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神様は、明日を知らない』 ――全知全能の神が、人間になった理由――  作者: 亀


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第一四五章 誰の人生なのか

ホームに足を踏み入れた瞬間、音が戻った。


電車の走行音。


駅のアナウンス。


遠くで話す人々の声。


世界は動いている。


しかし、亮介の姿だけは、まだ薄かった。


彼の妻が、その腕を握っていた。


「亮介さん!」


アポロンは、三人のもとへ歩み寄った。


亮介が振り返る。


「アポロンさん……?」


「はい。私です」


「来てくれたんですね」


亮介の声には、安堵が混じっていた。


「何が起きているのか、説明してください」


亮介は頷いた。


「さっきから、妻と話していたんです。昔の写真のことや、子どものころのことを」


「はい」


「妻は、僕との思い出を覚えています。子どもも、僕のことを父親だと思っています。でも、話している途中で、僕が誰なのか分からなくなる瞬間があるんです」


隣にいた妻が、唇を噛んだ。


「さっきも、亮介さんの名前を呼ぼうとしたのに、出てこなくなりました。でも、目の前にいるのは、いつも一緒に暮らしている亮介さんなんです」


彼女は、夫の手を握り直した。


「何が起きているのか分かりません。でも、私がこの人を知らない人だなんて、思いたくありません」


アポロンは、二人を見つめた。


「亮介さん。今、あなたはどうしたいですか」


亮介は、少し驚いたようだった。


「僕ですか?」


「はい」


「家に帰りたいです。妻と子どもと一緒に」


「それ以外には?」


亮介は、しばらく考えた。


「……自分が誰なのか、確かめたいです」


「どうしてですか」


「このまま、自分の記憶や名前が消えていくのは怖いです。でも、僕が僕であることを、誰かに決められるのも違う気がします」


彼は、妻を見た。


「僕は、家族と暮らしてきました。仕事をして、失敗して、子どもが生まれて、いろいろなことがありました。全部が本当だったのか、今は分からなくなりそうです」


亮介は、アポロンに向き直った。


「でも、僕はこの生活を続けたいんです」


アポロンは頷いた。


「分かりました」


そのとき、ホームの案内板が切り替わった。


『代替候補――田中亮介』


『照合開始まで、残り八分』


亮介の妻が、案内板を見上げた。


「代替候補って、何ですか?」


アポロンは、すぐには答えなかった。


亮介自身も、まだすべてを理解しているわけではない。


だが、彼が何を望んでいるかは、はっきりしていた。


「世界が、亮介さんを創造主の代わりにしようとしているようです」


妻は、目を見開いた。


「そんなこと、本人が望んでいないのに?」


「はい」


「どうして……」


彼女は、言葉を失った。


亮介は、アポロンを見た。


「僕が断ったことは、記録されているんですよね」


「はい。少なくとも、拒否したという記録は残っています」


「それなのに、まだ候補なんですか」


「そうです」


亮介は、短く息を吐いた。


「それでは、断った意味がないじゃないですか」


アポロンは、答えなかった。


そのとおりだった。


拒否を記録することと、拒否を尊重することは違う。


世界は、亮介が断ったという事実を保存している。


しかし、その意思をもとに処理を停止することはしていない。


「亮介さん」


アポロンは、彼に尋ねた。


「あなたは、創造主の代わりになることを、もう一度拒否しますか」


亮介は、迷わなかった。


「はい。僕は、なりたくありません」


「理由を聞いてもいいですか」


「分からない役割を押しつけられたくないからです」


亮介は、妻と子どもの手を握った。


「僕は、世界を管理したいわけじゃありません。家族と暮らしていきたいんです。それができなくなるなら、どんな力をもらえるとしても、受け入れたくありません」


アポロンは、彼の言葉を聞いた。


そして、案内板に向き直った。


「その意思を記録してください」


案内板の表示が変わった。


『拒否を確認しました』


『代替候補の照合を継続します』


アポロンは、目を細めた。


「なぜ継続するのですか」


『代替候補が必要です』


「必要だからといって、本人の意思を無視していい理由にはなりません」


『要求を処理できません』


「では、代替候補を必要としている理由を説明しなさい」


返答はなかった。


代わりに、ホームの時計が一斉に動き始めた。


十一時五十九分。


十二時。


十二時一分。


時間が進んでいる。


しかし、亮介の姿は、さらに薄くなった。


妻が悲鳴を上げた。


「亮介さん!」


彼女は、夫の腕を強く握った。


「大丈夫ですか?」


「大丈夫……だと思います」


亮介の声が、少し遠くなった。


「アポロンさん、僕の身体が……」


彼の手が、妻の手の中で透けていた。


アポロンは、すぐに力を使った。


「止まれ」


ホームの時間が停止した。


電車も、人も、風も、すべてが動きを止める。


しかし、亮介の身体は元に戻らなかった。


アポロンは、彼の腕に手を置いた。


確かに触れることができる。


存在そのものが消えたわけではない。


それでも、世界の認識から外れ始めている。


「……やはり、時間を止めるだけでは解決しませんか」


アポロンは、案内板を見た。


『照合開始まで、残り六分』


「照合を中止しなさい」


『要求を処理できません』


「私は、創造主です」


『本人と一致しません』


その表示を見て、アポロンは一瞬、動きを止めた。


世界は、彼を創造主と認識している。


しかし、本人とは認めていない。


だから、彼の命令を受け付けない。


その仕組みを、少しずつ理解し始めていた。


世界は、彼の力を奪ったのではない。


彼の命令を受け取るための基準が、変わってしまったのだ。


「……それなら」


アポロンは、亮介を見た。


「亮介さん。私の話を聞いてください」


「はい……」


「あなたは、世界の命令に従う必要はありません。少なくとも、あなた自身が望んでいない役割を、受け入れる必要はない」


亮介は、苦しそうに頷いた。


「でも、僕がこのまま消えてしまったら……」


「その可能性を、私は否定できません」


アポロンは、正直に答えた。


「それでも、あなたの意思を、あなた以外の誰かが勝手に決めることはできません」


亮介は、妻を見た。


彼女は、泣きそうな顔をしながらも、彼の手を離さなかった。


「亮介さん」


彼女が言った。


「帰ろう。家に帰って、また一緒にご飯を食べよう」


亮介は、ゆっくりと頷いた。


「……うん」


その瞬間、案内板の表示が変わった。


『代替候補の意思を確認しました』


『照合を中止しますか?』


アポロンは、表示を見つめた。


初めて、世界が選択肢を提示した。


しかし、その選択肢は亮介ではなく、アポロンに向けられていた。


『はい』


『いいえ』


アポロンは、すぐには答えなかった。


世界が照合を中止すれば、亮介の状態が元に戻るのか。


それとも、別の問題が起きるのか。


まだ分からない。


だが、照合を続ければ、亮介がさらに不安定になる可能性がある。


アポロンは、案内板に手を伸ばした。


そして、『はい』を選んだ。


『照合を中止します』


ホームの時計が、再び十一時五十九分で止まった。


亮介の身体から、光が消えた。


透けていた手が、少しずつ元に戻っていく。


妻が、夫を抱きしめた。


「亮介さん……!」


「大丈夫。大丈夫だよ」


亮介は、彼女の背中に手を回した。


アポロンは、その様子を見守っていた。


しかし、安堵するには早かった。


案内板に、新しい文字が浮かんだからだ。


『照合を中止しました』


『創造主の代替候補は、未確定です』


『次の候補を選定します』


アポロンは、表示を見つめた。


亮介は救われた。


少なくとも、今は。


だが、世界は代替候補を探すことをやめていない。


「……まだ、終わっていませんね」


アポロンは呟いた。


そのとき、案内板の表示が変わった。


『次の代替候補――アポロン』


アポロンは、静かに顔を上げた。


今度は、亮介の代わりではない。


世界は、彼自身を代替候補として登録しようとしていた。


創造主本人でありながら、創造主の代わり。


その矛盾が何を意味するのか。


答えを確かめる前に、ホームの向こうから、黒い服の男が歩いてきた。


男はアポロンの前で足を止めた。


「これで、ようやく分かったでしょう」


「何がですか」


男は、案内板を見上げた。


「世界は、あなたを元の位置に戻したいわけではない」


アポロンは、男を見た。


「では、何を望んでいるのですか」


男は、静かに答えた。


「あなたの代わりを、あなた自身に務めさせようとしているのです」


アポロンは、案内板を見つめた。


『次の代替候補――アポロン』


その文字は、消えなかった。

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