第233章 残された証言
翌朝、アポロンはいつもより少し早く店に着いた。
事務所の壁には、昨日と同じシフト表が貼られている。
自分の名前。
勤務時間。
健一の名前。
どれも変わっていなかった。
健一は事務所の机で、共有画面を開いていた。
「やっぱり、時間が出ないな」
「紙には書いてある」
「うん。紙のほうが正しいかどうか、念のため確認しておきたいんだ」
健一は店長に電話をかけた。
店長はシフト表を確認し、二人の勤務時間に変更がないことを伝えた。
「これで大丈夫だな」
健一は電話を切った。
「システムの表示がおかしくても、確認できる方法はあるからな」
アポロンは頷いた。
二人は開店準備に戻った。
その頃、森川は前日に送った照会への回答を待っていた。
午前九時。
回答期限には、まだ余裕があった。
しかし、管理画面にはすでに新しい状態が表示されていた。
『照会処理:完了』
森川は、送信した照会文を開いた。
求めたのは、本人の意思を確認した日時、方法、担当者、およびその記録だった。
回答は、まだ届いていない。
「照会処理が完了したことになっています」
高瀬が言った。
「回答は?」
「ありません」
森川は画面を保存した。
「受付が完了したことと、回答が完了したことは違う。処理の名称だけで、どちらなのか判断してはいけない」
高瀬は照会履歴を確認した。
送信時刻は残っている。
照会番号も一致している。
しかし、回答欄には何もなかった。
「こちらから、もう一度照会しますか」
「先に、担当部署へ連絡しよう。実際に回答を作成したのか、それとも画面だけが変わったのかを確認する」
担当部署に電話すると、職員は照会を受け取ったことを認めた。
だが、回答は作成していないという。
「完了の表示は、どこで確認できますか」
森川が尋ねた。
「こちらの端末でも、同じように表示されています」
「回答を作成していないのに、完了になっているんですね」
「はい。理由は分かりません」
森川は担当者名と確認時刻を記録した。
電話を切ったあと、高瀬が言った。
「少なくとも、担当部署が回答を送ったわけではない」
「そうだな」
「では、この完了表示は、実際の業務とは別に動いている可能性があります」
「可能性はある。ただ、どこで、何を基準に完了と判断しているのかは、まだ分からない」
森川は記録を二つに分けた。
一つは、照会を送信した記録。
もう一つは、回答が存在しないことを担当部署に確認した記録。
完了表示は、そのどちらとも別に保存した。
午前十時半、山本から連絡が入った。
502号室の住人が、昨日の相談について、もう一度話をしたいという。
森川たちが管理事務所に着くと、彼女は受付番号を記した紙を持って待っていた。
「昨日、私が相談した記録が見つからなかったでしょう」
「はい」
「そのあと、担当の方から連絡がありました」
彼女は紙を机に置いた。
「私の相談は、すでに処理が終わっているので、これ以上の対応は必要ないと言われました」
「どのような処理が終わったと説明されましたか」
「本人確認と、支援に関する手続きです」
森川は確認した。
「あなたが昨日話した内容について、回答はありましたか」
「ありません」
「記録を見せてもらえましたか」
「いいえ。記録は見つからないと言われました」
彼女は少し間を置いた。
「それでも、処理は終わっているそうです」
森川は受付番号を確認した。
昨日、彼女が相談した際に発行されたものと一致していた。
「この番号は、あなたが相談したことを示すものです。こちらでも、番号と対応記録を照合します」
「では、私が相談したことは、確認できるんですね」
「はい。少なくとも、昨日の受付記録は残っています」
彼女は頷いた。
「それなら、その記録を使ってください。私が何を話したのかを、別の人が勝手に決めるのではなく、実際に話した内容を確認してほしいんです」
「分かりました」
森川は、その希望を記録した。
今度は、発言内容だけでなく、本人がどの記録を根拠にしているのかも明記した。
彼女は、受付番号が記載された紙を自分の手元に戻した。
「これは、持っていてもいいですか」
「もちろんです。原本はそのまま保管してください」
「分かりました」
彼女は紙を鞄にしまった。
森川は、その行為を止めなかった。
午後、森川と高瀬は、複数の部署から集めた記録を並べた。
照会の回答がないのに、処理は完了している。
本人が相談した記録が残っているのに、通常の検索では見つからない。
本人が終了を希望していないのに、支援終了の処理が完了している。
それぞれの事例には違いがある。
ただし、共通している点もあった。
実際に起きたことを示す記録が存在していても、その記録が現在の処理結果に反映されていない。
「このままでは、記録があるかどうかを確認するだけでは足りませんね」
高瀬が言った。
「そうだな」
森川は答えた。
「記録があること。必要なときに参照できること。その記録が実際の処理に反映されること。この三つを分けて調べる必要がある」
「本人の意思についても同じですね」
「本人が話したことと、システムが確認済みと表示したことは別だ」
高瀬は、資料の余白にその二つを書き分けた。
そのとき、森川の端末に新しい通知が入った。
『対象者の範囲:全体』
『個別確認:対象外』
『処理状態:実行中』
これまで何度も見た項目だった。
しかし、今回は、その下に新しい項目が加わっていた。
『参照記録:不要』
高瀬が画面を見つめた。
「参照記録まで、不要になったんですか」
森川は、通知が届いた経路を確認した。
発行元は、これまでと同じく0000だった。
「この項目が何を意味するのか、まだ分からない」
「でも、今まで調べていた記録そのものが、必要ないと扱われる可能性があります」
「そうだな」
森川は通知を保存した。
「だからこそ、こちらが何を確認し、何を確認できていないのかを、記録に残し続ける必要がある」
彼らには、全体の仕組みを止める権限も、原因を断定できる証拠もなかった。
今できるのは、実際に起きたことと、システムが示している結果を混同しないことだった。
夕方、アポロンは店の仕事を終え、健一と一緒に事務所を片づけていた。
健一は壁のシフト表を外し、新しいものに差し替えた。
「明日の分も、紙で貼っておくか」
「共有画面には出ないのか」
「まだ直っていないらしい。店長が確認してくれたから、勤務時間は分かっているけどな」
健一は古いシフト表を折りたたんだ。
「念のため、しばらく残しておくよ」
「捨てないのか」
「新しいほうに間違いがないと分かるまではね」
健一は、古い紙を引き出しにしまった。
「何かあったとき、前の記録がないと困るだろ」
アポロンは、その言葉を聞いていた。
古い記録があるからといって、すべてが正しいとは限らない。
だが、現在の表示だけを見て、過去に何があったかを決めることもできない。
アポロンは、そう考えた。
店を出ると、美咲からメッセージが届いた。
『今日は少し遅くなる。先に夕飯を食べていて』
『分かった』
帰宅すると、アポロンは自分の分の夕食を用意した。
食べ終わる頃、美咲からもう一度連絡があった。
『今から帰るね』
アポロンは食器を洗い、テーブルを拭いた。
美咲が帰ってきたのは、それから三十分後だった。
「ただいま」
「おかえり」
美咲は鞄を置き、テーブルの上を見た。
「先に食べたんだね」
「そう言ったから」
「うん。ありがとう」
美咲は冷蔵庫から飲み物を取り出した。
「明日の予定、覚えてる?」
「駅で待ち合わせる」
「そう。時間は、明日連絡するね」
「分かった」
美咲はスマートフォンを操作し、何かを確認していた。
「どうした?」
「さっき送ったメッセージが、また見つからなくなっているの」
「何と書いたんだ?」
「帰る時間を送ったはずなんだけど、送信履歴には残っていない。でも、あなたから返事が来た気がする」
アポロンは、自分の端末を開いた。
美咲から届いたメッセージは、残っていた。
『今から帰るね』
その後に送った返事も残っている。
「こちらには、両方ある」
美咲は画面をのぞき込んだ。
「あ、本当だ」
彼女は自分の端末を操作した。
何度か画面を切り替えたが、該当するメッセージは見つからなかった。
「変だね」
「そうだな」
アポロンは、二つの画面を見比べた。
美咲が送ったという記憶。
自分が受け取ったメッセージ。
それぞれの端末に残っている記録。
どれか一つを見ただけでは、何が起きたのか分からない。
「明日、必要なら、もう一度送ればいい」
アポロンが言うと、美咲は頷いた。
「そうする」
二人はそれ以上、調べなかった。
その夜、アポロンは寝る前に携帯電話を充電器につないだ。
画面には、翌日の予定が表示されている。
駅で待ち合わせる。
時間は、まだ決まっていない。
その予定は、二人が実際に話した内容と一致していた。
アポロンは画面を閉じた。
翌日になれば、また二人で決めればいい。
しかし、もし誰かが、二人の話し合いを待たずに予定を確定させたとしたら。
そのとき、記録に残る予定と、二人が本当に決めたことは、同じものになるのだろうか。
アポロンには、まだ答えがなかった。




