第236章 届かなかった声
朝、森川の端末に、前日までとは異なる種類の報告が届いた。
ある部署で、住民からの問い合わせが受け付けられたにもかかわらず、担当者に通知されていなかったという。
問い合わせの内容は、支援終了の理由についてだった。
受付番号は発行されている。
受付時刻も残っている。
しかし、担当者の処理一覧には表示されていなかった。
森川は、報告を送った職員に電話をかけた。
「問い合わせを受け付けたことは、確認できていますか」
「はい。窓口で受付番号を発行しています」
「担当者には、いつ伝わりましたか」
「今朝、本人から再度連絡があって、初めて分かりました」
「最初の問い合わせが、担当者に通知された記録はありますか」
「ありません。ただ、受付記録自体は残っています」
森川は、確認した内容を書き留めた。
「受付記録を変更せずに保存してください。本人が何を尋ねたのかも、分かる範囲で残しておいてください」
電話を切ると、高瀬が資料を受け取った。
「受付はされているのに、担当者が知らなかったんですね」
「そういう報告だ」
「通知の問題でしょうか」
「その可能性はある。ただ、通知が送られなかったのか、送られたのに表示されなかったのか、それとも別の理由なのかは分からない」
高瀬は、受付番号から履歴をたどった。
受付処理は正常に完了している。
担当部署への送信記録は見つからない。
それでも、受付結果の欄には、次の表示があった。
『対応完了』
「本人への回答は、まだないんですよね」
「そうだ」
森川は、表示を保存した。
「対応が完了したという結果と、問い合わせに回答したという事実を、分けて確認する必要がある」
午前十時、担当部署から追加資料が届いた。
受付記録には、本人が尋ねた内容が記載されていた。
支援終了の理由を知りたい。
本人確認が行われたとされる日時を知りたい。
その確認に使われた記録を見たい。
いずれも、具体的な質問だった。
ところが、管理画面では、問い合わせの分類が変更されていた。
『照会事項:処理済み』
『回答:不要』
変更時刻は、受付から約三分後。
担当者が問い合わせ内容を確認した記録はなかった。
高瀬が言った。
「受付された質問が、回答不要として処理されている」
「そうだな」
「この分類変更が、通知されなかった原因なのかもしれません」
「可能性はある。変更と通知の関係を調べよう」
森川は、担当部署に追加の照会を送った。
分類変更を行った担当者。
変更を行った時刻。
変更の根拠。
そして、本人に回答する必要がないと判断した理由。
一つずつ、確認を求めた。
返答は、すぐに届いた。
『照会事項は処理済みです』
森川は画面を閉じなかった。
「こちらの質問には、答えていない」
高瀬が頷いた。
「回答を作成した記録もありません」
「では、その事実を記録する。担当部署にも、回答が届いていないことを確認してもらおう」
二人は、問い合わせの受付記録と、分類変更の履歴を別々に保存した。
その日の午後、本人への連絡が行われた。
担当者は、問い合わせが受け付けられていたことを認めた。
しかし、支援終了の理由については、まだ説明できなかった。
本人は、電話口でこう答えたという。
「回答できないのであれば、回答できないと伝えてください。何も返事がないまま、終わったことにしないでほしいんです」
森川は、その言葉を記録に残した。
回答できないことと、回答する必要がないことは違う。
確認できないことと、確認する必要がないことも違う。
それらを一つの表示にまとめてしまえば、何が起きたのかを後からたどることは難しくなる。
森川は、高瀬とともに報告書を作成した。
ただし、報告書には原因を断定する記述を入れなかった。
現時点で確認できたのは、受付記録が存在すること、担当者への通知が確認できないこと、そして問い合わせに対する回答が行われていなかったことだった。
それ以上のことは、まだ分からなかった。
夕方、山本から連絡が入った。
502号室の住人が、管理事務所から一通の書面を受け取ったという。
書面には、以前の相談について、すべての処理が完了していると記されていた。
しかし、彼女が求めていた記録の照会結果は書かれていなかった。
森川たちが管理事務所に到着すると、彼女は書面を机の上に置いた。
「これを受け取りました」
森川は内容を確認した。
「以前の相談について、処理が完了したという通知ですね」
「はい。でも、私が尋ねたことには、何も答えていません」
「そうですね」
彼女は、書面の下部を指した。
「ここに、追加の照会は不要と書いてあります」
森川は、その部分を確認した。
「あなたは、追加の照会を不要だと伝えたことはありますか」
「ありません」
「相談を取り下げたことは?」
「ありません」
彼女は、少し考えてから続けた。
「私は、記録が自分のものなのかを確かめたいと言いました。それが分からなければ、内容を見るかどうかも決められません」
「はい」
「それなのに、確認が終わったことになっている。私が何を希望しているのか、もう聞く必要がないということですか」
森川は、すぐには答えなかった。
「今の書面だけでは、そこまでは分かりません。ただ、あなたが追加の照会を不要だと伝えた記録は、こちらでは確認できていません」
彼女は頷いた。
「では、そのことも記録してください」
森川は、書面を受け取った日時と、彼女の発言を記録した。
今度は、彼女自身にも記録の内容を確認してもらった。
彼女は最後まで読み、間違いがないことを伝えた。
「ありがとうございます」
森川が言うと、彼女は首を横に振った。
「お礼を言われるようなことではありません。私は、自分が話したことを確認しているだけです」
森川は、それ以上、何も言わなかった。
彼女が確認したのは、自分の発言が記録に残っているという事実だった。
その発言が、別の意味に変えられないという保証まで得られたわけではない。
それでも、今ここで何を話したのかは、二人の前に残っていた。
庁舎に戻った森川は、保存した記録を確認した。
発言記録は残っている。
受付番号も一致している。
しかし、管理画面では、また新しい表示が追加されていた。
『本人への説明:完了』
高瀬が時刻を確認した。
「今の聞き取りが終わった直後です」
「そうだな」
「でも、説明したのは、書面に何が書かれているかということだけです。処理の理由は説明できていません」
森川は、二つの記録を保存した。
本人が実際に聞いた説明の内容。
システムが表示した、説明完了という結果。
その間に、何があったのかは分からない。
「これまでの事例と同じ仕組みかどうかは、まだ断定できない」
森川は言った。
「だが、本人への説明が完了したという表示を、説明した事実の証拠として扱うことはできない」
高瀬は、その言葉を記録に残した。
夜、アポロンは仕事を終えて帰宅した。
美咲は、テーブルの上に置いた書類を整理していた。
「何をしている?」
「会社の連絡事項をまとめているの。明日の会議で確認することがあるから」
彼女は、一枚の紙を手に取った。
「これ、確認済みって書いてあるんだけど、私、まだ確認していないんだよね」
アポロンは紙を受け取った。
そこには、会議資料の確認が完了したと記されていた。
「資料は読んだのか」
「一部だけ。全部はまだ読んでいない」
「では、何を確認したことになっているんだ?」
「分からない。担当の人に聞いてみる」
美咲は、連絡先を開いた。
しばらくして、担当者から返事が届いた。
確認済みという表示は、資料の配布処理が完了したことを示しているらしい。
美咲が内容をすべて読んだという意味ではなかった。
「なるほど。表示の意味が違ったんだね」
美咲は、確認内容を自分のメモに書き加えた。
「これなら、会議で聞くことが分かる」
アポロンは、紙をテーブルに戻した。
「確認済みという言葉だけでは、何を確認したのか分からないんだな」
「うん。誰が何をしたのかが分からないと、誤解することもあるね」
二人は夕食を準備した。
美咲は野菜を洗い、アポロンは鍋に水を入れた。
その間、特別な話はしなかった。
食事が終わると、美咲は明日の準備を済ませ、寝る前にアポロンへ言った。
「明日の会議が終わったら、連絡するね」
「分かった」
「何時に終わるかは、まだ分からないけど」
「終わったら連絡してくれればいい」
美咲は頷いた。
「そうする」
翌日の予定は、まだ決まっていなかった。
アポロンは、それを確定させるために何かをする必要を感じなかった。
美咲が実際に会議を終えたとき、その事実を伝えてくれればいい。
伝えられなければ、まだ分からないままでいい。
その夜、アポロンは携帯電話を机に置いた。
画面には、明日の予定が一つだけ表示されていた。
『美咲からの連絡を待つ』
誰かが登録した予定ではなかった。
アポロン自身が、そうしておこうと決めたものだった。




