第231章 名前のない通知
朝、森川の端末に一本の電話が入った。
昨日、照会の連絡を受けた担当者からだった。
「確認していただきたいことがあります」
相手の声は落ち着いていた。
「昨日まで、こちらで対応中だった方の記録なんですが、今朝になって処理が終了していました」
「終了というのは、どういう意味ですか」
「本人確認が完了し、支援手続きが終了したという表示です」
森川は手元の資料を開いた。
「本人との連絡は取れていますか」
「いいえ。少なくとも、こちらでは連絡していません」
「終了の申請を受け付けた記録は?」
「見当たりません」
森川は画面に表示された時刻を確認した。
変更されたのは、午前四時十七分。
通常の業務時間ではなかった。
「記録を削除したり、修正したりしないでください。変更履歴も含めて保存してください」
電話を切ると、森川は高瀬を呼んだ。
高瀬は画面を見て、眉を寄せた。
「また、本人確認が完了していますね」
「今回は、その先まで進んでいる」
「手続き終了ですか」
「そうだ」
高瀬は別の画面を開いた。
対象者の情報は残っている。
住所も、過去の連絡先も、以前の担当者も表示されていた。
ただし、現在の支援状況だけが終了に変更されている。
変更理由の欄には、短い文があった。
『本人意思確認済み』
その下には、何もない。
確認方法も、確認日時も、担当者名も記載されていなかった。
「記録上は、本人が希望して終了したことになっています」
高瀬が言った。
「しかし、本人が希望したという証拠はない」
森川は答えた。
「表示されている結果と、実際に起きたことを混同しないようにしよう」
午前十時過ぎ、対象者本人から連絡があった。
男性だった。
「さっき、支援が終了したという通知が届きました」
森川は確認した。
「終了を希望された覚えはありますか」
「ありません」
「昨日までの担当者と話をしましたか」
「昨日も話していません。最後に話したのは先週です」
「通知には、どのように書かれていますか」
男性は手元の文面を読み上げた。
「本人確認は完了しました。今後の手続きは不要です。そう書いてあります」
「通知の送信元は分かりますか」
「共通管理サービスとしか表示されていません」
森川は通知の番号を聞き取り、記録した。
「こちらで確認します。現時点では、終了を希望されたという事実は確認できていません」
「では、支援は続いているんですか」
森川はすぐには答えなかった。
記録上は終了している。
しかし、その変更が正当なものかどうかは分からない。
「担当部署に現在の状態を確認します。少なくとも、ご本人が希望したという扱いについては、根拠が確認できていません」
「分かりました。確認できたら、連絡をください」
電話が終わった。
高瀬はすでに担当部署へ照会を送っていた。
返答は、数分で届いた。
『システム上、本人確認および終了処理は完了しています』
高瀬は画面を森川に向けた。
「質問への回答になっていませんね」
「そうだな」
「誰が確認したのかを聞いているのに、処理が完了したと返している」
森川は返答を保存した。
「もう一度聞こう。本人と接触した記録があるのか。終了を受け付けた記録があるのか。それぞれ分けて回答を求める」
二度目の照会にも、同じ文面が返ってきた。
『本人確認および終了処理は完了しています』
その直後だった。
森川の端末に、新しい更新記録が表示された。
『個別確認:対象外』
『処理状態:継続』
高瀬が息を止めた。
「終了したのに、処理は継続している?」
「二つの処理が、同じ意味で使われているとは限らない」
森川は画面を拡大した。
「だが、今のところ、何を継続しているのかも分からない」
午後、山本から連絡が入った。
502号室の住人が、管理事務所に来ているという。
森川と高瀬が到着すると、彼女は窓口の前に座っていた。
机の上には、一枚の通知が置かれていた。
「これが届いたそうです」
山本が説明した。
通知には、支援に関する確認がすべて完了したと書かれていた。
その下には、今後の照会や個別の意思確認は不要であると記されている。
「私は、何も答えていません」
彼女は森川を見た。
「誰とも話していません」
「通知が届いたのは、いつですか」
「今日の午前中です」
「以前、確認の電話があったと話していましたね」
「ありました。でも、私は何も確認していないと伝えました」
彼女は通知を指で押さえた。
「それなのに、今度は確認が終わったことになっています」
森川は通知を確認した。
発行番号は、先ほどの男性に届いた通知とは異なっていた。
しかし、文面の構成はよく似ていた。
「この通知を受け取ったことで、何か手続きができなくなりましたか」
森川が尋ねた。
「まだ分かりません」
彼女は正直に答えた。
「ただ、今日、管理事務所で以前の記録について聞こうとしたら、確認済みなので追加の照会は受け付けられないと言われました」
山本が口を挟んだ。
「窓口の担当者も、通知を見て判断したようです。本人が何を話したかまでは、確認していません」
森川は担当者の名前を聞き、対応した時刻を記録した。
彼女はしばらく黙っていた。
やがて、机の上の通知を裏返した。
「私は、記録を全部見たいと言っているわけではありません」
「はい」
「私についての記録があるのなら、それが私のことなのかを先に確かめたいんです。それから、見るかどうかを決めたい」
森川は頷いた。
「その希望は、こちらで記録します」
「でも、また確認済みと書かれるんでしょうか」
森川は答えを急がなかった。
「今の記録には、あなたが実際に何を希望したのかを確認できる根拠がありません。少なくとも、こちらでは、確認があったと断定しません」
彼女は森川を見た。
「では、私が今ここで話していることも、記録してもらえますか」
「はい。あなたの発言として、日時と対応者を明記して残します」
「それならお願いします」
森川はその場で記録を作成した。
高瀬も立ち会い、彼女に内容を読み上げた。
本人が確認したのは、記録の文章だった。
システム上の確認結果ではない。
彼女は一度、最後まで聞いてから言った。
「その内容で間違いありません」
森川は記録を保存した。
その数秒後、画面の隅に通知が現れた。
『本人確認:完了』
森川は手を止めた。
今、彼女が確認したのは、森川たちが作成した発言記録だ。
ところが、画面には、何を確認したのかという区別がなかった。
高瀬がすぐに記録を開いた。
「変更履歴を確認します」
新しい記録は、確かに保存されていた。
彼女の発言も、確認した文章も残っている。
ただし、別の管理画面では、先ほどまで未確定だった本人確認の項目が、完了に変わっていた。
「この二つが連動したんでしょうか」
高瀬が言った。
「可能性はある。しかし、連動したというだけでは、何を根拠に完了と判断したのか分からない」
森川は二つの画面を保存した。
「今の記録を消したり、取り消したりはしない。彼女が話した事実まで消すことになる」
「では、別に訂正記録を作りますか」
「そうしよう。本人確認の表示が、本人の意思確認を意味するものではないことを明記する」
彼女は二人のやり取りを聞いていた。
「私が話したことが、勝手に別の意味になるんですか」
森川は彼女を見た。
「今、起きていることからは、その可能性を否定できません。ただし、どの処理が原因なのかは、まだ分かっていません」
彼女は少し考えた。
「それなら、これからも、自分が何を話したのかを覚えておきます」
それ以上は言わなかった。
森川たちも、彼女に何かを約束させることはしなかった。
夕方、二人が庁舎に戻ると、別の部署から問い合わせが来ていた。
ある住民が、窓口で自分の登録情報を確認しようとしたところ、該当する情報が見つからなかったという。
住所も、氏名も、本人が持参した書類と一致している。
窓口の端末では、本人の情報を検索できない。
しかし、過去の受付記録には、その住民が実際に来庁した記録が残っていた。
「データが消えたんですか」
高瀬が尋ねた。
「そこまでは言えない」
森川は回答を読み返した。
「検索対象から外れたのかもしれない。参照先が変わった可能性もある。まずは、どこに何が残っているのかを調べる」
「でも、本人は窓口にいたんですよね」
「そうだ」
「本人がそこにいるのに、本人の情報を取り出せない」
森川は頷いた。
「その二つを、別々の事実として記録しておこう」
夜。
アポロンは仕事を終え、駅前の店で牛乳を買った。
レジで会計を済ませようとしたとき、店員が顔を上げた。
「あれ、ポイントカードはお持ちですか」
「持っていない」
「そうでしたか。失礼しました」
店員はすぐに会計を続けた。
何もおかしなことはなかった。
店を出ると、携帯電話に美咲からメッセージが届いていた。
『明日の帰り、駅で待ち合わせできる?』
『できる』
『じゃあ、いつもの改札で』
アポロンは返事を送り、歩き始めた。
その途中で、もう一通メッセージが届いた。
美咲からのものだった。
『ごめん、さっきの時間、少し遅くなるかも』
アポロンは時刻を確認した。
まだ、翌日の予定について話しているだけだった。
『分かった。時間が決まったら教えてくれ』
そう返す。
家に帰ると、美咲はまだ戻っていなかった。
アポロンは牛乳を冷蔵庫に入れ、鉢植えの土を確かめた。
水は、まだ必要なさそうだった。
そのとき、携帯電話が鳴った。
美咲から電話がかかってきた。
「もしもし」
『今、帰り道』
「分かった」
『明日の待ち合わせなんだけど、私、何時って言ったっけ』
アポロンは少し考えた。
「時間は決めていない。駅で待ち合わせることだけ決めた」
『あ、そうだった。よかった』
美咲は小さく笑った。
『なんか、送ったメッセージが一つ消えていて。私、時間まで決めたと思ったんだけど』
「こちらには、残っていない」
『じゃあ、明日また決めよう』
「分かった」
電話は、それだけで終わった。
アポロンは携帯電話の画面を見た。
美咲とのやり取りは、普段どおり残っている。
消えたというメッセージの内容も、彼には分からない。
単なる操作ミスかもしれない。
通信上の問題かもしれない。
今の段階で、理由を決めることはできなかった。
アポロンは携帯電話を置き、夕食の準備を始めた。
翌日の待ち合わせは、まだ決まっていない。
だから、明日になったら決めればいい。
その予定を、誰かが先に確定させる必要はなかった。




