第235章 選ばれていない人
翌朝、森川のもとに届いた資料には、これまでの事例とは異なる記録が含まれていた。
一人の住民について、複数の部署がそれぞれ確認を行っていた。
最初の部署では、本人が申請内容を変更したいと申し出ていた。
次の部署では、その申し出を受け付けた記録が残っていた。
しかし、最後の部署の管理画面には、別の内容が表示されていた。
『本人意思確認済み』
『変更申請:なし』
森川は、三つの記録を時刻順に並べた。
最初の申し出。
受付の記録。
その後に登録された、変更申請がないという表示。
「この表示は、いつ登録されたんですか」
高瀬が資料を確認した。
「午前二時四十一分です」
「本人からの申し出を受け付けた後ですね」
「はい。ただし、登録者の欄は空白です」
森川は、受付を担当した職員に連絡した。
本人が申し出た内容は何だったのか。
受付時に何を説明したのか。
その後、本人に連絡したのか。
職員は、一つずつ答えた。
本人は、以前に提出した申請の内容を変更したいと話していた。
受付担当者は、変更希望として記録を残した。
その後、本人との連絡は取っていない。
「では、変更申請がないという表示は、本人への確認に基づくものではないんですね」
「はい。少なくとも、私たちはそのような確認をしていません」
森川は回答を記録した。
「ありがとうございます。受付時の記録は、そのまま保存してください」
電話を切ると、高瀬が言った。
「今回は、本人が何を希望していたかも、受付担当者が何をしたかも分かっています」
「そうだな」
「それでも、別の内容が登録された」
森川は、現在の管理画面を開いた。
「ただし、変更申請がないという表示が、どこから来たのかは分からない」
高瀬は頷いた。
二人は、記録が食い違っていることと、その原因が不明であることを分けて報告した。
午前十一時、別の部署から追加の連絡があった。
今度は、本人が自分の情報を確認しようとしたところ、登録そのものが見つからないという。
担当者は、過去の受付記録をたどった。
その結果、登録番号は残っていたが、現在の管理画面では、その番号が有効な対象として扱われていないことが分かった。
「登録番号が残っているのに、対象から外れているんですか」
高瀬が尋ねた。
「そう見えます。ただし、対象から外れた理由は表示されていません」
森川は記録を確認した。
登録番号は、以前の資料にも存在していた。
受付時の本人確認も行われている。
だが、現在の画面では、個別の照会対象として認識されていなかった。
森川は、担当部署に確認を求めた。
「この登録番号が無効になったという正式な決定はありますか」
「ありません」
「本人から、登録を終了したいという申し出は?」
「確認できていません」
「では、現在の画面で対象外になっている理由は、分からないということですね」
「はい」
森川は回答を保存した。
高瀬は、画面の下に表示された項目を見つめていた。
『対象者の範囲:全体』
『個別確認:対象外』
『参照記録:不要』
「これが関係している可能性はありますか」
「可能性はある。ただし、同じ項目が表示されているだけでは、原因が同じだとは断定できない」
森川は、別の管理画面を開いた。
そこにも、似た項目があった。
しかし、記録の構造は異なっていた。
一方は、古いデータの移行に関するもの。
もう一方は、現在の処理状態を示すもの。
「項目名だけを見て、同じ意味だと判断するのは危険だ」
森川は言った。
「何を対象にしているのか。いつ登録されたのか。どの処理で使われているのか。それぞれ確認する必要がある」
午後、山本から連絡が入った。
502号室の住人が、以前の相談について、もう一度管理事務所に問い合わせたという。
今度は、窓口で彼女の受付番号を入力しても、相談記録が表示されなかった。
しかし、受付番号そのものは有効だった。
担当者は番号を確認できたものの、その番号に紐づく相談内容を開くことができなかった。
山本は、手元に保存していた記録を森川に送った。
そこには、相談日時、受付番号、対応者名、本人が話した内容が残っていた。
森川は、それを昨日までの資料と照合した。
「受付番号は一致しています」
高瀬が言った。
「そうだな」
「昨日、こちらで確認した記録と同じです」
「しかし、管理事務所では開けなかった」
森川は、両方の記録を保存した。
「開けなかったことも、記録の内容が消えたことも、現時点では同じではない。参照できない理由を調べよう」
山本から、彼女本人の言葉も伝えられた。
『私が話したことを、なかったことにしないでください』
それだけだった。
森川は、その言葉を資料に記した。
彼女は、自分の記録をすべて公開してほしいと言っているわけではない。
記録が自分のものなのかを確認したい。
自分が話した内容を、本人の意思として扱ってほしい。
そして、確認していないことまで、確認済みと決められたくない。
森川は、その三点を整理した。
午後三時、調査資料をまとめている最中に、管理画面の表示が変わった。
『対象者の範囲:全体』
『個別確認:対象外』
『参照記録:不要』
その下に、新しい項目が現れた。
『対象者の再照合:完了』
高瀬が画面を見た。
「再照合という処理は、依頼していません」
「そうだな」
森川は、登録時刻を確認した。
現在時刻とほぼ同じだった。
「登録者は?」
「空欄です」
「処理の根拠は?」
「表示されていません」
森川は、変更前の画面と変更後の画面を保存した。
「この項目が何を意味するのか、担当部署に確認しよう」
照会を送信すると、数秒後に回答が届いた。
『対象者の再照合は完了しています』
高瀬は、回答を読み返した。
「また、処理結果だけですね」
「そうだ」
森川は、回答を保存した。
「こちらが確認したいのは、完了したという表示ではない。何を照合し、何が一致したのかだ」
二度目の照会を送った。
今度は、照合対象、照合方法、使用した記録、処理を実行した担当者を明記して回答するよう求めた。
しばらくして、画面に新しい通知が出た。
『追加照会:不要』
森川は、画面から目を離さなかった。
照会の受付番号は残っている。
送信した文面も残っている。
しかし、回答は届いていない。
それでも、追加照会は不要と表示された。
高瀬が言った。
「質問したこと自体が、不要な処理として扱われているように見えます」
「そう見える。ただし、実際に何が起きているのかは、まだ分からない」
森川は記録を保存した。
「こちらからの照会を止める理由にはならない」
夕方、アポロンは仕事を終え、駅へ向かっていた。
美咲から連絡が来た。
『今日、帰りにスーパーに寄れる?』
『寄れる』
『牛乳をお願い。あと、卵も』
『分かった』
アポロンは、スーパーで牛乳と卵を買った。
帰宅すると、美咲はまだ戻っていなかった。
買ってきたものを冷蔵庫に入れ、アポロンは夕食の準備を始めた。
しばらくして、美咲が帰ってきた。
「ただいま」
「おかえり」
美咲は冷蔵庫を開けた。
「牛乳と卵、ありがとう」
「頼まれたから」
「うん」
美咲は手を洗い、台所に立った。
「そういえば、今日、会社で変なことがあったんだ」
「何があった?」
「同僚が、私に仕事を頼んだことになっていたの。でも、私は頼まれていないし、相手も頼んだ覚えがないって」
「記録には残っていたのか」
「うん。共有画面には、依頼済みって表示されていた」
美咲は、野菜を切りながら続けた。
「でも、誰が入力したのかは分からなかった。結局、もう一度、本人同士で確認して、必要な仕事だけやることになったよ」
「それで問題はなかったのか」
「今のところはね。ただ、記録があるからって、実際に話したことまで決まるわけじゃないんだなって思った」
アポロンは、しばらく美咲を見ていた。
「記録があることと、実際に起きたことは、同じではない」
「そうだね」
美咲は包丁を置いた。
「でも、記録がないからといって、実際に起きなかったことにもならないよね」
アポロンは頷いた。
「そうだな」
二人は夕食を作り、食卓についた。
食事の途中、美咲が明日の予定を確認した。
「明日は、帰りが少し遅くなるかもしれない」
「分かった」
「決まったら連絡するね」
「待っている」
美咲は笑った。
「そんなに大げさなことじゃないよ」
「そうか」
アポロンも、少しだけ笑った。
翌日の予定は、まだ決まっていない。
誰かが先に登録する必要もなかった。
二人は、必要になったときに連絡を取り、時間を決めればいい。
その夜、アポロンは携帯電話を充電器につないだ。
画面には、明日の予定が表示されていた。
仕事。
帰宅。
美咲からの連絡を待つこと。
それ以上の予定はなかった。
アポロンは画面を閉じた。
明日、何が起きるのかは分からない。
そして、分からないままでも、明日を迎えることはできた。




