第十九章 手を出さないこと
その日の午後。
店はいつもより静かだった。
客の少ない時間を使って、アポロンは店の前を掃除していた。
道路の端に落ちた紙を拾う。
空になったペットボトルを片づける。
小さなゴミを一つずつ拾っていく。
そのとき。
店の前を、一人の老人がゆっくり歩いているのが見えた。
足取りが少し不安定だった。
アポロンは手を止めた。
転ぶかもしれない。
そう思った。
一歩、近づく。
しかし。
老人は自分で立ち止まり、手すりにつかまった。
少し休む。
そして、また歩き始めた。
アポロンはその場に立ったまま、それを見ていた。
「……」
助ける必要はない。
少なくとも、今は。
老人は自分の力で歩いている。
アポロンは掃除に戻った。
しばらくして。
店の中から健一が出てきた。
「どうした?」
「何でもない」
「さっきから止まってたけど」
「少し気になる人がいた」
「どの人?」
アポロンは老人の歩いていった方向を見る。
「もう行った」
「そうか」
健一はそれ以上聞かなかった。
夕方。
アポロンが仕事を終えて駅へ向かっていると、駅前で人だかりができていた。
近づいてみる。
若い男性が、地面に座っていた。
その横に、駅員がいる。
「大丈夫ですか?」
「大丈夫……です」
男性はそう答えていた。
しかし、顔色は良くない。
アポロンは足を止めた。
助けるべきだろうか。
そう思った。
けれど。
駅員がすでに対応している。
救急車を呼ぶ必要があるか確認している。
周囲の人も少し離れて見守っている。
アポロンが出ていく必要はない。
そう判断した。
そのまま通り過ぎようとする。
しかし。
数歩進んだところで、足が止まった。
振り返る。
まだ人が集まっている。
アポロンは戻った。
「何か手伝えることはありますか?」
駅員が顔を上げた。
「ありがとうございます。でも、大丈夫です」
「そうですか」
アポロンは頷いた。
それから、少し離れた場所で待った。
しばらくして。
救急隊員が到着した。
男性は担架に乗せられた。
周囲の人が道を空ける。
アポロンはその様子を見ていた。
やがて救急車が走り去る。
人々も少しずつ散っていった。
家に帰る。
美咲が夕食の準備をしていた。
「おかえり」
「ただいま」
アポロンは手を洗いながら言った。
「今日、駅で具合の悪そうな人がいた」
「大丈夫だった?」
「救急車が来た」
「そっか」
美咲はそれ以上聞かなかった。
アポロンは少し考えた。
「僕は、何もしなかった」
「何もしなかった?」
「駅員が対応していたから」
「それなら、それでいいんじゃない?」
アポロンは振り返った。
「いいのか?」
「だって、もう助けてくれる人がいたんでしょう?」
「そうだ」
「じゃあ、アポロンが無理に何かする必要はないよ」
アポロンは黙った。
神だった頃。
誰かが困っていれば、助けることができた。
誰かが病気になれば、治すこともできた。
誰かが死にそうになれば、時間を止めることもできた。
助けることができる。
だから、助ける。
それだけだった。
けれど。
人間になってから分かった。
助けられることと。
助けるべきことは。
必ずしも同じではない。
「……人間は、自分で助けることもできるんだな」
アポロンが言った。
美咲は笑った。
「うん」
「僕が全部やる必要はない」
「そうだよ」
「それは、少し不思議だ」
「どうして?」
アポロンは少し考えた。
「神だった頃は、僕がすべてを知っていた」
「うん」
「だから、僕が決めることが多かった」
美咲はしばらく黙った。
「でも、人間は自分で決めるんじゃない?」
「……そうだな」
アポロンは頷いた。
夕食を食べる。
味噌汁を飲む。
温かい。
今日は、それだけで十分だった。
夜。
アポロンは布団に入った。
今日も、世界は何も変わっていない。
誰かが困って。
誰かが助けて。
誰かは自分で立ち上がる。
誰かは、誰かの手を借りる。
その全部を、アポロンが決める必要はない。
むしろ。
決めないことにも意味がある。
「……人間は、自分の人生を自分で生きている」
そう呟いた。
そして。
それを邪魔しないことも。
一つの優しさなのかもしれない。
アポロンは目を閉じた。
明日もまた。
人間の世界で一日が始まる。




