第150章 名前を残した者
美咲から届いたメッセージを、アポロンは三度読み返した。
『この子を記録したのは、私ではない』
『なのに、どうして私の名前が残っているんだ』
写真に写っていた子供を記録した者と、その記録に名前を残された者は、同じではないらしい。
そして、その人物は、自分の名前が残されていることを知っていた。
「記録者とは限らない、か」
アポロンは小さくつぶやいた。
世界には、何かを記録する者と、その記録を管理する者がいる。さらに、記録を残すよう指示する者や、残された記録を後から書き換える者がいてもおかしくない。
しかし、今回の問題は、それだけではなかった。
あの紙には、記録者が誰なのかさえ書かれていなかった。
名前が残っているというのに、その名前を残した人物が分からない。
アポロンは美咲に返信した。
『その人物の名前は分かるだろうか』
しばらくして、返事が届いた。
『それが、分からないみたい。祖母も名前を聞いたはずなんだけど、思い出せないって』
『名前だけを忘れたのか?』
『うん。顔は何となく覚えているらしいよ。でも、名前を思い出そうとすると、ほかのことまで曖昧になるんだって』
アポロンは画面を見つめた。
記憶を失うこと自体は、人間にとって珍しいことではない。
だが、特定の名前を思い出そうとしたときに、関連する記憶まで曖昧になるというのは、少し気になった。
『明日、私も一緒に話を聞いていいだろうか』
『聞いてみるね。ただ、祖母ももう高齢だから、無理はさせたくない』
『分かった。本人が望まないなら、話を聞く必要はない』
送信してから、アポロンはスマートフォンをしまった。
答えを得るために、誰かの記憶を無理に引き出す。
それは、彼が選ばない方法だった。
たとえ世界の秘密に近づくためであっても、相手の生活を犠牲にしてよい理由にはならない。
翌日の午後、美咲から連絡があった。
祖母は話をしてもいいと言っている。ただし、家に来るのではなく、近所の喫茶店で会いたいとのことだった。
アポロンは指定された時間に店へ向かった。
美咲の祖母は、窓際の席に座っていた。
小柄な女性だった。背筋は少し曲がっていたが、目はしっかりしていた。
「あなたが、アポロンさん?」
「はい。初めまして」
「美咲から聞いているわ。昔の写真を調べているんですってね」
「ご迷惑でなければ、少しお話を伺いたいと思っています」
「迷惑じゃないわ。ただね、私も覚えていることは少ないのよ」
祖母は、テーブルの上に置かれた紅茶を一口飲んだ。
「子供の頃のことだから、全部は覚えていない。でも、あの写真を見て怒った人のことは、ずっと気になっていたの」
「なぜですか?」
「その人が、写真を見たときに泣きそうな顔をしていたから」
アポロンは黙って聞いていた。
「怒っていたのは確かよ。でも、本当に腹を立てていたというより、何かを怖がっているように見えたの」
「何を怖がっていたのでしょう」
「それは分からない。ただ、写真を見ながら、何度も同じことを言っていたわ」
祖母は目を閉じ、記憶を探るように少しだけ首を傾けた。
「この子を記録したのは、私ではない。なのに、どうして私の名前が残っているんだ……って」
「その人物は、ご自身の名前が残っている場所を見たのですか?」
「ええ。写真の裏側に何か書かれていたのを見ていたわ」
「写真の裏側ですか」
「そう。私は文字を読めなかったから、何が書かれていたのかは知らない。でも、その人は確かに裏側を見ていた」
アポロンは、美咲の持っていた写真を思い出した。
裏面には、以前から残されていた短い文章があった。
「あの子を、記録に残すことになった」
そして、名前はまだ決まっていないと書かれていた。
だが、その紙が写真の裏側にあったものと同じなのかは分からない。
「その写真は、今も残っていますか?」
祖母は首を横に振った。
「私が知っているものは、もうないわ。家を建て直したときに、古い写真を整理したから」
「ほかに、何か覚えていることはありますか?」
「そうね……」
祖母はしばらく考えてから、アポロンを見た。
「その人は、最後にこう言ったの」
「何と?」
「自分の名前を消してくれ、と」
アポロンの視線がわずかに動いた。
「名前を消す?」
「ええ。でも、誰に頼んでいたのかは分からない。その場には、ほかに誰もいなかったはずだから」
「それを聞いたとき、どう思いましたか?」
祖母は少し笑った。
「子供だったから、変な人だと思ったわ。自分の名前くらい、自分で消せばいいのにって」
「そう考えるのも自然だと思います」
「でしょう?」
祖母は紅茶のカップを持ち上げた。
「でも、今になって考えると、あの人は自分の名前を消したかったんじゃなくて、名前が残ってしまった理由を知りたかったのかもしれないわね」
アポロンは、その言葉を心に留めた。
名前が残っている。
しかし、残した覚えがない。
それを消そうとしても、消せるかどうか分からない。
その人物は、何らかの仕組みによって、自分の知らない場所に名前を残されていたのだろうか。
話を終えた後、祖母は二人に向かって言った。
「私が覚えているのは、これくらいよ。役に立ったかしら」
「はい。ありがとうございました」
アポロンは丁寧に頭を下げた。
祖母は彼をしばらく見つめた。
「あなた、あの写真の子に似ているんですってね」
「そう聞いています」
「不思議なこともあるものね」
「そうですね」
祖母はそれ以上、何も尋ねなかった。
店を出ると、美咲が隣を歩きながら言った。
「どう思う?」
「まだ判断できない。ただ、写真に写っていた子供と、名前を残された人物の関係を調べる必要がある」
「名前が残された人を探すの?」
「そうだ」
「でも、名前が分からないんだよね」
「名前が分からないことと、その人物が存在しなかったことは、同じではない」
美咲は少し考えた。
「確かにね。でも、どうやって探すの?」
アポロンはすぐには答えなかった。
彼には、時間を止めることも、遠く離れた場所へ移動することもできる。
しかし、記録そのものが成立していない場所を探すとなれば、話は違ってくる。
記録されていないものを、どこから探せばいいのか。
「まずは、写真が撮られた場所を調べたい」
「古い神殿?」
「おそらくは」
「じゃあ、今度一緒に行こうか。私も、あの場所が気になっているから」
アポロンは美咲を見た。
「無理に付き合う必要はない」
「無理しているわけじゃないよ。私の家族の写真でもあるんだから、知りたいと思っているの」
「分かった。では、一緒に調べよう」
美咲はうなずいた。
「ただし、今日はもう帰るね。夕飯の買い物をしないといけないから」
「そうか」
「あなたも、食事を忘れないでね」
そう言って、美咲は駅へ向かった。
アポロンはその背中を見送った後、反対方向へ歩き始めた。
向かった先は、以前訪れた古い神殿だった。
夕方の光が、石造りの壁に長い影を落としている。
アポロンは、記録番号000が表示された場所の前に立った。
「記録者の名前を確認したい」
壁に光が走った。
『照会対象を指定してください』
「写真に写っていた子供を記録した人物だ」
『該当する記録はありません』
「その人物の名前が、どこかに残されている可能性は?」
『回答できません』
「では、名前を消すことは可能か?」
文字が消えた。
しばらくして、新しい文章が現れた。
『記録者の名前を消去するには、記録者本人の同意が必要です』
アポロンは、その表示を見つめた。
「本人の同意が必要なのか」
『はい』
「記録者は確認できないのだろう?」
『はい』
「それでは、同意を得ることもできない」
『はい』
答えは正確だった。
だが、何も解決していなかった。
記録者を確認できない。
名前を消すには本人の同意が必要。
そして、その人物が誰なのかを知る手段も示されない。
まるで、最初から解決されることを想定していない仕組みのようだった。
アポロンは、壁に手を触れた。
「この条件を設定したのは誰だ?」
『設定者を確認できません』
「記録者とは別の存在か?」
『回答できません』
彼は手を離した。
神だった頃なら、こうした仕組みそのものを作り直していたかもしれない。
矛盾した条件を取り除き、必要な情報をすべて明らかにする。
しかし、それをすれば、誰かが自分の名前を消したいと願った理由まで、無視してしまう可能性があった。
名前を残されたことが、その人物にとってどのような意味を持つのか。
名前を消すことが、その人物の望みを叶えるのか。
あるいは、名前が残っていること自体に、別の意味があるのか。
今のアポロンには、まだ判断できなかった。
そのとき、神殿の入口から声がした。
「そこまで調べたのか」
黒い服の男だった。
アポロンは振り返った。
「この仕組みは、名前を消すことを想定している」
「そうだな」
「だが、名前を残した人物が誰なのか、確認する方法がない」
「それも、そうだ」
「お前は、この仕組みを知っていたのか?」
男はすぐには答えなかった。
「知っていたことと、説明できることは違う」
「また、その答えか」
「不満か?」
「不満というより、効率が悪いと思っている」
男は、ほんの少し笑った。
「神だった頃のお前なら、そう言っただろうな」
「今でも、効率が悪いものは効率が悪い」
「それは変わらないか」
男は壁に目を向けた。
「だが、名前を消すことができるからといって、消すべきだとは限らない」
「本人が望んでいたとしてもか?」
「本人が望んでいたのなら、その理由を知る必要がある。少なくとも、私はそう思う」
アポロンは男を見た。
「その考えは、誰のためのものだ?」
男の表情が変わった。
ほんの一瞬だったが、アポロンは見逃さなかった。
「……どういう意味だ?」
「名前を残された人物のためか。それとも、記録を維持する世界のためか」
男は黙っていた。
やがて、低い声で言った。
「両方だ」
「両方を守れない場合は?」
「そのときは、選ばなければならない」
「何を基準に?」
男は答えなかった。
アポロンも、それ以上は尋ねなかった。
今の彼に必要なのは、男の考えを論破することではない。
男がどのような基準で選択し、何を守ろうとしているのか。それを、実際の行動から確かめることだった。
神殿を出る前に、アポロンはもう一度、壁を振り返った。
記録番号000は、表示されていない。
代わりに、石壁の中央に小さな文字が浮かんでいた。
『消去申請――受理済み』
その下には、さらに短い文章が続いていた。
『申請者――記録者本人』
アポロンは立ち止まった。
「今の表示を見たか?」
黒い服の男が、すぐ隣で足を止めた。
男の顔から、先ほどまでの余裕が消えていた。
「……ああ」
「記録者本人が申請したということは、本人を確認できているのではないのか?」
男は壁を見つめたまま、答えた。
「そうとは限らない」
「どういうことだ?」
男はしばらく沈黙した。
そして、ようやく口を開いた。
「この世界には、本人が存在しなくても、本人の意思だけが残ることがある」
アポロンは、壁に刻まれた文字を見た。
『申請者――記録者本人』
そこには、名前がなかった。
誰が申請したのかも、いつ申請したのかも分からない。
それでも、世界はその申請を受理していた。
「その申請は、いつ実行される?」
アポロンが尋ねると、石壁に新たな表示が現れた。
『消去実行予定――創造主の帰還後』
男は目を閉じた。
その反応を見て、アポロンは初めて気づいた。
男は、この条件を知らなかったのではない。
少なくとも、今表示された文章を見て、何かを思い出したようだった。
「お前は、私が神に戻ることを望んでいるのか?」
男はすぐには答えなかった。
「世界を救うためには、そうする必要があるかもしれない」
「私自身が望むかどうかは?」
「それも、お前が決めることだ」
アポロンは静かに男を見つめた。
「ならば、私が帰還を拒んだ場合、この申請は実行されないのだな」
男は答えなかった。
石壁の表示だけが、暗闇の中に残っていた。
『消去実行予定――創造主の帰還後』
アポロンは、その文字を見つめ続けた。
世界は彼に戻ってきてほしいのかもしれない。
だが、世界が彼に戻ってきてほしい理由は、彼が想像していたものとは違うのかもしれなかった。




