第二十三章 誰かのために作る
朝。
雨は上がっていた。
窓の外から、濡れた道路を走る車の音が聞こえていた。
アポロンは目を覚ますと、昨日買ったメロンパンを見た。
袋は、テーブルの上に置かれている。
昨日の自分なら、起きた瞬間に食べていただろう。
けれど、今日は違った。
少しだけ眺めてから、袋を開けた。
「……甘い」
一口食べる。
柔らかなパンと、表面の甘さ。
特別な食べ物ではない。
それでも、昨日から待っていた時間があったせいか、いつもより美味しく感じた。
「おはようございます」
後ろから声がした。
振り返ると、美咲が立っていた。
「おはよう」
「それ、昨日のメロンパン?」
「そうだ」
「ちゃんと朝まで待ったんですね」
「待つと、少し違う」
美咲は笑った。
「そういうこともありますよね」
アポロンは残りのメロンパンを見た。
そして、ふと思った。
「美咲」
「はい?」
「今日は、私が食事を作ってみたい」
美咲は少し驚いた顔をした。
「料理ですか?」
「ああ」
「できます?」
アポロンは黙った。
料理の知識なら、知っている。
世界中の料理の作り方も、材料も、調理法も。
知らないことはほとんどない。
しかし。
「……作ったことはない」
「じゃあ、やってみましょうか」
美咲はそう言って、冷蔵庫を開けた。
「何を作ります?」
アポロンは冷蔵庫の中を見た。
卵。
野菜。
豆腐。
肉。
いくつかの調味料。
「これで何が作れる?」
「いろいろ作れますよ」
「なら、任せる」
「私がですか?」
「いや」
アポロンは少し考えた。
「私が作る」
美咲は笑った。
「分かりました。じゃあ、簡単なものからですね」
二人で台所に立った。
アポロンは包丁を持った。
野菜を切る。
形は揃っている。
切る速度も速い。
美咲が驚いた。
「上手ですね」
「知識はある」
「知識だけでできるものなんですか?」
「やってみるまで分からない」
その言葉を口にしてから、アポロン自身が少し驚いた。
以前なら、そんなことは言わなかった。
知識があれば十分だった。
しかし今は違う。
実際に手を動かさなければ分からないことがある。
火をつける。
フライパンを温める。
油を入れる。
肉を焼く。
音がする。
ジュッ、と小さな音が台所に響いた。
アポロンはじっと肉を見ていた。
「どうですか?」
美咲が尋ねる。
「面白い」
「料理が?」
「ああ」
アポロンは答えた。
「材料が変わっていく」
生の肉が焼かれ、色が変わる。
野菜が柔らかくなる。
香りが広がる。
それは、ただ知識として知っていた現象とは少し違った。
台所に立ち、自分の手で作る。
その過程そのものに、時間があった。
やがて料理が完成した。
「できましたね」
美咲が皿を並べる。
二人でテーブルについた。
アポロンは自分で作った料理を見る。
「食べよう」
「いただきます」
美咲が先に箸を取った。
一口食べる。
「……美味しいです」
アポロンは美咲の顔を見た。
「本当に?」
「はい」
「無理をしていない?」
「してませんよ」
美咲は笑った。
「ちゃんと美味しいです」
アポロンも一口食べた。
味は悪くなかった。
けれど、それ以上に気になったことがあった。
「美咲」
「はい?」
「自分で食べるために作った時と、誰かに食べてもらうために作った時では、違う」
美咲は少し考えた。
「そうかもしれませんね」
アポロンは自分の皿を見た。
これまで、食べ物は買えば手に入った。
お金を払えば、商品を受け取ることができる。
けれど料理は違う。
材料を選ぶ。
切る。
焼く。
味を見る。
そして、誰かと一緒に食べる。
その間に、自分の時間が入っている。
「お金で買うこともできる」
アポロンは言った。
「でも、自分の時間を使って作ることもできる」
「はい」
「人間は、そういうものを大切にするのか?」
美咲は少し笑った。
「人によると思います」
「そうか」
アポロンは頷いた。
それが、気に入った。
「人による」
その言葉には、決まった答えがなかった。
食事が終わったあと、アポロンは皿を洗った。
美咲が横から言った。
「今日は私が洗いますよ」
「いい」
「疲れません?」
「少し」
アポロンは水を流しながら答えた。
「でも、これも悪くない」
窓の外には、昨日までの雨の跡が残っていた。
道路はまだ少し濡れている。
空は明るかった。
アポロンは洗った皿を一枚ずつ拭いた。
自分のためだけではない時間。
誰かのために使った時間。
それが、少しだけ嬉しかった。
「明日は何を食べようか」
美咲が何気なく尋ねた。
アポロンは少し考えた。
「まだ決めていない」
「じゃあ、明日考えましょう」
「そうだな」
明日のことは、まだ決まっていない。
それでも。
そのことが、以前ほど不安ではなかった。




