第151章 帰還を待つもの
「この表示は、いつからあった?」
アポロンが尋ねると、黒い服の男は石壁から目を離さずに答えた。
「分からない」
「先ほどまでは表示されていなかった」
「お前が確認したときには、なかったのだろう」
「そうだ」
「ならば、表示されたのは今だ」
アポロンは男を見た。
「答えになっていない」
「そうだな」
男は否定しなかった。
「ただ、私にも分からないことがある。お前が人間になってから、以前には起きなかったことが起き始めている」
「それは、創造主が不在だからか?」
「それだけではないだろう」
男は壁に近づいた。
「お前が人間になったことによって、世界はお前を以前と同じ存在として扱えなくなった。だが、世界の側に何らかの変化があった可能性もある」
「世界が私を創ったのなら、私がいなくなったことで、世界が変化したとも考えられる」
「その可能性もある」
「お前は、私が世界を創ったのではないと言ったな」
「言った」
「世界が私を創った、と」
男はうなずいた。
「ならば、世界が私を創る以前には、何があった?」
「それを知ろうとしているのか」
「当然だ」
アポロンは、石壁に視線を戻した。
「私が世界の始まりだと思っていた。だが、記録番号000が存在する。私と同じ顔をした子供もいる。記録者は確認できないのに、記録者本人の申請は受理されている」
一つずつ、事実を並べていく。
「これらがすべて同じ仕組みによるものなのか、それとも別々の問題なのか。まず、それを確かめる必要がある」
男は少しだけ口元を緩めた。
「以前より、慎重になったな」
「以前の私は、必要な情報をすべて持っていた」
「今は?」
「持っていない。だから、判断を急ぐ理由もない」
男は何も言わなかった。
アポロンは石壁に手を伸ばした。
「消去申請の詳細を表示してくれ」
『照会権限を確認しています』
しばらくして、表示が変わった。
『申請状態――受理済み』
『申請対象――未登録記録』
『申請者――記録者本人』
『申請時刻――記録外』
『消去条件――創造主の帰還』
『申請の撤回――申請者本人の意思による』
アポロンは最後の一行を見つめた。
「申請者本人の意思による、か」
「そうらしいな」
男が答えた。
「つまり、記録者が申請を撤回すれば、消去は行われない」
「そのように読める」
「だが、記録者を確認することはできない」
「そうだ」
「申請者本人の意思は受理されるのに、本人を確認することはできない。奇妙な仕組みだ」
「お前は、矛盾だと思うか?」
「現時点では、判断できない」
アポロンは手を下ろした。
「本人を確認するための仕組みと、本人の意思を受理するための仕組みが、別々に存在している可能性がある」
男は、今度こそ黙った。
その沈黙は、先ほどまでとは少し違っていた。
アポロンは続けた。
「お前は、何か知っているのだろう」
「すべてを知っているわけではない」
「それは聞いた。だが、知っていることまで話さない理由があるはずだ」
「ある」
「私を守るためか?」
男は首を横に振った。
「それだけではない」
「世界を守るためか?」
「それだけでもない」
アポロンは男の顔を見つめた。
「お前自身のためでもあるのか」
男は、しばらくしてから答えた。
「そうかもしれない」
それは、初めて聞く答えだった。
男はこれまで、世界の仕組みや創造主の不在について語ってきた。アポロンの帰還を必要とする理由も、世界を維持するためだと説明していた。
しかし今、男は自分自身のためでもある可能性を認めた。
アポロンは、その言葉を追及しなかった。
「分かった。今は、それでいい」
「聞かないのか?」
「聞いても、お前が答えるとは限らない」
「そうだな」
「ならば、答える必要が生じたときに、もう一度尋ねる」
男はわずかに目を細めた。
「人間らしい判断だ」
「そうなのか?」
「少なくとも、神だった頃のお前は、答えが得られないことを理由に質問を保留する必要がなかった」
「今は、必要がある」
アポロンは神殿の出口へ向かった。
「私にも、生活があるからな」
男は、思わずといった様子で彼を見た。
「生活?」
「明日は食堂の仕事がある。健一から、仕込みを手伝うように頼まれている」
「世界の始まりを調べることよりもか?」
「比較する問題ではない」
アポロンは振り返った。
「世界の始まりが分からなくても、明日の仕事はなくならない」
男はしばらく何も言わなかった。
やがて、小さく笑った。
「そうだったな」
その声には、懐かしさのようなものが混じっていた。
だが、アポロンは、その意味を尋ねなかった。
今はまだ、聞くべきときではないと思ったからだ。
翌朝、食堂では小さな問題が起きていた。
仕入れ先から届くはずの食材が、予定の時間になっても届かなかったのである。
健一は電話をかけ、納品が遅れていることを確認した。
「参ったな。昼までに来る予定だったんだけど」
「何かあったのか?」
アポロンが尋ねると、健一は電話を置いた。
「配送の途中で車が故障したらしい。別の車を手配しているけど、いつになるか分からないってさ」
「別の仕入れ先に連絡すればいいのではないか?」
「急に頼んでも、必要な量は揃わないだろうな」
健一は冷蔵庫を開け、中を確認した。
「今日はメニューを絞るしかないか」
アポロンは冷蔵庫の中身を見た。
現在ある食材で提供できる料理を計算することは簡単だった。近隣の店から不足分を調達することもできるだろう。
しかし、健一はすでに自分で判断を始めていた。
「佐藤に連絡して、仕入れ先にもう一度確認してもらう。それから、昼の営業はメニューを減らそう」
「分かった」
アポロンは、調理台の上を片づけ始めた。
そのとき、店の電話が鳴った。
健一が出ると、聞き覚えのない男性の声がした。
「本日の納品について、確認したいことがありまして」
「はい。先ほど、配送が遅れていると聞きましたが」
「それとは別の件です。そちらに、古い帳簿は残っていますか?」
健一は眉をひそめた。
「帳簿ですか?」
「はい。かなり前の取引記録です。以前、そちらに納品していた者の名前を確認したいのですが」
「うちは何年も同じ仕入れ先を使っているわけじゃありませんからね。古い記録は、残っているかどうか……」
男性は、少し間を置いてから言った。
「では、アポロンという人物について、何か記録はありませんか?」
健一の手が止まった。
アポロンも、調理台から顔を上げた。
電話の向こうから、男性の声が続いた。
「その人物は、以前からそちらで働いていたことになっているのですが」
健一は、アポロンを見た。
「……すみません。もう一度、お名前をお願いします」
「アポロンです」
「それは、今働いている者の名前ですか?」
「いいえ。古い記録に残されている名前です」
健一は、しばらく黙っていた。
やがて、慎重に尋ねた。
「その記録は、いつのものですか?」
男性は答えた。
「記録上は、今から七十年前です」
電話の向こうで、紙をめくるような音がした。
「ただ、確認したいことがもう一つあります」
「何でしょうか」
「その記録には、こう書かれています」
男性は、一字ずつ読み上げた。
「本人の同意なく、記録を変更してはならない」
健一は、受話器を握り直した。
アポロンは、静かに聞いていた。
電話の向こうの男性は、最後にこう尋ねた。
「そちらのアポロンさんは、ご自身が七十年前から存在していることをご存じですか?」
健一は、すぐには答えられなかった。
アポロンは彼のそばまで歩み寄った。
「代わろう」
健一は迷った後、受話器を差し出した。
アポロンは受け取った。
「私がアポロンだ」
電話の向こうが静かになった。
しばらくして、男性が言った。
「……ようやく、つながりましたね」
「私を知っているのか?」
「いいえ。私は、あなたを知りません」
男性の声は落ち着いていた。
「ですが、あなたの名前が記録されていることは知っています」
「誰が記録した?」
「分かりません」
「何のために?」
「それも、分かりません」
アポロンは少しだけ目を細めた。
「では、なぜ私を探している?」
男性は、短く息を吐いた。
「記録の変更を求められたからです」
「誰に?」
「それが……」
声が途切れた。
電話の向こうで、何かを確かめるような物音がした。
そして、男性は困惑した声で続けた。
「おかしいですね。依頼者の名前が、消えています」
「最初から名前がなかったのではないのか?」
「いいえ。先ほどまでは、確かにありました」
アポロンは、受話器を耳に当てたまま動かなかった。
男性は、さらに言った。
「記録の最後に、もう一つ文章が残っています」
「何と書かれている?」
「変更を実行する前に、創造主の帰還を確認すること」
食堂の中から、音が消えたように感じられた。
健一は、アポロンを見つめていた。
電話の向こうの男性は、事情を知らないまま、事務的に尋ねた。
「あなたは、いつ帰還される予定ですか?」
アポロンは答えた。
「帰還する予定はない」
男性は黙った。
「……そうですか」
声に、安堵とも落胆ともつかない響きがあった。
「では、記録の変更は保留にしておきます」
「待ってくれ」
アポロンは、電話を切ろうとする相手を呼び止めた。
「その記録を、私にも見せてほしい」
男性は、すぐには答えなかった。
「それは、できません」
「なぜだ?」
「記録の閲覧には、依頼者の許可が必要だからです」
「その依頼者の名前は消えたのだろう?」
「はい」
「ならば、許可を得ることもできない」
電話の向こうで、男性が小さく息を呑んだ。
「……その通りです」
「それでも、閲覧できないのか?」
「規則では、そうなっています」
アポロンは、ゆっくりと受話器を下ろした。
また同じ構造だった。
名前が消えている。
本人を確認できない。
それでも、意思や規則だけが残っている。
しかも今回は、神殿の記録ではなく、人間の社会に存在する古い取引記録だった。
世界の異常は、神殿の外にも広がっている。
健一が、慎重に声をかけた。
「アポロン。今の電話は、何だったんだ?」
「まだ分からない」
「お前の名前が、七十年前の記録に残っていると言っていたな」
「そうだ」
健一は、少し考えてから尋ねた。
「それは、お前が昔から生きていたということなのか?」
アポロンは、すぐには答えなかった。
七十年前。
あの写真に写っていた子供。
記録番号000。
そして、創造主の帰還を待つ記録。
それらが、どこかでつながっている可能性はある。
だが、今はまだ、それを確かめる方法がなかった。
「私にも分からない」
健一は、アポロンの顔を見た。
そして、いつもの調子で言った。
「そうか。じゃあ、分かるまでは仕方ないな」
「仕方ない?」
「分からないものを、今すぐ分かるようにはできないだろう。それより、昼の営業をどうするか考えないと」
健一は冷蔵庫を閉めた。
「お前、野菜の下ごしらえを頼む。今日は少し忙しくなりそうだからな」
アポロンはうなずいた。
「分かった」
彼は、調理台に戻った。
世界が何を求めているのか。
誰が自分の名前を残したのか。
そして、なぜ自分の帰還が、誰かの記録を変更する条件になっているのか。
答えは、まだ見えない。
けれど、昼になれば客が来る。
注文を聞き、料理を作り、代金を受け取る。
その生活は、世界の記録が何を示していようと、続いていく。
アポロンは包丁を握り直した。
今はまだ、帰還するつもりはなかった。




