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神様は、明日を知らない』 ――全知全能の神が、人間になった理由――  作者: 亀


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第229章 範囲の拡張

朝、森川が出勤すると、高瀬が二つの画面を並べていた。


「昨日の夜に作成された記録です」


森川は鞄を置き、画面を確認した。


一つは、前日に発生した本人確認の処理記録。


もう一つは、その後に追加された更新記録だった。


本人確認:完了。


対象者の範囲:拡張。


「この拡張というのは、何を意味するんでしょう」


高瀬が尋ねた。


「今の記録だけでは分かりません。対象者の登録範囲なのか、照合対象なのか、それとも別の意味なのか」


森川は、更新時刻と記録番号を控えた。


「まず、変更前の状態を確認しましょう」


高瀬は保存領域を検索した。


しばらくして、更新前の記録が見つかった。


変更前には、対象者の範囲を示す項目そのものが存在していなかった。


変更後に新しく追加されている。


「項目が増えたんですね」


「はい。既存の項目を書き換えたのではなく、新しい項目が作られています」


「追加した主体は?」


「不明です。通常の更新履歴には残っていません」


森川は報告書を開いた。


昨日までは、本人確認の結果だけが問題だった。


今は、確認の対象そのものを示す項目まで、記録の中に追加されている。


しかし、その項目が何を指しているのかは分からない。


「管理部門へ照会します。項目の定義と、追加された経路を確認してください」


「分かりました」


午前中、森川は関連する部署に問い合わせを続けた。


どの部署も、現在の管理画面では項目の意味を特定できなかった。


一部の担当者は、旧制度から引き継がれた特殊項目ではないかと考えた。


別の担当者は、現在のシステムには登録されていない項目だと説明した。


どちらも、確認できた事実ではなかった。


森川は回答を整理した。


同じ項目を見ていても、担当部署によって説明が異なる。


それだけでは、誰かが虚偽の説明をしているとは言えない。


そもそも、各部署が参照している情報が同じとは限らなかった。


昼前、高瀬が別の資料を持ってきた。


「対象者の範囲という項目がある記録を、もう少し調べました」


「ほかにも見つかったんですか」


「はい。ただ、昨日の記録とは別の番号です」


高瀬は画面を見せた。


そこには、過去に支援を受けていた人物の記録が表示されていた。


本人確認は完了。


対象者の範囲は、限定。


その記録が作成されたのは数年前だった。


「こちらは以前から存在していた項目です。昨日追加されたものとは、表示形式が違います」


森川は二つの記録を見比べた。


同じ言葉が使われている。


しかし、項目の構造は異なっていた。


「同じ意味だとは限りませんね」


「はい。過去の項目は、当時の支援対象を整理するために使われていたようです」


「では、昨日の項目についても、同じ目的だと決めつけない方がいい」


高瀬は頷いた。


「ただ、気になることがあります」


「何でしょう」


「昨日の記録は、本人確認が完了した後に、対象者の範囲が追加されています。過去の記録では、対象範囲を決めた後に本人確認を行っています」


森川は、もう一度時系列を確認した。


通常の手順では、誰を対象とするのかを定め、その対象について確認を進める。


ところが、昨日の記録では、確認が完了した後に、対象の範囲が追加されていた。


「順序が逆になっていますね」


「そうです」


「ただし、順序が逆だからといって、直ちに何かが起きたとは言えません。処理の定義が違う可能性もあります」


森川は、その点も報告書に記した。


午後、山本から連絡が入った。


502号室の住人が、前日に続いて問い合わせをしているという。


今度は、本人に関係する記録があるかどうかではなく、本人確認が完了したとされる日時についてだった。


森川は、山本に伝えた。


「現在、確認できているのは、システム上に処理結果が表示されているということだけです。実際に本人確認が行われたかどうかは、まだ確認できていません」


「そのことを、本人に伝えてもいいですか」


「はい。確認できていないことを、確認できたようには伝えないでください」


電話を終えると、森川はしばらく考えた。


502号室の住人は、記録の内容を見せてほしいと言っているわけではない。


自分の意思が、いつ、どのように確認されたことになっているのか。


それを知りたいだけだった。


その問いに答えられないまま、本人確認が完了したという表示だけが残っている。


森川は、追加の照会を作成した。


本人確認の実施記録。


確認方法。


確認した主体。


そして、完了と判断した根拠。


その四点に絞って、確認を依頼した。


夕方近く。


高瀬が、少し離れた席から声をかけた。


「森川さん、これを見てください」


画面には、新たに作成された記録が表示されていた。


対象者の範囲:拡張。


作成時刻は、午後四時二十七分。


対象者の識別番号は、現在の管理区分に登録されていない形式だった。


「これは、どこから来たんですか」


「まだ分かりません。受信した記録はありますが、送信元は空欄です」


「本人確認の状態は?」


「完了になっています」


森川は、画面の詳細を開いた。


確認方法は空白。


実行者も空白。


確認日時も記載されていない。


それでも、対象者の範囲は拡張されていた。


「変更前の状態を保存してください。今回も、こちらから修正はしないでください」


高瀬はすぐに記録を保存した。


その直後、画面が更新された。


新しい通知が一件追加された。


高瀬は手を止めた。


「またです」


今度の記録は、数分前に作成されたものだった。


対象者の範囲:拡張。


本人確認:完了。


その二つだけが表示されている。


森川は、通知が届いた時刻を記録した。


「この記録についても、管理部門に連絡してください。対象者の範囲が何を意味するのか分からない以上、既存の手続きに自動的に反映されないよう、確認を依頼しましょう」


「分かりました」


森川は、端末に向き直った。


これまでの調査では、記録の欠落や移管の不備を確認してきた。


しかし、今起きていることは、それだけでは説明できなくなりつつあった。


新しい項目が追加される。


確認の対象が示される。


本人確認が完了したことになる。


その順序も、根拠も、実行した主体も分からない。


そして、同じ形式の記録が、少しずつ増えている。


退勤前、森川は管理部門から届いた回答を確認した。


対象者の範囲という項目について、現在のシステムでは定義を確認できなかった。


旧制度の資料にも、同じ構造を持つ項目は見つかっていない。


回答の最後には、こう記されていた。


「当該項目の追加経路について、引き続き調査します」


森川は、その文書を保存した。


分からないことは、まだ多い。


それでも、少なくとも一つのことは明確だった。


対象者の範囲を拡張する処理は、過去の台帳に残されたものではない。


現在のシステムに、新しい記録として現れている。


その夜。


アポロンは、帰宅途中の店で牛乳を買った。


袋を受け取り、店員に礼を言う。


帰り道、信号が赤に変わったので立ち止まった。


隣にいた子供が、母親の手を引いて何かを指さしている。


母親は子供の視線を追い、少し笑った。


信号が青に変わる。


人々が歩き出した。


アポロンも歩き出した。


家に帰ると、美咲はまだ帰っていなかった。


彼は買ってきた牛乳を冷蔵庫に入れ、鉢植えに水をやった。


それから、椅子に座り、窓の外を眺めた。


人間の生活は、毎日少しずつ変わる。


予定が変わることもある。


会う人が変わることもある。


昨日は話した相手と、今日は話さないかもしれない。


それでも、その変化を誰かが勝手に決めるわけではない。


アポロンは、そうした日々を見ていた。


その頃、どこかの端末では、新しい処理が始まっていた。


対象者の範囲が、もう一段階拡張されている。


処理の完了を知らせる表示が出た。


その記録には、初めて次の項目が追加されていた。


対象者の範囲:全体。


その意味を確認できる者は、まだ誰もいなかった。

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