思っているの」
「何を買う?」
「まだ決めていない。実際に見てから考えるつもり」
「そうか」
「一緒に来る?」
アポロンは、明日の勤務時間を思い出した。
「仕事が終わってからなら、行ける」
「じゃあ、終わったら連絡するね」
「分かった」
美咲は携帯電話に予定を入力した。
場所だけを登録し、時間は空欄のままにした。
「何時になるか分からないから、時間はあとで決めるね」
アポロンは頷いた。
二人は、まだ決まっていないことを、そのままにしておいた。
食事が終わると、アポロンは食器を洗った。
美咲は明日の準備を済ませ、先に部屋へ戻った。
台所には、洗い終わった食器が並んでいた。
アポロンは、最後の皿を棚に戻した。
似ているものを、同じだと決めつけない。
表示されていることだけで、実際の状態を決めない。
人についても、物についても、予定についても。
確認できることと、まだ分からないことを分けておく。
それは、神だった頃のアポロンには必要のなかった作業だった。
今は、そうしなければ分からないことがある。
アポロンは台所の明かりを消した。
明日の予定には、まだ時刻がなかった。
彼は、その空欄を埋めずに眠ることにした。




