第一四八章 記録の外側
翌朝、アポロンが目を覚ますと、スマートフォンに美咲からのメッセージが届いていた。
『昨日の写真について、母にもう一度聞いてみました。少し気になることが分かったので、今日、会えませんか』
アポロンは、すぐに返事をした。
『分かりました。何時がよろしいですか』
待ち合わせは、昼過ぎになった。
それまでの時間、アポロンはいつもどおりに過ごした。
朝食を作り、洗濯物を干し、部屋を片づける。
写真のことを考えなかったわけではない。
むしろ、考えないようにしても、ふとした瞬間に思い出してしまう。
『第一記録以前の記録は、存在しません』
あの表示が意味することを、まだ理解できていなかった。
記録が存在しないからといって、過去が存在しないとは限らない。
しかし、もし世界そのものが、ある時点からしか記録を保持していないのなら。
その前に何があったのかを、どうやって確かめればいいのだろう。
アポロンは、食器を洗いながら考えた。
神だった頃なら、答えが見つからないこと自体が、ほとんどなかった。
今は、答えが見つからないという事実が、次の行動を決める材料になっている。
彼は蛇口を閉めた。
考えるだけでは、何も分からない。
約束の時間になったら、美咲に会いに行こう。
それから、二人で調べればいい。
*
美咲は、待ち合わせ場所に小さな封筒を持ってきていた。
「お待たせしました」
「いえ。私も今来たところです」
「これ、見てください」
封筒から出てきたのは、一枚の古い紙だった。
写真ではない。
手書きの記録のようだった。
「母の祖母が使っていた箱の中に、入っていたそうです。写真とは別の場所に保管されていたので、今まで気づかなかったみたいです」
アポロンは、紙を受け取った。
そこには、日付と短い文章が記されていた。
『あの子を、記録に残すことになった』
その下に、別の筆跡で一文が加えられている。
『名前は、まだ決まっていない』
アポロンは、紙から目を離さなかった。
「……名前が決まっていない?」
「はい。母も、誰が書いたものなのか分からないそうです」
美咲は、紙の端を指さした。
「ただ、裏側にも何か書いてあります」
裏返すと、かすれた文字があった。
『記録以前の存在を、記録することはできない』
アポロンは、静かに息を吐いた。
写真の裏側にあった『最初の記録』。
そして、この紙に記された『記録以前の存在』。
偶然にしては、つながりすぎている。
「美咲さん。この紙は、写真と一緒に保管されていたのですか」
「いいえ。別々の箱に入っていたそうです。でも、母が整理しているときに見つけたんです」
「この文章を書いた人物について、何か分かりますか」
「分かりません。ただ、母の祖母は、昔から古いものを集めるのが好きだったそうです」
美咲は少し考えた。
「それから、母が気になることを教えてくれました」
「何でしょう」
「この箱に入っていたものは、祖母が亡くなったあと、一度、親戚の家に預けられていたそうなんです。でも、いつの間にか箱がなくなっていて、誰も行方を知らなかった」
「それが、最近になって見つかったのですか」
「はい。家の物置を整理していたら、別の箱の下から出てきたそうです」
アポロンは、紙をもう一度見た。
「いつ、なくなったのでしょう」
「そこまでは分かりません」
「分かりました」
彼は、紙を封筒に戻した。
記録が失われ、再び現れた。
それ自体は、人間の生活でも起こり得ることだ。
だが、今回の記録には、明らかに自分と関係する言葉が含まれている。
「この紙を、少し調べてもよろしいですか」
「もちろんです。ただ、母から借りてきたものなので、傷つけないようにお願いします」
「分かりました」
アポロンは、紙に意識を向けた。
写真のときと同じように、記録の奥にあるものを探ろうとする。
すると、紙の表面に、薄い文字が浮かび上がった。
『記録対象を確認してください』
美咲が息を呑んだ。
「今、何か出ましたよね?」
「はい」
アポロンは、文字を見つめた。
『対象――未登録』
その下に、新しい文章が現れた。
『記録者の確認を開始します』
美咲が、アポロンの顔を見た。
「記録者って……」
「この記録を書いた人物のことかもしれません」
アポロンが答えた直後、文字が変わった。
『記録者――確認不能』
『記録者は、記録内に存在しません』
美咲は、紙から少し身を引いた。
「どういう意味なんでしょう」
「まだ分かりません」
アポロンは、紙を封筒に戻そうとした。
しかし、その前に、もう一行が浮かび上がった。
『記録者を呼び戻しますか』
選択肢が二つ表示された。
『はい』
『いいえ』
アポロンは、指を止めた。
記録者を呼び戻す。
それが何を意味するのか、分からない。
記録者が人間なら、その人物に何が起こるのか。
すでに亡くなっている人物なら、何が呼び戻されるのか。
あるいは、記録者という役割そのものを指しているのか。
「美咲さん」
「はい」
「この紙を、今すぐ調べるのはやめたほうがいいかもしれません」
美咲は頷いた。
「私も、そう思います」
アポロンは、表示を見つめたまま、選択肢を選ばなかった。
すると、文字がゆっくりと消えていった。
最後に残ったのは、短い一文だった。
『記録者の不在を維持します』
アポロンは、封筒を閉じた。
「……今は、ここまでにしましょう」
「はい」
美咲は、少し不安そうだった。
「でも、記録者がいないというのは、どういうことなんでしょう」
「考えられる可能性はいくつかあります。ただ、今の段階では、どれも推測にすぎません」
「そうですね」
美咲は封筒を受け取った。
「一つずつ、確認していきましょう」
アポロンは頷いた。
急いで答えを得ることよりも、何が分かっていて、何が分かっていないのかを確かめること。
それが、今できることだった。
*
その日の夕方、アポロンは一人で古い神殿の写真を見直した。
美咲から借りた資料は、すでに返してある。
手元に残っているのは、スマートフォンに保存した画像だけだった。
彼は写真を拡大した。
幼い自分。
石柱。
神殿の入口。
そして、入口の奥に見える暗い空間。
昨日は気づかなかったが、その暗闇の中に、何かが写っていた。
人影だった。
写真の端に立つ、もう一人の人物。
黒い服を着ている。
アポロンは、その姿を確認した。
これまで、異常のたびに現れていた男と似ている。
しかし、同一人物だと断定できるほど、顔ははっきりしていなかった。
アポロンは、写真に意識を向けた。
今度は、文字が現れなかった。
代わりに、写真の奥にあった神殿の扉が、わずかに開いた。
その隙間から、白い光が漏れている。
アポロンは、意識をさらに深く向けた。
すると、声が聞こえた。
『記録の閲覧には、記録者の許可が必要です』
「記録者は、存在しないのではありませんか」
『記録者は、記録内に存在しません』
「それは、存在しないという意味ではない」
『回答できません』
アポロンは、しばらく考えた。
記録の中に存在しない。
それなら、記録の外側に存在している可能性がある。
「記録の外側にいるのですか」
返答はなかった。
しかし、扉の向こうで、誰かが動いた。
アポロンは、意識を集中させた。
その瞬間、視界が切り替わった。
神殿の中。
石の床。
高い天井。
そして、中央に立つ幼い少年。
写真と同じ顔だった。
少年は、アポロンを見上げていた。
「……あなたは、誰ですか」
アポロンは、少年に尋ねた。
少年は答えなかった。
ただ、彼の背後にある扉を指さした。
そこには、文字が刻まれていた。
『創造主の記録』
アポロンは、その文字を見た。
そして、初めて気づいた。
この記録の中では、自分が創造主として扱われている。
だが、少年が立っている場所は、彼が知っている創造の記憶とは違っていた。
彼の記憶では、世界は最初から、自分の意思によって形作られた。
しかし、この神殿には、世界を創造した瞬間の記録がない。
あるのは、創造主という存在を記録するための場所だけだった。
「……私は、ここで記録されたのですか」
少年は、ゆっくりと頷いた。
その瞬間、神殿全体が揺れた。
床に亀裂が走り、天井から白い光が落ちてくる。
『記録の閲覧を中止してください』
声が響いた。
『記録者の許可がありません』
アポロンは、少年を見た。
「あなたは、私なのですか」
少年は、口を開いた。
その声は、幼い子どものものだった。
「違うよ」
アポロンは、動きを止めた。
「……違う?」
少年は、少しだけ首を傾げた。
「僕は、あなたが記録される前から、ここにいたんだ」
次の瞬間、視界が消えた。
アポロンは、自分の部屋に戻っていた。
スマートフォンの画面には、写真が表示されている。
しかし、神殿の扉は閉じていた。
その下に、新しい文字が浮かんでいた。
『記録の閲覧を中止しました』
『記録対象――アポロン』
『記録者――未確認』
そして、最後の一行。
『最初の記録は、創造主のものではありません』
アポロンは、画面を見つめた。
少年は、自分ではないと言った。
しかも、自分が記録される前から、あの場所にいたという。
では、あの少年は何者なのか。
そして、なぜ自分と同じ顔をしているのか。
アポロンは、スマートフォンを伏せた。
今夜は、これ以上調べない。
そう決めた。
だが、部屋の時計が十二時を指したとき。
時計の針は止まらなかった。
代わりに、時計の文字盤に、見覚えのない数字が浮かび上がった。
『記録番号000』
その数字は、ゆっくりと消えていった。
そして、文字盤には何も残らなかった。




