第237章 まだ会っていない人
朝、森川は前日までの報告書を読み直していた。
問い合わせは受け付けられている。
担当者への通知は確認できない。
本人への回答がないにもかかわらず、処理は完了したと表示されている。
個々の事例だけを見れば、連絡の不備や分類の誤りとして説明できるものもある。
しかし、同じ時期に、異なる部署で似た現象が続いていた。
森川は、高瀬に資料を渡した。
「今日は、処理が完了したという表示だけでなく、その前後に実際の業務が行われたかを確認しよう」
「受付、連絡、回答、終了処理ですね」
「そうだ。順番も含めて調べたい」
高瀬は資料を受け取り、別の端末を開いた。
午前九時半。
新しい照会が一件、登録された。
対象者は、これまでの調査記録に名前が出ていない人物だった。
照会内容は、ある支援手続きについて、自分の申請が現在どのような状態になっているかを確認したいというものだった。
受付番号は発行されている。
受付担当者も記録されていた。
ところが、管理画面には、次の表示があった。
『本人確認:完了』
『処理状態:終了』
『参照記録:不要』
高瀬が画面を見つめた。
「受付されたばかりなのに、終了しています」
森川は登録時刻を確認した。
受付から、わずか数秒しか経っていなかった。
「本人への説明は?」
「記録がありません」
「申請内容を確認した担当者は?」
「受付担当者は記録されています。ただ、その後の処理担当者は空欄です」
森川は、受付を担当した職員に連絡した。
「この照会について、本人に何か説明しましたか」
「いいえ。受け付けて、番号を発行しただけです」
「本人は、手続きの終了を希望していましたか」
「そのような話はありませんでした」
「受付記録を保存してください。こちらで確認を続けます」
電話を切ると、森川は高瀬に言った。
「本人が何を希望したかは、まだ確認できていない。ただし、終了を希望したという記録もない」
「それなのに、終了になっている」
「そうだ。まず、その二つを分けて残そう」
二人は、受付記録と終了表示を別々に保存した。
午前十一時、担当部署から返答があった。
『本人確認および終了処理は完了しています』
森川は、回答の文面を確認した。
「また、同じだな」
高瀬が言った。
「終了した理由も、誰が確認したのかも書かれていません」
森川は追加の照会を送った。
今度は、終了処理を実行した担当者の記録と、本人の意思を確認した証拠を明示して回答するよう求めた。
返答は届かなかった。
代わりに、管理画面の表示が更新された。
『追加確認:対象外』
森川は画面を保存した。
「これも、以前から出ている項目だ」
「同じ処理が関係している可能性はありますね」
「そうだな。ただし、項目が同じだからといって、原因まで同じだとは限らない」
森川は、更新前の記録を開いた。
受付された照会は、確かに存在していた。
本人の質問も、受付番号も、担当者名も残っている。
しかし、終了処理の根拠は見つからなかった。
午後、森川は、受付を行った職員から追加の連絡を受けた。
本人が再び窓口を訪れたという。
「自分の申請が終了したと表示されているので、理由を知りたいそうです」
森川は尋ねた。
「本人は、終了を希望していないと話していますか」
「はい。申請の状態を知りたかっただけで、手続きを終わらせるつもりはなかったそうです」
「その発言を記録してください。本人にも内容を確認してもらってください」
しばらくして、確認済みの記録が送られてきた。
本人は、申請を終了する意思がないことを明確に伝えていた。
その記録には、受付時刻、聞き取り時刻、対応者名が記載されていた。
森川は、記録を保存した。
その直後、画面に新しい通知が現れた。
『本人意思確認:完了』
高瀬が時刻を確認した。
「今、本人が話した直後です」
「そうだな」
「今回は、実際に本人と話しています。ただし、確認したのは、終了を希望していないという内容です」
森川は、二つの記録を並べた。
本人の発言記録には、申請を終了する意思がないと明記されている。
一方、管理画面には、本人意思確認が完了したと表示されている。
その表示だけでは、何について確認したのかが分からなかった。
「今度は、本人の意思を確認した事実そのものはある」
森川が言った。
「しかし、その結果が、どの処理に反映されるのかは分からない」
高瀬は頷いた。
二人は、本人の発言記録を正式な照会資料に添付した。
終了処理の根拠を求める文書も、改めて送信した。
その日の夕方、担当部署から短い回答が届いた。
『対象者の状態は確定しています』
森川は、回答を読み返した。
状態が確定している。
しかし、どのような状態なのかは書かれていない。
本人が希望していないことも、説明されていない。
森川は、回答を保存した。
「状態が確定しているということと、正しい状態が確認できたということは違う」
高瀬が言った。
「そうだな」
森川は、画面を閉じた。
「今は、そこを混同しないことが重要だ」
夜、アポロンは仕事を終えて帰宅した。
美咲はまだ戻っていなかった。
テーブルの上には、朝に彼女が置いていったメモがあった。
『会議が終わったら連絡する』
アポロンは、携帯電話を確認した。
連絡は届いていなかった。
会議が長引いているのかもしれない。
仕事が終わって、別の用事を済ませているのかもしれない。
携帯電話を確認できない状況なのかもしれない。
どれも考えられたが、どれが本当なのかは分からなかった。
アポロンは、夕食の準備を始めた。
しばらくして、玄関の鍵が回った。
「ただいま」
「おかえり」
美咲は靴を脱ぎ、鞄を置いた。
「ごめんね。連絡するの、忘れてた」
「会議は終わったのか」
「終わったよ。そのあと、同僚と少し話していたの」
「そうか」
美咲は、テーブルの上のメモを見た。
「これ、まだ置いてあったんだ」
「連絡が来ると思っていたから」
「うん。書いておいたのに、ごめん」
「謝る必要はない」
アポロンは、少し考えてから続けた。
「連絡が来ていないことは分かった。でも、何があったのかは分からなかった」
美咲は頷いた。
「そうだね。連絡がないだけでは、何が起きているかまでは分からないね」
彼女は鞄から資料を取り出した。
「今日の会議でも、似たような話があったよ。連絡したことになっているのに、相手は受け取っていなかったの」
「それで、どうした?」
「もう一度、直接確認した。相手も、連絡を受け取っていないことを確認してくれた」
美咲は資料を片づけた。
「結局、伝えたつもりになっていただけだったみたい」
アポロンは頷いた。
二人は夕食を食べた。
食事の途中、美咲が明日の予定を話し始めた。
「明日は、帰りに買い物をしたいんだけど」
「何を買う?」
「洗剤と、あと台所のスポンジ」
「分かった」
「仕事が終わる時間は、まだ分からないから、帰る前に連絡するね」
「うん」
それだけの約束だった。
アポロンは、明日の予定を携帯電話に登録しなかった。
必要なら、明日また確認すればいい。
その夜、彼は窓の外を見た。
向かいの建物には明かりがついていた。
誰かが帰宅したのかもしれない。
まだ仕事をしているのかもしれない。
部屋の中に誰がいるのか、アポロンには分からなかった。
以前なら、知ろうと思えば、すぐに分かった。
今は、分からない。
けれど、分からないことを、別の誰かの答えで埋める必要はなかった。
アポロンはカーテンを閉めた。
明日の朝になれば、美咲はまた出かける。
仕事が終われば、連絡をくれるかもしれない。
予定が変われば、そう伝えてくれるだろう。
それは、まだ起きていないことだった。
だから、今は決まっていなくてもよかった。




