第一四七章 最初の記録
美咲から送られてきた写真を、アポロンは何度も確認した。
写真の中央に立つ幼い少年。
その顔は、自分に似ている。
似ているというより、同じだった。
しかし、アポロンには、その少年の記憶がない。
「……最初の記録」
小さく呟く。
写真の裏側に浮かんだ文字は、それだけだった。
撮影された場所も、年月日も記されていない。
それでも、一つだけ分かることがある。
この写真は、今までの異常とは違う。
これまでの現象は、彼が創造主としての位置を離れたことと関係していた。
だが、今回の写真は、その前提そのものを問い直している。
自分は本当に、世界の始まりにいたのだろうか。
それとも、世界の始まりを知っていると思い込んでいただけなのだろうか。
「アポロンさん?」
電話の向こうから、美咲の声が聞こえた。
「聞こえていますか」
「はい。聞こえています」
「写真、見てもらえましたか」
「見ました」
「それ、誰なんでしょう」
アポロンは、すぐには答えなかった。
「……分かりません」
「アポロンさんに似ていますよね」
「そうですね」
「昔の写真なんですけど、こんな子、うちの家族にいたかなって。母にも聞いてみたんですけど、知らないって言っていました」
美咲は、少し困ったように笑った。
「写真そのものは、ずっと前からアルバムに入っていたみたいなんです。なのに、誰も、この子のことを覚えていないんです」
「写真を撮った人は分かりますか」
「母の祖母が持っていたアルバムだそうです。でも、祖母ももう亡くなっているので、直接は聞けません」
「そうですか」
「アポロンさん。これ、前に話していたことと関係があるんでしょうか」
「その可能性は高いと思います」
「……危ないことになりそうですか」
アポロンは、写真を見つめた。
分からないことを、分かるとは言えない。
「まだ、判断できません。ただ、今すぐ美咲さんが何かをする必要はありません」
「分かりました」
美咲は少し間を置いた。
「でも、一つだけお願いしてもいいですか」
「何でしょう」
「一人で全部調べようとしないでくださいね」
アポロンは、以前にも聞いた言葉を思い出した。
「はい」
「本当に?」
「……できる限り、そうします」
「それなら、いいです」
電話が切れた。
アポロンは、しばらくスマートフォンを手にしたまま立っていた。
神だった頃なら、あらゆる事実を知ることに迷いはなかった。
知らないことがあれば、知ればよかった。
だが、今は違う。
知ろうとすることによって、誰かを危険に巻き込む可能性がある。
そして、自分自身についての答えであっても、それを知ることが、必ずしも正しい選択とは限らない。
それでも、確かめなければならないことがあった。
自分は、どこから来たのか。
*
翌朝、アポロンは美咲と会う約束をした。
場所は、いつもの喫茶店だった。
美咲は先に到着していた。
テーブルの上には、問題のアルバムが置かれている。
「持ってきてくれたんですね」
「はい。母にお願いして、借りてきました」
美咲はアルバムを開いた。
古い写真が、何枚も並んでいる。
家族の集合写真。
庭で遊ぶ子どもたち。
誕生日らしい食卓。
どれも、特別なものではない。
しかし、その中に一枚だけ、妙な写真があった。
幼いアポロンが、古い神殿のような建物の前に立っている。
背景には、石柱が並んでいた。
現代の日本では、あまり見かけない建築様式だった。
「この場所、分かりますか」
美咲が尋ねた。
「いいえ」
アポロンは写真を手に取った。
建物には見覚えがない。
それでも、写真を見ていると、奇妙な感覚があった。
懐かしいわけではない。
記憶がよみがえるわけでもない。
ただ、自分がそこに立っていたことだけは、疑いようがないように感じられた。
「この写真の前後に、何か記録はありませんか」
「アルバムには、撮影した年月日が書いてあるものもあります。でも、この写真だけ、何もないんです」
美咲は、隣のページを開いた。
そこには、家族が海辺で撮った写真があった。
裏側に、日付が書かれている。
その日付は、今から七十年以上前だった。
「この写真は、その頃のものだと思います」
アポロンは、幼い自分の写真に目を戻した。
七十年前。
彼が人間になることを決めたのは、つい最近のことだ。
神としての時間に、七十年は長くない。
だが、彼が世界を創造したと認識している時代から考えれば、あまりにも新しい。
「美咲さん」
「はい」
「この写真を、誰かに見せましたか」
「母と、母の兄です。それから、昔の写真に詳しい知人にも送りました」
「何か分かりましたか」
「まだです。ただ、知人から、少し気になることを言われました」
美咲はスマートフォンを取り出した。
「この建物、写真の時代には存在していなかった可能性があるそうです」
「存在していなかった?」
「はい。建築様式が古すぎるらしいんです。もちろん、古い建物が残っていた可能性もありますけど、写真の場所がどこなのか分からないので、確認できないそうです」
アポロンは、写真をテーブルに置いた。
「……なるほど」
建物が古いこと自体は、問題ではない。
問題は、そこに立つ少年が、自分であることだった。
「その知人に、もう少し調べてもらうことはできますか」
「聞いてみます。ただ、あまり期待しないでほしいと言われました」
「構いません。分かる範囲で十分です」
美咲は頷いた。
それから、少し考えるようにして言った。
「アポロンさん」
「はい」
「もし、この写真の子が本当にアポロンさんだったら、どうしますか」
アポロンは、写真を見た。
「まず、確かめます」
「それだけですか」
「はい」
「怖くないんですか」
その問いに、アポロンはすぐには答えられなかった。
怖い。
その言葉が、今の自分に当てはまるのか。
まだ、よく分からない。
「……分かりません」
美咲は、少しだけ笑った。
「そうですか」
「ただ、知りたいとは思います」
「なら、調べましょう」
彼女は、ごく自然に言った。
「一緒に」
アポロンは、美咲を見た。
「危険があるかもしれません」
「それは、分かっています」
「それでもですか」
「はい。でも、何でも一緒にするという意味ではありません。危ないと思ったら、私は私で考えます」
美咲は、アルバムを閉じた。
「アポロンさんが決めることと、私が決めることは、別ですから」
アポロンは、その言葉を聞いて、静かに頷いた。
誰かと一緒に進むというのは、その人にすべてを任せることではない。
同じ場所へ向かうとしても、それぞれが自分で選ぶ。
そういう関係もあるのだろう。
*
その日の午後、アポロンは仕事へ向かった。
店に入ると、健一が厨房で仕込みをしていた。
「おはようございます」
「おう。今日は少し早いな」
「はい」
「何かあったか?」
アポロンは、少し考えた。
「自分の過去について、調べることになりました」
健一は、包丁を動かしながら答えた。
「へえ。昔の写真でも出てきたのか」
「……似たようなものです」
「それで、何か分かった?」
「まだ、何も」
「そうか」
健一は、それ以上聞かなかった。
「まあ、分からないことは、すぐには分からないからな。仕込みが終わるまでに答えが出るなら、俺も苦労しないんだけど」
「そうですね」
「それより、今日の予約は一組増えた。奥の席を使うから、準備を頼む」
「分かりました」
アポロンは、エプロンを着けた。
写真の中の自分が何者なのか。
世界が自分を創ったという言葉は、何を意味するのか。
それらの疑問は、消えたわけではない。
しかし、今は店の仕事がある。
目の前の仕事を放り出してまで、答えを急ぐ必要はなかった。
夕方、佐藤が厨房へ戻ってきた。
「アポロンさん、ちょっといいですか」
「はい」
「この注文、確認してもらえます? お客さんが、さっきの料理を変更したいって」
アポロンは注文票を受け取った。
「分かりました」
二人で内容を確認し、厨房に伝える。
大きな問題にはならなかった。
閉店後、健一が売上をまとめていると、佐藤がふと口を開いた。
「そういえば、うちの祖父が言ってたんですけど」
「何をですか」
「昔、駅で変な写真を見たことがあるらしいんです」
アポロンの手が止まった。
「変な写真?」
「はい。駅の古い記録写真だったらしいんですけど、誰もいないはずの場所に、子どもが一人写っていたとか」
「その写真は、今も残っていますか」
「分かりません。祖父も、誰かから聞いた話だと言ってましたから」
佐藤は、少し考えた。
「ただ、その子どものことを聞くと、祖父はいつも、同じことを言うんです」
「何と言っていたのですか」
「『あの子は、最初からそこにいたんじゃない』って」
厨房の換気扇が、低い音を立てて回っていた。
アポロンは、佐藤を見つめた。
「……最初から、そこにいたのではない」
「はい。意味はよく分かりませんけど」
佐藤は肩をすくめた。
「昔の人の話って、そういうの多いですよね」
彼は、食器を片づけ始めた。
だが、アポロンは、その言葉を聞き流せなかった。
もし、写真の中の少年が自分なら。
そして、その少年が、最初からそこにいたのではないのなら。
自分は、どこかから来たことになる。
世界の外から。
あるいは、世界が始まる前から存在していた、別の何かから。
*
夜、自宅に戻ったアポロンは、写真をもう一度開いた。
美咲から送られてきた画像。
幼い自分。
古い神殿。
そして、裏側に記された『最初の記録』という文字。
彼は、写真に意識を集中させた。
以前なら、知りたいと思うだけで、すべてが明らかになった。
しかし、今は違う。
写真の中の少年について、彼の知識は何も答えなかった。
それでも、今回は、完全に遮断されているわけではなかった。
写真の奥に、わずかな反応がある。
彼は、慎重に意識を向けた。
すると、写真の背景にあった神殿の扉が、ゆっくりと開いた。
もちろん、写真そのものが動いたわけではない。
彼の意識の中で、記録の奥にある何かが、応答している。
扉の向こうは、暗かった。
その暗闇の中に、声が響いた。
『記録を再生しますか』
アポロンは、しばらく考えた。
「再生した場合、何が起きますか」
『記録の内容を確認できます』
「危険はありますか」
『回答できません』
以前と同じだ。
分からないことについて、世界は答えない。
しかし、今回は、選択肢がある。
『再生する』
『再生しない』
アポロンは、写真を見つめた。
もし、ここで再生すれば、自分が知らなかった過去を知ることになる。
それが、自分の望んでいた答えとは限らない。
そして、知ることで、今の生活に戻れなくなる可能性もある。
彼は、スマートフォンを手に取った。
美咲からのメッセージが残っている。
『一緒に調べましょう』
アポロンは、短く返信した。
『記録の再生が可能になりました。明日、もう一度相談してもいいですか』
すぐに返事が来た。
『もちろんです。今日は、ちゃんと休んでくださいね』
アポロンは、スマートフォンを置いた。
そして、写真の奥にある選択肢を見つめた。
「今日は、再生しません」
画面の文字が消えた。
暗闇の向こうで、何かが動いた。
最後に、一つだけ文字が浮かんだ。
『記録の保留を確認しました』
その下に、もう一行。
『第一記録以前の記録は、存在しません』
アポロンは、その文字を見つめた。
第一記録以前の記録は、存在しない。
つまり、この写真が本当に最初の記録なら。
彼が世界の創造主として存在する以前の記録は、どこにもないということだ。
だが、それは、彼が最初から存在していたことの証明にはならない。
記録がないことと、過去がないことは、同じではない。
アポロンは、写真を閉じた。
明日、美咲と話そう。
そして、もう一度、調べる。
今度は、自分一人で答えを決めるのではなく。
彼は、部屋の明かりを消した。
暗闇の中で、時計の針が進んでいく。
十一時五十八分。
十一時五十九分。
十二時。
今夜は、止まらなかった。




