第一四四章 十二時を指す時計
食堂の時計は、十二時を指していた。
アポロンは、扉の前から店内を見渡した。
健一が厨房に立っている。
佐藤が皿を運んでいる。
美咲は窓際の席に座り、湯気の立つカップを両手で包んでいた。
どれも、見慣れた光景だった。
ただ一つ、カウンターの端に座っている男を除けば。
その男は、アポロンと同じ顔をしていた。
神だったころの姿。
世界のすべてを知り、すべてを創造し、何一つ知らないものがなかったころの自分。
「あなたは、本当に人間になったのですか」
男が、もう一度尋ねた。
アポロンは、店内へ足を踏み入れた。
「あなたは、私なのですか」
「質問に質問で返すのですね」
男は、カップを持ち上げた。
「人間になってから、そういうことを覚えたのですか」
「人間になったから覚えたのか、もともとできたことを使うようになったのか。それは、私にも分かりません」
「では、あなたは自分が人間であることを、どうやって証明するのですか」
アポロンは、男の向かい側に座った。
「証明する必要があるのでしょうか」
男は、微笑んだ。
「世界が、それを求めています」
「世界が求めていることと、私が証明しなければならないことは、同じではありません」
「その考え方も、人間になってから身につけたのでしょうね」
「あなたは、何を知っているのですか」
男は答えなかった。
厨房から、健一の声が聞こえた。
「アポロン、注文はどうする?」
アポロンは振り返った。
健一は、いつもと変わらない顔でこちらを見ている。
「ラーメンをお願いします」
「いつものか?」
「はい」
「分かった。少し待ってくれ」
健一は厨房へ戻った。
アポロンは、再び向かい側の男を見た。
「今の出来事は、あなたが用意したものですか」
「いいえ」
「では、ここにいる人々は?」
「あなたが知っている人たちです」
「私が知っている人たちと、実際の彼らは違うかもしれません」
男は、カップをテーブルに置いた。
「そのとおりです」
「では、なぜ、私が人間であるかどうかを確認するために、この場所を見せるのですか」
男は、窓際の美咲を見た。
「あなたが、人間として過ごした時間だからです」
アポロンは、店内を見渡した。
健一が料理を作っている。
佐藤が皿を運んでいる。
美咲がカップを両手で包んでいる。
それぞれが、自分の仕事や時間を過ごしていた。
彼が神だったころ、こうした光景を何度も見てきた。
食事をする人間。
働く人間。
誰かを待つ人間。
誰かと話す人間。
その行動が、どのような意味を持つのかも知っていた。
しかし、今は違う。
彼は、ラーメンが運ばれてくるのを待っていた。
空腹を感じている。
温かいものを食べたいと思っている。
健一が作った料理を食べることを、楽しみにしている。
それらは、説明できる知識ではなかった。
「私は、人間になったと思っています」
アポロンは答えた。
「ただし、それをあなたに証明する方法は分かりません」
男は、静かに頷いた。
「それでいいのかもしれませんね」
「何がですか」
「証明できることと、実際にそうであることは、必ずしも同じではないということです」
その瞬間、食堂の時計が動いた。
秒針が一つ進む。
十二時を指していた針が、わずかに動いた。
そして、店内の風景が揺れた。
*
アポロンが目を開けると、食堂の中は無人になっていた。
健一も、佐藤も、美咲もいない。
向かい側の男だけが、まだ座っていた。
「今のは何だったのですか」
「あなたの記憶です」
「記憶を再現したのですか」
「正確には、あなたが人間として過ごした時間を、ここに投影したのでしょう」
アポロンは、空になったカウンターを見た。
先ほどまでラーメンを作っていた厨房には、何も残っていない。
「私が人間になったことを、確認するために?」
「それもあるでしょう」
「ほかには?」
男は、少し考えた。
「あなたが何を失ったのかを、確認するためかもしれません」
アポロンは、男を見た。
「私は、神の力を失っていません」
「そうですね」
「知識も、記憶も、失っていません」
「ええ」
「それなのに、何を失ったというのですか」
男は、テーブルの上に置かれたカップを指した。
「あなたが神だったころ、このカップを見たことがありますか」
「あります」
「触れたことは?」
「あります」
「飲んだことは?」
「ありません」
「では、今のあなたは、何を知っていますか」
アポロンは、カップを手に取った。
温かさが残っている。
飲み物は入っていない。
それでも、手のひらには、確かな温度が伝わっていた。
「温かいということを、知っています」
「それだけですか」
「……いいえ」
アポロンは、カップを置いた。
「これを誰かが用意してくれたことも、知っています。誰かが自分の時間を使って、私のために何かをしてくれたことも」
「それは、神だったころには知らなかったことですか」
「知識としては、知っていました」
アポロンは、男を見た。
「ですが、今のようには知りませんでした」
男は、何も言わなかった。
アポロンは、続けた。
「私は、人間の生活を観察していました。人間が何を食べ、何を欲しがり、誰を愛し、何を恐れるのか。すべてを知っているつもりでした」
「実際、知っていたのでしょう」
「はい。ですが、知っていることと、その中で生きることは違いました」
彼は、自分の手を見た。
「私は、神の力を失っていません。けれど、神だったころの私が知らなかったものを、今は知っています」
男は、ゆっくりと立ち上がった。
「それなら、あなたは人間になったのでしょう」
「それを、あなたが決めるのですか」
「いいえ」
男は首を振った。
「私が決めることではありません」
その瞬間、店内の壁に文字が浮かんだ。
『本人確認――完了』
アポロンは、文字を見た。
「判定結果は?」
文字が変わる。
『対象者――創造主』
『本人と一致しません』
アポロンは、しばらく沈黙した。
「……そうですか」
男は、壁の文字を見つめた。
「やはり、そうなりましたか」
「あなたは、この結果を予想していたのですか」
「いいえ。ただ、こうなる可能性は考えていました」
「なぜですか」
男は、アポロンを見た。
「あなたが人間になったからです」
「それが理由になるのですか」
「創造主としてのあなたと、人間としてのあなたは、同じ存在です。しかし、世界があなたを認識する方法は、以前と同じではありません」
男は、壁の文字を指した。
「世界は、創造主としてのあなたを探しています。ですが、今のあなたは、以前と同じ位置にはいない」
「私は、ここにいます」
「ええ。あなた自身は、ここにいる」
男は静かに答えた。
「問題は、世界がそれを認識できるかどうかです」
アポロンは、壁の文字を見つめた。
世界は、彼が誰であるかを知らないのではない。
創造主であることを認識している。
しかし、その創造主が、以前とは違う存在になっている。
世界が求めるものと、今の彼が一致しない。
それが、今回の判定なのだろうか。
「では、私が神に戻れば、判定は一致するのですか」
男は、答えなかった。
その沈黙が、また一つの可能性を示していた。
*
店内の壁が、突然、透明になった。
その向こうに、駅のホームが見えた。
ホームには、亮介が立っていた。
その隣には、妻と子どもがいる。
三人は、何かを話していた。
亮介の妻が笑い、子どもが父親の手を引いている。
いつもと変わらない家族の姿だった。
しかし、ホームの時計は十一時五十九分で止まっていた。
そして、亮介の身体が、少しずつ薄くなり始めた。
アポロンは、立ち上がった。
「何をしているのですか」
向かい側の男は、答えなかった。
「これは、私の記憶ではありません」
「そうですね」
「亮介さんに、何が起きているのですか」
男は、ホームを見た。
「照合が進んでいるのでしょう」
「何の照合ですか」
「彼が、彼自身であるかどうか」
アポロンは、壁に近づいた。
亮介の妻が、彼の顔を見上げた。
何かを尋ねているようだった。
亮介は、答えようとしていた。
だが、その声は聞こえない。
子どもが父親の手を握っている。
その手の輪郭も、少しずつ薄れていた。
「止めなさい」
アポロンは命じた。
ホームの時計が、一瞬だけ動いた。
しかし、亮介の身体は元に戻らなかった。
「止めなさい!」
今度は、神としての力を込めた。
世界が揺れた。
壁の向こうのホームで、すべての動きが停止する。
亮介も、妻も、子どもも、動かなくなった。
だが、薄れていた輪郭は、そのままだった。
アポロンは、息を吐いた。
時間を止めることはできる。
人々の動きを止めることもできる。
しかし、彼らの存在が、世界からどのように認識されているのか。
その仕組みまでは、変えられなかった。
男が、静かに言った。
「あなたが神に戻れば、世界の基準は元に戻るかもしれません」
「かもしれない、ですか」
「保証はできません」
アポロンは、男を見た。
「それでも、私に神へ戻れと言うのですか」
「私は、あなたに何も命じていません」
男は、壁の向こうを指した。
「ただ、あなたが選ばなければ、何も変わらない可能性があります」
アポロンは、亮介を見つめた。
彼の家族は、父親の手を握っている。
まだ、離していない。
「……私は、戻ることを選びません」
アポロンは告げた。
「少なくとも、今は」
男は、黙っていた。
「しかし、何もしないつもりもありません」
アポロンは、壁に手を置いた。
「亮介さんを、本人ではないと判定することをやめなさい」
壁に文字が浮かぶ。
『要求を処理できません』
「なぜですか」
『創造主の権限が確認できません』
アポロンは、手を止めた。
「私は、創造主です」
『本人と一致しません』
その文字が、彼の目の前に表示された。
アポロンは、しばらく動かなかった。
自分が創造主であることは、疑いようがない。
世界を創造したのは、彼だ。
しかし、世界は今の彼を、創造主として認識できない。
それなら、彼が世界に命令するためには、どうすればいいのか。
神に戻るしかないのだろうか。
それとも、別の方法があるのだろうか。
彼は、壁の向こうにいる亮介を見た。
「私は、まだ諦めていません」
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
亮介にか。
世界にか。
それとも、かつての自分にか。
そのとき、壁に新しい文字が浮かんだ。
『創造主の代替候補を再確認します』
アポロンは、目を見開いた。
『代替候補――田中亮介』
『本人確認――未完了』
『照合開始まで、残り十分』
男が、初めて声を荒らげた。
「それは、止めなければいけない!」
アポロンは、男を振り返った。
「なぜですか」
「亮介さんが、創造主の代わりとして登録されれば、彼の存在は今とは違う形で固定される可能性があります」
「それは、本人として認められるということですか」
「分かりません」
男は、壁の文字を見つめた。
「ただ、彼が望んでいない役割を、世界が押しつけようとしているのは確かです」
アポロンは、静かに頷いた。
亮介は、すでに一度、代替候補になることを拒否している。
それでも、世界は彼を候補として扱い続けている。
彼の意思は、記録されたはずだった。
だが、世界はその拒否を、選択肢の一つとして処理しただけなのかもしれない。
「……分かりました」
アポロンは、壁の向こうのホームを見た。
「今度は、私が直接、亮介さんに会います」
「どうするつもりですか」
「彼が何を望んでいるのか、もう一度確認します」
アポロンは、扉へ向かった。
「そして、彼の意思を無視して代替候補にすることを、認めません」
男は、何も言わなかった。
アポロンが扉を開くと、向こうには駅のホームが広がっていた。
亮介と、その家族がいる。
時計は、十一時五十九分。
照合開始まで、残り十分。
アポロンは、ホームへ足を踏み出した。
今度は、神として世界を見下ろすためではない。
一人の人間が、自分の人生を自分で選べるようにするために。




