第228章 変わり始めた日常
翌朝。
森川は、出勤してすぐに管理部門から届いた報告書を開いた。
昨日、0000という識別番号を送信元に持つ処理について、追加調査を依頼していた。
報告書に記載されていたのは、三つの事実だった。
第一に、処理要求を受信した記録は残っている。
第二に、要求を送信した端末は特定できない。
第三に、現在の管理区分には、その要求を発行する権限を持つ登録主体が存在しない。
森川は、最後の項目をもう一度読んだ。
権限を持つ登録主体が存在しない。
それでも、処理は実行されていた。
「高瀬さん、少し確認してもらえますか」
隣の席で資料を整理していた高瀬が振り向いた。
森川は報告書を渡した。
高瀬は最初から読み、最後に小さく息を吐いた。
「権限がないのに処理された、ということですか」
「正確には、現在の登録情報からは権限を確認できない、ということです」
「同じことでは?」
「結果は似ています。ただ、権限の登録が失われたのか、別の仕組みから要求されたのか、そもそも登録を必要としない経路があるのか。まだ区別できていません」
高瀬は報告書を机に置いた。
「分かりました。確認できるところから進めます」
森川は、昨日保存した五件の処理記録を開いた。
そのうち二件は、すでに別の担当部署へ引き継がれていた。
残りの三件については、後続の手続きが保留されている。
しかし、問題はそれだけではなかった。
午前九時過ぎ。
別の部署から、新しい問い合わせが届いた。
内容は簡潔だった。
過去に本人確認が完了したと記録されている案件について、本人から「そのような確認を受けた覚えがない」と申し出があったという。
森川は受付番号を確認した。
昨日の五件とは異なる番号だった。
「この案件も、調べてみましょう」
高瀬が言った。
「ええ。ただし、0000との関連はまだ分かりません。まず、本人の申し出と既存記録を照合します」
二人は、関連する記録の閲覧権限を確認し、必要な範囲だけを取り寄せた。
過去の処理記録には、本人確認完了とある。
しかし、確認方法の欄は空白だった。
担当者名もない。
連絡履歴も見つからない。
昨日までの案件と、よく似ていた。
だが、今回の記録には一つ違いがあった。
本人が、現在も連絡を受け取れる状態にあった。
指定された連絡先は有効で、本人からの申し出も正式に受け付けられている。
つまり、過去の記録が不完全であっても、今の本人の意思を確認する機会は残っていた。
森川は担当部署に連絡した。
「過去の記録だけで、本人の意思を確定しないでください。現在の申し出を別途記録し、必要な確認を進めてください」
電話を終えた後、高瀬が言った。
「少なくとも、今回は本人に確認できますね」
「はい。過去に確認できなかったことと、今も確認できないことは違いますから」
高瀬は、その言葉を記録に残した。
昼前。
森川の端末に、山本からメッセージが届いた。
502号室の住人が、以前の問い合わせについて追加の説明をしたいという。
森川は、山本を通じて、本人が話したい範囲を先に確認してもらった。
しばらくして、返信が届いた。
本人は、記録の内容を見せてほしいわけではないという。
ただ、自分の意思を確認したことになっている記録があるなら、いつ、どのような方法で確認したのかを知りたい。
それだけだった。
森川は返事を打った。
確認できる範囲を調べ、分かったことと分からないことを分けて説明すると伝えた。
送信してから、彼は机の上の資料に目を落とした。
本人の意思を確認した記録はある。
しかし、本人が確認に応じたことを示す記録はない。
この二つを同じものとして扱うことはできなかった。
午後一時。
高瀬が、別の資料を持ってきた。
「昨日の処理記録について、追加で分かったことがあります」
「何でしょう」
「変更履歴を、別の保存領域から確認できました。少なくとも一件については、本人確認の状態が変わる直前まで、未確認として記録されていました」
「その後は?」
「変更操作の記録がありません。状態だけが変わっています」
森川は資料を受け取った。
「ほかの案件も同じですか」
「まだ確認中です。ただ、今のところ、通常の変更履歴とは一致していません」
森川は報告書に目を通した。
変更前の状態は残っている。
変更後の状態も残っている。
その間にあるはずの操作だけが見つからない。
記録が欠けているのか。
記録を残さない経路が存在するのか。
あるいは、二人がまだ把握していない別の仕組みがあるのか。
どれも、今の資料だけでは判断できなかった。
「保存できた履歴を、変更せずに保管してください。ほかの案件についても、同じ方法で確認できるか調べましょう」
「分かりました」
高瀬が席に戻った。
森川は、窓の外に目を向けた。
昼休みの時間だった。
廊下から職員たちの話し声が聞こえる。
誰かが昼食の店を相談している。
別の誰かが、午後の会議について話している。
いつもと変わらない音だった。
その時、森川の端末が短く鳴った。
新しい通知だった。
今度は、調査対象として登録していない案件についての連絡だった。
別の部署で、本人確認が完了したという処理結果が表示されたという。
担当者は、通常の手順を実行していない。
処理を依頼した覚えもない。
それでも、画面には完了の表示が出ていた。
森川は、すぐに高瀬を呼んだ。
「これも、同じ番号からですか」
高瀬は詳細を確認した。
「いいえ。送信元の欄は空白です」
「処理日時は?」
「今日の午後一時十二分です」
森川は時計を見た。
ほんの数分前だった。
二人は、通知の対象となった記録を確認した。
そこには、本人確認の完了を示す表示がある。
しかし、本人確認のための申請も、照会も、連絡もなかった。
さらに、これまでの案件と異なり、旧制度からの移管履歴も存在しなかった。
過去の記録を引き継いだ結果ではない。
現在の管理区分で新しく作成された記録だった。
高瀬が言った。
「これまでの問題とは、少し違いますね」
「ええ」
森川は画面を保存した。
「過去の仕組みが残っているだけなら、説明できる部分もあります。でも、今回の記録には、その説明を当てはめられません」
彼は、発生した事実だけを記録した。
処理要求の有無は確認できない。
実行者は不明。
本人確認の根拠も不明。
ただし、現在の管理区分で、本人確認完了という状態が新たに作成されたことは確認できた。
夕方。
森川は、調査結果の途中経過をまとめた。
まだ、0000が何なのかは分からない。
なぜ処理が実行されるのかも分からない。
ましてや、誰が何を目的としているのかなど、判断できる段階ではなかった。
それでも、一つだけ明確になったことがある。
調査しているのは、古い記録の不備だけではない。
今この瞬間にも、本人が意思を示していないのに、意思を確認したという結果が作られている。
その事実を、森川は報告書の最後に記した。
退勤時刻が近づいた頃、高瀬が声をかけた。
「明日も、同じような処理が出るでしょうか」
森川は鞄を手に取った。
「分かりません」
「そうですよね」
「ただ、出た場合に見落とさないよう、確認の手順は整えておきましょう」
二人は端末を閉じた。
庁舎を出ると、夕方の風が吹いていた。
その頃。
アポロンは、店の厨房で食器を洗っていた。
健一が、隣で明日の仕込みについて話している。
「明日は少し早めに来てもらえるか。予約が入っているんだ」
「分かった」
「無理なら言ってくれよ」
「大丈夫だ」
アポロンは皿を水ですすいだ。
水が流れる。
皿が重なる。
健一が蛇口を閉める。
いつもと変わらない仕事だった。
帰宅すると、美咲はテーブルで書類を整理していた。
「おかえり」
「ただいま」
「今日、仕事はどうだった?」
「いつも通りだった」
美咲は顔を上げた。
「それならよかった」
アポロンは手を洗い、食卓についた。
美咲が用意した夕食を食べる。
彼女は今日あったことを話した。
職場で予定が少し変わったこと。
同僚が急に休んだこと。
明日の勤務をどう調整するか、まだ決まっていないこと。
アポロンは話を聞きながら、必要なところで返事をした。
食事が終わる頃、美咲が言った。
「明日の帰り、少し遅くなるかもしれない」
「分かった」
「先に寝ていてもいいからね」
「帰ってくるまで起きているかもしれない」
美咲は笑った。
「眠かったら寝ていいんだよ」
「そうする」
その夜、アポロンは窓辺に置いた鉢植えを見た。
葉は、少しずつ伸びていた。
水をやり、土の表面を確かめる。
特別な変化はない。
アポロンはしばらく、その小さな鉢を眺めていた。
神だった頃には、生命の変化を知るために、待つ必要はなかった。
今は、毎日見ていても、何が変わったのか分からない日がある。
それでも、次の日には、昨日まで見えなかったものが見えることがある。
アポロンは窓を閉めた。
その頃、どこかの端末で、新しい記録が一件作成されていた。
本人確認:完了。
確認方法の欄は空白だった。
そして、その記録には、これまでとは違う項目が一つだけ追加されていた。
対象者の範囲:拡張。




