第十六章 知らない気持ち
その日の夕方。
アポロンが店の仕事を終える頃、スマートフォンが震えた。
美咲からだった。
『今日は友達とご飯を食べてから帰るね』
アポロンは画面を見つめた。
『分かった』
それだけ返信する。
スマートフォンをポケットに入れる。
それで終わるはずだった。
けれど。
なぜか、少しだけ気になった。
友達。
その言葉を、アポロンは知っている。
人間同士が親しく付き合う関係。
一緒に食事をしたり。
話をしたり。
遊びに行ったりする。
それ自体は、何も珍しくない。
美咲にも友達がいる。
当然のことだ。
そう理解している。
それなのに。
なぜか、胸の奥に小さな違和感が残った。
「どうした?」
健一が聞いた。
「何でもない」
「そうか?」
「美咲が友達と食事をするらしい」
「それで?」
「……分からない」
健一は少し笑った。
「それなら、本当に分からないんだろうな」
アポロンは黙った。
店を出る。
駅へ向かう途中、スマートフォンを見る。
新しいメッセージはない。
アポロンは画面を閉じた。
しばらく歩く。
また画面を見る。
何もない。
「……なぜ確認している?」
自分に問いかける。
答えは出なかった。
駅前の広場。
ベンチに座る。
人が通り過ぎていく。
学生。
会社員。
買い物袋を持った人。
誰かと話しながら歩く人。
一人で歩く人。
アポロンは、ぼんやりと人の流れを見ていた。
神だった頃なら。
誰が誰といるのかなど、気にする必要はなかった。
人間の関係も、すべて知っていた。
誰が誰を好きなのか。
誰が誰を嫌っているのか。
誰が誰を信頼しているのか。
それらはすべて、世界の中に存在する情報だった。
けれど今は。
美咲が誰と食事をしているのか。
それだけが分からない。
そして。
分からないことが、気になっている。
スマートフォンが震えた。
『ごめん、少し遅くなる』
アポロンはすぐに返信した。
『分かった』
送信したあと、また画面を見る。
それ以上のメッセージはない。
アポロンは立ち上がった。
家に帰る。
一人で夕食を食べる。
いつもなら何とも思わない。
しかし今日は、箸を動かす速度が少し遅かった。
テレビをつける。
ニュースを見る。
内容は頭に入ってこない。
時計を見る。
まだ帰ってこない。
「……遅い」
口に出してから、自分で気づいた。
なぜ、自分はこんなに気にしているのだろう。
心配なのか。
寂しいのか。
それとも。
別の何かなのか。
夜。
玄関の扉が開いた。
「ただいま」
美咲の声。
アポロンはすぐに立ち上がった。
「おかえり」
「待ってた?」
「……少し」
美咲は靴を脱ぎながら笑った。
「ごめんね。久しぶりに友達と会ってたから」
「楽しかった?」
「うん」
その答えを聞いた瞬間。
アポロンの胸の奥に、また小さな違和感が生まれた。
美咲が楽しそうだった。
それは良いことのはずだった。
なのに。
なぜか、素直に喜べない。
アポロンは黙った。
「アポロン?」
「何でもない」
「そう?」
「うん」
美咲はそれ以上聞かなかった。
その夜。
アポロンは布団の中で目を閉じた。
今日、自分の中に生まれたもの。
名前をつけることができない。
怒りではない。
悲しみでもない。
恐怖でもない。
それでも。
確かに何かがあった。
「……知らない気持ちだ」
アポロンはそう呟いた。
神だった頃には、知らなかった。
世界をすべて知っていたからこそ。
知らない気持ちなど、存在しなかった。
けれど。
人間になった今は。
自分自身の中にも、まだ知らないものがある。
アポロンは目を開けた。
そして、少しだけ笑った。
「明日になれば、分かるだろうか」
その答えは。
まだ分からなかった。




