第149章 記録番号000
午前零時を過ぎても、時計は止まらなかった。
美咲の部屋に置かれた古い時計も、食堂の壁に掛けられた時計も、同じように針を進めていた。
それなのに、アポロンは眠れずにいた。
記録番号000。
その数字が、頭から離れなかった。
帰還者番号001。
創造主の不在。
本人確認未完了。
これまで彼が見てきた記録には、何らかの対象が存在していた。誰かが帰還し、誰かが照合され、誰かが世界の仕組みによって分類されていた。
だが、000だけは違った。
あの数字は、何を記録したものなのだろう。
創造主よりも前に存在した何か。
あるいは、創造主という存在が生まれる以前の、世界そのもの。
アポロンは目を閉じた。
かつてなら、考える必要さえなかった。
知ろうとすれば、答えはそこにあった。世界の始まりも、終わりも、そこに至る無数の過程も、彼の中では一つのものとして存在していた。
しかし、今は違う。
分からないことを、分からないまま考えている。
その時間が、思いのほか長かった。
翌朝、アポロンはいつもより早く食堂へ向かった。
健一は開店の準備をしていた。寸胴鍋の蓋を開け、湯気の向こうからアポロンを見る。
「今日は早いな」
「少し調べたいことがある」
「仕事のことか?」
「いや。自分のことだ」
健一は一瞬だけ手を止めた。
だが、詳しく尋ねることはしなかった。
「そうか。じゃあ、手を洗ってから、そこの野菜を切ってくれ。考え事をするのはいいけど、手を動かすのも忘れるなよ」
「分かった」
アポロンはまな板の前に立った。
包丁を握り、野菜を切る。
いつもの作業だった。
けれど、今日は少し違った。
自分のことを考えながら、目の前の作業を続けている。かつての彼なら、どちらか一方に意識を向ける必要すらなかった。
人間の身体は、何かを考えている間にも、時間を必要とする。
それを不便だと思ったことは、もうなかった。
ただ、考えがまとまる前に、健一から声が飛んできた。
「アポロン、少し厚いぞ」
「均一に切ったつもりだが」
「つもりじゃなくて、見た目で判断しろ」
アポロンは切った野菜を見下ろした。
確かに、厚さが揃っていなかった。
「次は直す」
「頼むよ」
それだけの会話だった。
それでもアポロンは、包丁を持ち直した。
自分が世界の始まりを知らないかもしれないという問題と、野菜の厚さを揃えるという問題。
どちらも、今の自分が向き合うべきことだった。
昼過ぎ、美咲が食堂にやって来た。
彼女は席に座るなり、スマートフォンを取り出した。
「昨日の写真、もう一度見てみたの」
「最初の記録の写真か?」
「うん。あの子が写っていた写真と、その前に見つけた紙。ほかにも何か残っていないかと思って、家族に聞いてみたの」
美咲は画面を見せた。
古い写真だった。
木造の建物。その前に立つ数人の人影。そして、少し離れた場所にいる、小さな子供。
アポロンと同じ顔をした子供だった。
「母も祖母も、やっぱり知らないって。でもね、祖母が一つだけ思い出したことがあるって」
「何だ?」
「昔、家に来た人が、この写真を見て怒ったことがあるらしいの」
「怒った?」
「うん。どうしてそんなものを残しているんだ、って。祖母は小さかったから、詳しいことは覚えていないみたいだけど」
アポロンは写真を見つめた。
「その人物は、誰だったのだろう」
「分からない。でも、写真を捨てろとは言わなかったらしいよ」
「残すこと自体に、問題があったのか」
「そうかもしれないね」
美咲は画面を拡大した。
子供の顔は、古い写真にしては不自然なほど鮮明だった。
その一方で、背後の建物には細かな傷みが見られた。柱の木目も、屋根の欠けた部分も、長い年月を経たものに見える。
まるで、その子供だけが、時間の流れから取り残されているようだった。
「ねえ、アポロン」
「何だ?」
「この子があなたに似ているからって、あなた自身だとは限らないよね」
アポロンは美咲を見た。
彼女は、答えを求めるというより、自分の考えを確かめるように話していた。
「もちろん、その可能性はある」
「じゃあ、別人かもしれない?」
「それも否定できない」
美咲は小さく息を吐いた。
「よかった」
「何がだ?」
「あなたが、何でも分かる顔をしなくなったから」
アポロンは返事をしなかった。
美咲は少し笑った。
「前だったら、分からないことでも、何か答えを持っているように見えたんだよね。でも今は、一緒に考えてくれている感じがする」
「私は、実際に分からない」
「うん。だから、そう言ったんだけど」
美咲はスマートフォンをしまった。
「私も、もう少し調べてみる。家族の古い写真って、本人たちが忘れていることもあるから」
「手伝おうか」
「お願いするかもしれない。でも、今日は大丈夫。仕事があるから」
彼女は立ち上がり、代金を置いた。
「じゃあ、またね」
「気をつけて」
美咲が店を出ていく。
アポロンは、その背中を追わなかった。
彼女には彼女の生活がある。
自分の疑問を解くために、彼女の時間をすべて使わせる必要はなかった。
夕方、アポロンは一人で古い神殿の記録を調べに向かった。
記録番号000が現れた時計。
記録以前の存在を記録することはできない、という紙。
そして、記録者が記録内に存在しないという表示。
これらの情報が、同じ場所から生まれたものなのかどうかを確かめたかった。
神殿の奥には、以前と同じ石壁があった。
アポロンが近づくと、壁面に薄い光が走った。
『記録対象――未登録』
「記録番号000について確認したい」
しばらく沈黙が続いた。
やがて、文字が浮かび上がった。
『照会対象を指定してください』
「記録番号000」
『照会権限を確認しています』
文字が消えた。
今度は、別の表示が現れた。
『記録番号000は、照会対象ではありません』
アポロンは眉を動かした。
「では、何なのだ?」
『記録番号000は、記録番号ではありません』
その答えを見た瞬間、アポロンは動きを止めた。
「数字が表示されていた」
『表示された数字と、記録番号は一致するとは限りません』
「誰が表示した?」
『記録者を確認できません』
「記録者が存在しないのか。それとも、確認できないだけなのか」
今度は、すぐに返答がなかった。
石壁の光が、ゆっくりと弱まっていく。
アポロンは待った。
やがて、一行だけが現れた。
『記録者の不在は、確認されていません』
その文章を、アポロンは何度も読み返した。
不在が確認されていない。
それは、記録者が存在しないという意味ではなかった。
存在するとも、存在しないとも、確認できていない。
「記録者は、今もこの世界にいる可能性があるのか」
『回答できません』
「私が探すことは可能か」
『記録者の許可が必要です』
「許可を求める方法は?」
石壁に、文字が一つずつ浮かんだ。
『記録者が、あなたを認識する必要があります』
アポロンは黙った。
今までのシステムは、彼を創造主として認識していた。
だが、記録者は違う。
創造主という役割ではなく、アポロンという存在そのものを認識しなければならないらしい。
その違いが何を意味するのか、まだ分からなかった。
そのとき、背後で足音がした。
振り返ると、黒い服の男が立っていた。
「また来たのか」
男は、アポロンではなく石壁を見ていた。
「記録者に会いたいのか?」
「会えるのなら」
「会えたとして、何を聞く?」
「私が何者なのか。世界が何によって成立しているのか。そして、なぜ私の記録より前に、私と同じ顔をした子供が存在するのか」
男は少しだけ目を細めた。
「最後の質問は、最初の二つとは違うな」
「どう違う?」
「お前は、自分が世界を創ったことを疑い始めている。だが、あの子供が誰なのかを知りたいというのは、それとは別のことだ」
「別ではない可能性もある」
「そうだな」
男は否定しなかった。
「だからこそ、気をつけろ。答えを一つ見つけたとき、すべての答えが手に入ったと思わないことだ」
「お前は、何を知っている?」
「いくつかは知っている」
「ならば、教えてくれ」
「今は教えられない」
アポロンは男を見つめた。
以前なら、その言葉を拒む理由はなかった。
世界の仕組みを変えれば、男が隠している情報を取り出すこともできただろう。
しかし、今のアポロンは、相手が話さないという選択をしたことも理解していた。
「私が人間になったからか?」
「それもある」
「神だった頃のお前なら、教えたのか」
男はしばらく考えた。
「神だった頃のお前は、私に尋ねなかった」
その答えは、アポロンが予想していたものではなかった。
「必要がなかったからだ。お前は世界を知っていた。少なくとも、そう思っていた」
「今は違う」
「ああ。今のお前は、知らないことを知りたがっている」
男は石壁に近づき、記録番号000の表示があった場所に手をかざした。
何も起こらなかった。
「だが、忘れるな。知らないことがあるのと、誰かが嘘をついているのとは、同じではない」
「私は、誰かを疑っているわけではない」
「ならば、いい」
男は手を下ろした。
「一つだけ言っておく。記録者を探すなら、記録に残されたものだけを追うな」
「記録に残されていないものを探せというのか」
「そうだ」
「どうやって?」
男は答えず、神殿の出口へ歩き始めた。
アポロンは、その背中に声をかけた。
「お前は、記録者を知っているのか?」
男は足を止めた。
「知っているかどうかを、今のお前に説明することはできない」
「それは、私が神ではないからか?」
「違う」
男は振り返った。
「お前が、まだ人間として生きているからだ」
そう言って、男は去っていった。
神殿には、再び静寂が戻った。
アポロンは石壁を見つめた。
記録に残されたものだけを追うな。
その言葉を考えながら、彼は美咲が見せてくれた古い写真を思い出した。
写真には、子供が写っていた。
しかし、写真の中にいることと、記録されていることは、同じなのだろうか。
誰かがその姿を見て、紙に残した。
誰かが、その紙を保管した。
そして、誰かが、残すことに反対した。
それでも写真は残った。
アポロンは神殿を出た。
外は、すっかり暗くなっていた。
帰り道、コンビニの明かりが目に入った。
彼は店に入り、温かい飲み物を一本買った。
缶を手に持つと、指先に熱が伝わってくる。
神だった頃、この世界に存在するものは、すべて彼の知識の中にあった。
だが今は、手の中の温かさを感じながら、誰かが残した一枚の写真について考えている。
答えは、まだない。
それでも、明日になれば、もう一度調べることができる。
アポロンは缶の蓋を開けた。
そのとき、スマートフォンが震えた。
美咲からのメッセージだった。
『祖母から、もう一つ思い出したことがあるって連絡が来たよ』
続けて、短い文章が届いた。
『あの写真を見て怒った人は、こう言ったらしいの』
アポロンは画面を見つめた。
『この子を記録したのは、私ではない』
その下に、もう一行あった。
『なのに、どうして私の名前が残っているんだ』
アポロンは、手に持った缶をゆっくりと下ろした。
記録番号000。
記録者の不在。
そして、記録された子供。
今まで別々に存在していたものが、初めて一つの方向を指し始めていた。




