第一四六章 創造主の代わり
『次の代替候補――アポロン』
その文字は、消えなかった。
アポロンは、案内板を見上げた。
「説明してください」
黒い服の男は、亮介たちから少し離れた場所に立っていた。
「何をですか」
「私が創造主であるにもかかわらず、私自身が代替候補として登録されている理由です」
男は、すぐには答えなかった。
「世界は、創造主という役割を必要としているのでしょう」
「それなら、私がいるではありませんか」
「世界にとって、あなたがいることと、あなたがその役割を果たしていることは、別なのです」
アポロンは、案内板を見た。
「私は、創造主であることを否定していません」
「ええ」
「世界を創造したことも、覚えています」
「そうでしょうね」
「それなのに、世界は私を創造主として認めない」
男は、ゆっくりと頷いた。
「あなたは、創造主であることを否定していません。しかし、創造主としての役割を、以前と同じようには果たしていない」
「私が人間になったからですか」
「あなたが、自分の意思で、創造主の位置を離れたからです」
アポロンは黙った。
男の説明が正しいかどうかは、まだ分からない。
だが、世界が彼の帰還を求める一方で、彼自身を代替候補として登録していることには、何らかの意味があるはずだった。
「世界は、私が戻ることを求めているのではないのですか」
「最初は、そうだったのかもしれません」
「今は違う?」
「少なくとも、表示を見る限りでは」
男は、案内板を指した。
「世界は、創造主の役割を担う者を探しています。あなたが戻ることを拒み続けるなら、あなたを候補の一人として扱い、ほかの候補と同じように照合しようとするのでしょう」
アポロンは、静かに息を吐いた。
「……私を、私自身の代わりにするつもりですか」
「そのように見えます」
「奇妙な仕組みですね」
「そうですね」
男は否定しなかった。
「ですが、仕組みが奇妙だからといって、止まるとは限りません」
*
亮介の身体は、元の状態に戻りつつあった。
妻は夫の手を握り、何度も名前を呼んでいた。
亮介も、そのたびに返事をしている。
「亮介さん、聞こえますか」
「聞こえてるよ」
「本当に?」
「本当だよ」
「……よかった」
妻は、ようやく息を吐いた。
アポロンは、二人のそばへ歩み寄った。
「亮介さん。身体の具合はどうですか」
「まだ少し、変な感じがします。でも、さっきよりは大丈夫です」
「無理をしないでください。今は、ご家族と一緒にいてください」
亮介は頷いた。
「ありがとうございます。アポロンさんが来てくれなかったら、どうなっていたか……」
「私にも、まだ分かりません」
アポロンは、正直に答えた。
「今回のことを解決できたわけではありません。ただ、照合を中止させることはできました」
「それだけでも、十分です」
亮介は、妻の手を握り直した。
「僕たちは、家に帰りたいんです。普通に暮らしたい。それだけです」
アポロンは、その言葉を聞いた。
世界は、創造主の代わりを必要としている。
しかし、亮介はその役割を望んでいない。
彼が望んでいるのは、家族と暮らすことだった。
その希望は、世界の仕組みにとって、どれほど重要なのだろうか。
「亮介さん」
「はい?」
「あなたが望んでいない役割を、世界が必要としているからといって、引き受ける必要はありません」
亮介は、少し驚いたようにアポロンを見た。
「でも、断っても、また同じことが起きるかもしれません」
「その可能性はあります」
「それでも、断っていいんですか」
「あなたの人生ですから」
アポロンは、静かに答えた。
「あなたがどう生きたいのかを、あなた自身が決めることは、間違いではありません」
亮介は、しばらく黙っていた。
やがて、少しだけ笑った。
「……そう言ってもらえると、助かります」
そのとき、ホームの案内板が点滅した。
『帰還者番号003』
『本人確認――保留』
亮介の名前が表示されていた。
その下に、新しい文章が浮かぶ。
『照合を再開しますか?』
『はい』
『いいえ』
アポロンは、表示を見つめた。
世界は、再び選択を求めている。
しかし、今度は亮介に直接尋ねているわけではない。
誰かが代わりに選ぶことを前提にしている。
アポロンは、案内板に近づいた。
「本人に確認しなさい」
『要求を処理できません』
「なぜですか」
『照合対象の意思は、すでに記録されています』
「記録されているのなら、なぜ再開を尋ねるのですか」
返答はなかった。
アポロンは、しばらく表示を見つめていた。
やがて、亮介に向き直った。
「亮介さん。もう一度、確認してもいいですか」
「何をですか」
「あなたは、本人確認を続けることを望みますか。それとも、中止を望みますか」
亮介は、少し考えた。
「今は、中止してほしいです。僕が僕であることを、こんな場所で証明し続けるのは嫌です」
「分かりました」
アポロンは、案内板に向き直った。
「照合を中止してください」
『照合を中止します』
表示が消えた。
今度は、再開を求める文章も現れなかった。
アポロンは、案内板から離れた。
世界は、少なくとも今は、本人の意思を受け取ることができる。
ならば、すべての意思が無視されているわけではない。
問題は、その意思が、どのような条件で有効になるのかということだった。
*
「一つ、聞いてもいいですか」
黒い服の男が、アポロンに声をかけた。
「どうぞ」
「あなたは、なぜ亮介さんを助けたのですか」
アポロンは、男を見た。
「本人が望んでいない役割を、押しつけられようとしていたからです」
「それだけですか」
「それ以外に、理由が必要ですか」
男は、少しだけ笑った。
「いいえ」
「では、なぜ聞いたのですか」
「あなたが、どこまで人間になったのかを知りたかったのです」
アポロンは、眉を動かした。
「私は、先ほどから人間であることを証明しろと求められています」
「ええ」
「しかし、あなたも、私がどこまで人間になったのかを確認しようとしている」
「そうですね」
「私が人間であるかどうかを、誰が決めるのですか」
男は、しばらく黙っていた。
「少なくとも、私ではありません」
「では、世界でもない?」
「世界が決めようとしていることと、実際に決められることは、別なのかもしれません」
アポロンは、男を見つめた。
「あなたは、以前から私のことを知っているようですね」
「ええ」
「私が人間になりたいと思っていたことも?」
「知っていました」
「それでも、私が人間になったことを、確かめようとするのですか」
男は、ゆっくりと頷いた。
「あなたが人間になりたいと願っていたことと、実際に人間として生きることは、同じではありませんから」
アポロンは、しばらく黙っていた。
その言葉は、間違っていない。
人間になりたいと思ったとき、彼は人間の生活を知りたいと願っていた。
だが、実際に人間になってから、初めて分かったことも多い。
疲れること。
待つこと。
誰かの言葉を信じること。
思いどおりにならないこと。
そして、自分の意思を、自分の言葉で伝えること。
「……そうですね」
アポロンは答えた。
「私自身も、まだ分からないことがあります」
男は、彼の返事を聞いて、静かに頷いた。
「それなら、もう一つだけ」
「何でしょう」
「あなたは、これからも人間として生きたいですか」
アポロンは、すぐには答えなかった。
亮介とその家族が、ホームの端へ歩いていく。
彼らは、まだ不安を抱えている。
それでも、帰ろうとしていた。
自分たちの生活へ。
アポロンは、彼らを見送ってから答えた。
「はい」
その言葉は、以前よりも迷いがなかった。
「少なくとも、今は」
男は、それ以上何も尋ねなかった。
*
その瞬間、駅の案内板が一斉に消えた。
ホームにあった時計も、改札口の表示も、すべてが暗くなる。
アポロンは、周囲を見回した。
「何が起きているのですか」
男は、表情を変えていた。
「分かりません」
「また、照合が始まったのですか」
「違うようです」
男は、駅の奥を見つめた。
「何かが、システムの外側から接続してきています」
アポロンは、静かに目を細めた。
「システムの外側?」
「ええ。これまでの異常は、少なくとも世界の照合機構を通じて起きていました。しかし、今の反応は違います」
ホームの奥で、黒い扉が現れた。
今まで見てきた扉とは、少し違っていた。
表面には文字がない。
プレートもない。
ただ、中央に小さな窓がついていた。
その窓の向こうに、人影が見える。
アポロンは、扉へ近づいた。
窓の向こうには、白い神殿があった。
空席の前に、一人の人物が立っている。
黒い服を着た男だった。
しかし、ホームにいる男とは違う。
窓の向こうの男は、アポロンを見つめていた。
そして、ゆっくりと口を開いた。
声は聞こえない。
だが、唇の動きは読み取れた。
――まだ、気づいていないのか。
アポロンは、窓に手を置いた。
「何にですか」
返事はない。
男は、神殿の奥を指した。
そこには、空席の背後にある大きな扉があった。
扉の表面には、世界の地図のような模様が刻まれている。
その一部が、黒く欠けていた。
しかし、今度は違う。
黒く欠けていた部分の中央に、小さな光が灯っていた。
光は、ゆっくりと広がっていく。
そして、地図の形を変え始めた。
アポロンは、その変化を見つめた。
世界の欠落が、修復されているのか。
それとも、別の何かが入り込んでいるのか。
まだ判断できない。
窓の向こうの男が、もう一度、唇を動かした。
――あなたが、世界を創ったのではない。
アポロンは、息を止めた。
男は、続けた。
――世界が、あなたを創ったのだ。
次の瞬間、窓が真っ黒になった。
ホームの照明が戻る。
案内板も、時計も、何事もなかったかのように動き始めた。
アポロンは、窓から手を離した。
「……今のは、何だったのですか」
黒い服の男は、答えなかった。
ただ、彼もまた、窓の向こうに何かを見ていたようだった。
「あなたは、何か知っているのですね」
アポロンが尋ねると、男はゆっくりと首を振った。
「いいえ。少なくとも、今の言葉は初めて聞きました」
「では、世界を創ったのは私ではないという言葉も?」
「私には、判断できません」
男は、窓のなくなった扉を見つめた。
「ですが、もしそれが事実なら……」
「ならば?」
男は、アポロンを見た。
「あなたが神に戻ったとしても、すべてを元に戻せるとは限りません」
アポロンは、しばらく黙っていた。
世界を創ったのは、自分だ。
それは、彼が知っている事実だった。
しかし、今、別の可能性が示された。
世界が先に存在し、その世界によって、自分が創造主として成立していたのだとしたら。
彼が世界の基準だったという認識そのものが、逆だったのかもしれない。
「……確かめる必要がありますね」
アポロンは、静かに言った。
男は頷いた。
「ええ」
そのとき、アポロンのスマートフォンが震えた。
美咲からだった。
『アポロンさん、写真に変化がありました』
続けて、写真が一枚送られてきた。
美咲の家族写真。
黒い服の男が写っていた、あの写真だった。
今度は、男の姿が消えていた。
代わりに、写真の中央に、幼いアポロンが立っていた。
知らない子どもだった。
しかし、その顔は、確かにアポロン自身のものだった。
写真の裏側には、新しい文字が浮かんでいた。
『最初の記録』
アポロンは、その文字を見つめた。
そして、初めて、自分が創造主になる前のことを考えた。
もし、自分が世界を創ったのではないのなら。
自分は、いったいどこから来たのだろうか。




