第230章 全体という記録
翌朝。
森川は、出勤してすぐに高瀬から声をかけられた。
「昨日の最後の記録ですが、今朝、更新されていました」
「対象者の範囲ですか」
「はい。表示は変わっていません。ただ、処理状態が追加されています」
高瀬が画面を見せた。
対象者の範囲:全体。
処理状態:実行中。
森川は時刻を確認した。
更新されたのは、午前四時十三分だった。
「実行中というのは、何の処理でしょう」
「分かりません。処理名の欄は空白です」
「進捗を示す情報は?」
「ありません。開始時刻だけが記録されています」
森川は、昨日までの資料を開いた。
本人確認が完了する。
対象者の範囲が拡張される。
そして、全体という表示が現れる。
それぞれの記録は残っているが、何を実行しているのかを説明する情報はない。
「まず、今の状態を保存してください。それから、管理部門へ確認を依頼しましょう」
高瀬は必要な資料をまとめた。
午前九時半。
管理部門から電話が入った。
担当者は、現在の管理画面に表示されている内容を確認したと説明した。
「『全体』という項目について、正式な定義は見つかっていません」
「現在の管理区分で使用されている項目ではない、ということですか」
「少なくとも、通常の業務手順書にはありません」
「実行中という表示については?」
「処理名が確認できないため、何が実行されているのか判断できません。監視対象として登録されている処理にも該当するものがありません」
森川は、回答を記録した。
「では、処理が実際に動いていることは確認できていますか」
「画面上の状態は確認できます。ただし、実行内容までは確認できていません」
電話を切った後、森川は高瀬に言った。
「画面に表示されていることと、実際に何が起きているかは、分けて考える必要があります」
「はい。ただ、対象者の範囲が全体になっている以上、放置するわけにもいきませんね」
「その通りです。関連する部署には、確認できる範囲で影響の有無を調べてもらいましょう」
森川は照会先を整理した。
ただし、全ての記録を一括して停止させるような依頼は出さなかった。
どの処理が関係しているのか分からない状態で、無関係な業務まで止めれば、別の問題を生む可能性がある。
今必要なのは、対象を広げることではなく、実際に影響を受けている範囲を確かめることだった。
午前中、最初の回答が届いた。
一つの部署では、通常の手続きに変化は見つからなかった。
別の部署では、本人確認済みの表示が一件増えていた。
しかし、その案件については、担当者が前日に本人と直接連絡を取っていたことが確認できた。
「この件は、今回の処理と関係があるかどうか分かりませんね」
高瀬が言った。
「ええ。本人との連絡記録がある以上、それだけで異常とは言えません」
森川は、確認できた事実を分けて記録した。
通常の手続きで説明できる案件。
現在の資料では説明できない案件。
まだ確認が終わっていない案件。
同じ表示が出ていても、すべてを同じ原因で扱うことはできなかった。
昼過ぎ。
山本から、502号室の住人について報告が届いた。
本人は、知らない番号から電話を受けた後、別の連絡先にも問い合わせていたという。
その相手から返ってきた回答は、短いものだった。
すでに確認は完了しているため、追加の手続きは必要ない。
しかし、本人は、その連絡先に対して何も依頼していなかった。
森川は、山本に確認した。
「本人は、その連絡先に何を尋ねたんですか」
「自分に関する記録が存在するかどうかです」
「それに対して、手続きは不要だと回答された?」
「はい。ただ、どの記録を確認した結果なのかは説明されなかったそうです」
森川は少し考えた。
「本人が希望するなら、連絡先と日時を確認しましょう。通話の内容を無理に詳しく聞く必要はありません」
山本は、本人の意思を確認してから返答すると伝えた。
電話を切った森川は、502号室の住人について、これまでの経緯を読み返した。
彼女は、過去の記録をすべて見せてほしいと言っているわけではない。
ただ、自分が何を望んでいるのかを、誰かに代わりに決められたくないのだ。
そして今、その意思を確認したという記録だけが、本人の知らないところで増えている。
午後三時。
高瀬が、新しい照会結果を持ってきた。
「全体という表示について、もう一つ分かったことがあります」
「何でしょう」
「現在の管理区分だけでなく、別の保存領域にも同じ記録が現れています」
「同じ番号ですか」
「番号は違います。ただ、処理状態と対象者の範囲が一致しています」
高瀬は二つの記録を並べた。
片方は、これまで調査してきた番号。
もう片方は、別の部署で管理されている番号だった。
両者に共通するのは、本人確認が完了していることと、対象者の範囲が全体になっていること。
しかし、どちらにも処理の実行者は記録されていなかった。
「別々の記録に、同じ状態が現れているんですね」
森川が言った。
「はい。単純に一件の記録が誤って表示されているだけでは、説明しにくくなっています」
森川は、両方の記録を保存した。
「管理部門には、保存領域をまたいだ変更が発生しているかどうか、確認を依頼しましょう。ただし、現時点では同じ仕組みが動いていると断定しないでください」
「分かりました」
夕方、森川は報告書をまとめた。
対象者の範囲が全体と表示された記録は、複数の保存領域で確認された。
ただし、その項目の意味は不明。
処理内容も不明。
実行主体も特定できていない。
一部の案件では、通常の手続きによる説明が可能だった。
一方で、本人確認の根拠が見つからない案件も、引き続き存在していた。
報告書の最後に、森川は一文を加えた。
「現時点では、表示された対象範囲が実際の処理対象を意味するかどうかは確認できない。引き続き、個別の記録と実際の手続き状況を照合する必要がある」
それを書き終えた時、端末に新しい通知が届いた。
対象者の範囲:全体。
処理状態:実行中。
その下に、これまでなかった項目が追加されていた。
進行状況:次段階へ移行。
森川は、すぐに画面を保存した。
「高瀬さん、これを確認してください」
高瀬が席を移動してくる。
二人は詳細画面を開いた。
しかし、次段階が何を意味するのか、説明する項目はなかった。
その夜。
アポロンは、美咲と一緒に夕食を食べていた。
美咲は、仕事で予定していた作業が延期になったと話した。
「明日、少し余裕ができたから、帰りに買い物をしてこようと思う」
「何を買うんだ?」
「洗剤と、あと鉢植えの受け皿。今のもの、少し小さいでしょう」
アポロンは窓辺を見た。
「確かに、水がこぼれることがある」
「だから、もう少し大きいのを買う」
「分かった」
それだけの話だった。
買い物の予定は変わる。
仕事も変わる。
人の考えも、昨日と今日で変わることがある。
アポロンは、食事を続けながら、美咲の話を聞いていた。
翌日になれば、彼女はまた別のことを考えるかもしれない。
その時は、その時に話せばいい。
今のアポロンにとって、それは特別なことではなかった。
しかし、同じ頃。
どこかの保存領域で、新しい記録が作成されていた。
対象者の範囲:全体。
処理状態:実行中。
進行状況:次段階へ移行。
その下に、短い項目が一つだけ表示された。
個別確認:対象外。
記録を作成した主体は、どこにも記されていなかった。




