第238章 届かなかった返事
翌朝、高瀬は出勤すると、机の上に置かれた新しい資料に気づいた。
前日の照会とは別の案件だった。
ある住民が、担当窓口に質問を送っていた。
質問の内容は単純だった。
手続きの進捗を知りたい。
それだけである。
受付記録には、送信日時が残っていた。
窓口側の受信記録にも、同じ番号が記載されている。
ところが、担当者の処理履歴には、何もなかった。
高瀬は画面を開き直した。
『照会受付:完了』
『担当部署への転送:不要』
『回答処理:完了』
三つの項目が並んでいた。
「転送が不要なのに、回答は完了している……」
隣の席にいた森川が顔を上げた。
「回答は実際に送られたのか」
「まだ確認できていません」
「確認しよう」
高瀬は、窓口の担当者に連絡した。
担当者は、照会番号を聞くと、少し時間を置いて答えた。
「こちらでは、回答した記録は見つかりません」
「質問自体は届いていますか」
「はい。受付一覧にはあります。ただ、担当部署に送られていないようです」
「なぜですか」
「転送不要という扱いになっています」
高瀬は、画面に表示された文言をそのまま記録した。
「その扱いは、誰が判断したのでしょうか」
「記録上は分かりません」
電話を切ると、高瀬は森川に報告した。
「今回は、回答したという記録と、実際には回答していないという担当者の説明が食い違っています。それに、質問が担当部署へ届いていません」
森川は頷いた。
「受け付けたことと、相手に回答したことは別だ。そこを分けて調べよう」
二人は、元の照会記録を保存し、担当部署への転送を改めて依頼した。
しかし、再転送の操作を行うと、画面に警告が表示された。
『対象者:照会対象外』
高瀬は操作を止めた。
「本人の照会なのに、対象外です」
「受付記録は残っているな」
「はい。本人の名前も、連絡先も、照会番号も一致しています」
森川は、別の方法で担当部署へ連絡するよう指示した。
今回は、システム上の再転送ではなく、業務で認められている別の連絡経路を使った。
担当部署の職員は、照会番号を確認すると、質問の内容を受け取った。
「こちらには届いていませんでした」
「今、受け取った内容を確認してください」
「分かりました」
担当者は質問を読み、必要な資料を調べると答えた。
電話が終わったあと、高瀬は記録を整理した。
最初の受付。
転送不要という表示。
担当部署への未到達。
再転送の拒否。
そして、別経路での連絡。
一つずつ、時刻と対応者を記録した。
「これなら、実際に何が起きたのかは追えますね」
「少なくとも、この案件についてはな」
森川は、報告書の末尾に一文を加えた。
『システム上の転送処理が拒否されたため、別の業務経路を用いて担当部署への連絡を行った』
「原因は、まだ分からない。ただ、処理が止まった事実と、その後どう対応したかは残せる」
高瀬は保存ボタンを押した。
午後、照会を送った本人から電話があった。
「質問は届いているのでしょうか」
窓口の職員は、確認できた事実を説明した。
受付はされていたこと。
しかし、担当部署には届いていなかったこと。
現在は担当部署に連絡し、確認を依頼していること。
「では、最初から回答はされていなかったのですね」
「確認できる記録では、回答が送られた事実はありません」
相手はしばらく黙っていた。
「分かりました。では、回答を待ちます。ただ、最初に問い合わせた日付は残しておいてください」
「承知しました」
電話を終えた職員は、本人の発言を記録に加えた。
その数分後、管理画面が更新された。
『照会処理:完了』
高瀬は、更新された時刻を確認した。
回答は、まだ届いていない。
担当部署も、調査を続けている。
それでも、照会処理は完了になっていた。
森川は、その表示を見て言った。
「今回は、完了という表示を、そのまま使うわけにはいかないな」
「実際の回答が届くまでは、完了とは扱えませんね」
「そうだ。本人にも、回答が届いていないことを説明しておこう」
二人は、実際の対応状況とシステム上の表示を分けて記録した。
その日の終業時刻になっても、回答は届かなかった。
森川は、翌日の確認事項にこの案件を加えた。
原因はまだ分からない。
ただ、質問をした人が返事を受け取っていないことは、確認できていた。
それだけは、曖昧にしないことにした。
*
アポロンの職場では、午後から新しい食器が使われ始めた。
以前の皿より少し深く、縁が広い。
料理を盛りつけた健一は、皿を傾けて確かめた。
「これなら、ソースがこぼれにくそうだな」
アポロンも一枚手に取った。
「前の皿と、重さが違う」
「少し軽いらしい。店の人が選んだんだ」
「使いやすいかどうかは、まだ分からない」
健一は笑った。
「そうだな。使ってみないとな」
昼の営業が始まると、新しい皿は次々に使われた。
何枚かは洗い場で重ねやすかった。
一方、縁が広いため、食器棚には以前より多くの場所が必要だった。
閉店後、健一は棚の配置を変えた。
「買う前には、ここまで考えてなかったな」
「使う前には分からないこともある」
「お前、最近そういうことをよく言うな」
アポロンは少し考えた。
「実際に使ってみると、分かることがあるからだ」
「まあ、それはそうだ」
健一は棚の扉を閉めた。
帰宅すると、美咲が台所で洗剤を詰め替えていた。
「今日、買ってきたの?」
「うん。スポンジも買ったよ」
彼女は新しいスポンジを見せた。
「前のより少し大きいのにした」
アポロンは、それを手に取った。
「持ちやすそうだ」
「まだ使ってないけどね」
「使ってみれば分かる」
美咲は振り返った。
「それ、今日も誰かに言った?」
「健一に」
「何かあったの?」
「新しい皿を使い始めた」
「それで?」
「棚に入らなかった」
美咲は声を出して笑った。
「買うときに気づかなかったんだ」
「使う前には分からなかったらしい」
「そういうこともあるね」
夕食のあと、二人は翌日の予定を確認した。
美咲は、仕事が終わったあとに寄る場所があると話した。
「帰りが遅くなるかもしれない」
「分かった」
「もし予定が変わったら、連絡するね」
「うん」
美咲は携帯電話を手に取り、明日の予定を自分で登録した。
アポロンは、それを横から見ていた。
画面には、予定の時刻と場所が表示されていた。
「それで、予定は決まったのか」
「うん。今のところはね」
「今のところ?」
「仕事の都合で変わるかもしれないから」
アポロンは頷いた。
予定が登録されていることと、明日そのとおりに行動できることは、同じではない。
それは、特別な知識がなくても分かることだった。
翌日になれば、実際にどうなるかが分かる。
美咲は携帯電話を置いた。
「じゃあ、お風呂に入ってくるね」
「分かった」
彼女が部屋を出ていく。
アポロンは、自分の携帯電話を手に取った。
明日の予定を確認する。
そこには、美咲と一緒に夕食を食べる予定は登録されていなかった。
二人とも、そんな約束はしていないからだ。
アポロンは画面を閉じた。
明日、彼女が帰ってきたときに、時間があれば一緒に食べればいい。
予定が合わなければ、別々に食べてもいい。
まだ決まっていないことを、決まったことにする必要はなかった。
窓の外で、電車が通り過ぎる音がした。
アポロンは、その音が遠ざかるまで聞いていた。




