第240章 名前のない欄
森川が新しい資料を受け取ったのは、午前十時を少し過ぎたころだった。
前日に確認した送信先の不一致について、別の部署から報告が届いていた。
今度は、回答の送信先ではなかった。
ある住民が、窓口で担当者との面談を希望していた。
受付記録には、希望内容が残っている。
受付日時も、対応した職員の名前も記載されていた。
しかし、担当者の割り当て欄は空白だった。
管理画面には、別の表示があった。
『担当者割当:完了』
森川は資料を机に置いた。
「割り当てが完了しているのに、担当者がいないのか」
高瀬が画面を確認した。
「担当者名だけでなく、割り当て先の部署も空欄です」
「受付担当者は?」
「記録されています。ただし、受付担当者と面談の担当者は別です」
森川は、受付を行った職員に連絡した。
職員によれば、住民は窓口で面談を希望し、後日、担当者から連絡すると説明を受けていたという。
「その場で担当者は決まりましたか」
「いいえ。こちらでは割り当てられなかったので、後日連絡すると伝えました」
「割り当てが完了したという表示は、見ましたか」
「見ていません。受付画面には、担当者が未定と表示されていました」
森川は、受付時の画面記録を保存するよう依頼した。
その後、高瀬は割り当て処理の履歴を調べた。
処理時刻は、受付から約三分後だった。
しかし、実行者の欄には何も記録されていない。
割り当て先も、担当者名もない。
「誰が割り当てたのか分かりません」
「割り当て処理そのものが、実際に行われたかどうかも確認できないな」
森川は答えた。
「ただ、現時点では、担当者が決まっていないことは確認できている」
二人は、管理画面の表示と実際の受付状況を分けて記録した。
午前十一時半。
担当部署から回答が届いた。
『担当者割当処理は正常に完了しています。追加の割り当ては不要です』
高瀬は文面を読み直した。
「また、処理が完了しているという回答です」
「担当者名を尋ねたのに、処理の状態しか答えていない」
森川は、照会文書を開いた。
今回は、質問を三つに分けて送ることにした。
誰が処理を実行したのか。
どの部署または担当者に割り当てたのか。
住民に対する面談の連絡を、誰が行うのか。
回答が届くまで、二人は別の案件を調べた。
午後二時。
担当部署から再び返答があった。
実行者については、記録を確認できない。
割り当て先についても、現在の画面からは確認できない。
住民への連絡担当者も、決まっていない。
その一方で、最後の一文にはこう書かれていた。
『面談に関する処理は完了しています』
高瀬は、椅子の背にもたれた。
「担当者が決まっていないのに、面談の処理は完了している」
「そういう表示になっている、ということだな」
「はい」
森川は、住民への対応を止めないため、正式な手続きに従って担当部署へ連絡を取り直した。
担当部署は、今回の面談希望を改めて確認し、担当者を決めることになった。
午後三時過ぎ、担当者名が記録された。
連絡先も登録され、面談の日程について住民と調整することになった。
高瀬は、更新された画面を確認した。
今度は、担当者名も部署名も表示されている。
「これで、少なくとも担当者は決まりました」
「そうだな」
森川は、最初の受付記録と、後から追加された割り当て記録を並べた。
担当者が決まった時刻は、最初の割り当て完了表示より、数時間も後だった。
森川は、その差を記録した。
「最初の処理が、なぜ完了になっていたのか。それはまだ分からない」
高瀬は頷いた。
「ただ、最初の表示だけでは、誰が対応するのか分からなかったことは確認できます」
「そのとおりだ」
森川は、調査記録を保存した。
*
その日の夕方、山本は旧管理記録の照合を続けていた。
調べているのは、以前から確認できていない五〇二号室の住民に関する記録だった。
過去の受付番号は残っている。
管理台帳にも、同じ番号が記載されている。
しかし、現在の管理画面では、その受付番号から相談内容を参照できない。
山本は、別の管理区分に残っていた記録を開いた。
そこには、受付番号と処理日だけが記載されていた。
相談内容の欄は空白だった。
本人への説明記録もない。
担当者の欄も空いている。
その下に、一つだけ新しい表示があった。
『記録照合:完了』
山本は、すぐには保存しなかった。
まず、表示が更新された時刻を確認した。
自分が画面を開く前には、別の状態だった。
山本は、更新前の画面を保存していた。
その記録と照合すると、相談内容が参照できない状態は変わっていなかった。
変わったのは、照合が完了したという表示だけだった。
山本は、森川に連絡した。
「五〇二号室の記録に、また更新がありました」
「何が変わった?」
「照合完了という表示です。ただ、相談内容も、担当者も、本人への説明記録も確認できません」
森川は、少し間を置いて答えた。
「更新前後の記録を保存しておいてくれ。何を照合した結果なのか、確認できるまでは、内容まで確定したものとして扱わないようにしよう」
「分かりました」
山本は、二つの画面を並べて保存した。
受付番号は同じだった。
処理日も変わっていない。
相談内容は依然として参照できない。
それでも、照合は完了したことになっていた。
山本は、照会記録に一文を加えた。
『照合完了の表示を確認したが、照合対象および照合結果の内容は確認できていない』
それから、画面を閉じた。
*
夜、アポロンは帰宅途中の店で、牛乳と食パンを買った。
レジの店員が、袋に商品を入れながら尋ねた。
「袋は一枚でよろしいですか」
「はい」
店員は商品を渡した。
「ありがとうございました」
「ありがとう」
店を出てから、アポロンはレシートを確認した。
買った商品と、金額が記載されている。
彼はそれを財布にしまった。
家に着くと、美咲が食卓で書類を整理していた。
「おかえり」
「ただいま」
「牛乳、買ってきてくれたんだね」
「頼まれたから」
美咲は冷蔵庫を開け、牛乳をしまった。
「助かった。明日の朝、使う予定だったの」
アポロンは、買ってきた食パンを食卓に置いた。
「明日の朝は、何時に出る?」
「いつもどおり。でも、電車の時間によって少し変わるかもしれない」
「分かった」
美咲は書類をそろえ、封筒に入れた。
「これ、明日提出するんだ。書いた内容は確認したけど、受け付けてもらえるかは行ってみないと分からないね」
アポロンは封筒を見た。
「必要なものは、そろっているのか」
「一応ね。足りなかったら、その場で聞くつもり」
「そうか」
美咲は封筒を鞄に入れた。
「全部を家で確認するのは難しいからね」
アポロンは頷いた。
書類に何が書かれているかを確認すること。
それが受け付けられるかどうか。
受け付けられたあと、何が行われるのか。
それぞれ、別のことだった。
二人は夕食を済ませ、食器を片づけた。
その後、美咲は翌日の服を用意した。
アポロンは、自分の手帳を開き、明日の勤務時間を確認した。
責任者から直接聞いた時間が記録されている。
その横に、買い物の予定を書き足した。
どちらも、自分が必要だと思って書いたものだった。
アポロンは手帳を閉じた。
誰かが予定を確認済みにしてくれたからではない。
自分で聞き、自分で確かめ、必要だと思ったから残した。
その違いを、彼は忘れないようにしていた。
寝る前、美咲が声をかけた。
「明日の朝、先に出るね」
「分かった」
「起こさなくても大丈夫?」
「自分で起きる」
「じゃあ、お願いね」
美咲は部屋の明かりを消した。
アポロンは、暗くなった天井をしばらく見ていた。
明日の朝、何時に目が覚めるのか。
美咲が予定どおりに出かけられるのか。
まだ分からないことは残っていた。
それでも、今夜の約束は二人の間で交わされたものだった。
画面に表示された状態ではなく、二人が実際に話して決めたことだった。




