第一四三章 人間である証明
扉の向こうは、駅の構内だった。
アポロンが普段利用している駅と、よく似ている。
改札口。
券売機。
案内板。
壁際に並ぶ広告。
ただし、人の姿がなかった。
電車の走行音も、駅員のアナウンスも聞こえない。
案内板には、すべて同じ時刻が表示されていた。
十一時五十九分。
アポロンは、背後を振り返った。
歩道も、通行人も消えている。
開いた扉の向こうに見えるのは、白い壁だけだった。
扉を閉めると、プレートの文字が変わった。
『本人確認を開始します』
アポロンは、周囲を見回した。
「確認するというのなら、質問してください」
返事はなかった。
代わりに、改札口の上に文字が浮かんだ。
『第一項目』
『対象者は、食事を必要とするか』
アポロンは、少し眉を動かした。
「必要とします」
『第二項目』
『対象者は、睡眠を必要とするか』
「はい」
『第三項目』
『対象者は、老化するか』
アポロンは、すぐには答えなかった。
「今の身体には、その可能性があります」
『回答を確認しました』
『第四項目』
『対象者は、死を回避したいと考えるか』
「状況によります」
駅構内に、短い沈黙が流れた。
『回答が不明確です』
「あなたが求めているのは、私の意思ですか。それとも、一般的な人間の性質ですか」
返答はなかった。
アポロンは、改札口に近づいた。
「食事を必要とする人間もいれば、そうでない状態にある人間もいます。眠らずに過ごす人もいる。老化の速度も、死に対する考え方も同じではありません」
彼は、改札機の表示を見た。
「人間であることを、いくつかの質問だけで決められるのですか」
その瞬間、駅の照明が一斉に点滅した。
『判定基準に不一致があります』
『人間の定義を再確認します』
アポロンは、目を細めた。
どうやら、この場所は彼に答えを求めているのではない。
人間であると判断するための基準を、彼自身の回答から作ろうとしている。
しかし、その基準を決める権限が、彼にあるとは限らない。
「私の回答を使って、人間の定義を作るつもりですか」
『回答を確認しました』
「質問に答えてください」
『判定基準に不一致があります』
同じ表示が繰り返された。
アポロンは、それ以上質問を続けなかった。
このまま答え続ければ、世界が彼の回答をもとに、何らかの基準を作り上げる可能性がある。
そして、その基準が、亮介や美咲のような人々にも適用されるかもしれない。
彼は改札機から離れた。
そのとき、駅の奥から足音が聞こえた。
一人の男が歩いてくる。
黒い服。
銀色の腕時計。
針は十一時五十九分で止まっていた。
黒田修一だった。
「……黒田さん?」
男は、アポロンの前で足を止めた。
「私を知っているんですね」
「以前、あなたの家族に会いました」
「そうですか」
黒田は、自分の腕時計を見た。
「ここでは、時間が進まないんですね」
「そう見えます」
「外では、三十七年も過ぎたそうですが」
彼は淡々と話した。
「私には、そんなに長い時間が過ぎた感覚はありません。昨日の続きのような気もするし、何年も前のことのような気もする」
アポロンは、黒田を観察した。
彼の姿は、写真に残っていたものと一致している。
だが、それだけでは本人であると証明できない。
黒田自身も、そのことを理解しているようだった。
「あなたは、自分が黒田修一だと思っていますか」
黒田は、少し考えた。
「名前は覚えています。家族のことも、住んでいた場所も、仕事も。子どものころに転んで膝を怪我したことまで覚えています」
「それなら、あなたは黒田修一なのではありませんか」
「そう思いたいですね」
黒田は、苦笑した。
「でも、家族は私を見て、知らない人間だと言いました。顔も声も同じなのに、何かが違うと」
「何が違ったのですか」
「分かりません」
黒田は首を横に振った。
「私にも、家族にも、説明できませんでした」
駅の案内板が点滅した。
『帰還者番号001』
『本人確認を再開します』
黒田は、表示を見上げた。
「また、これですか」
「ここに来たことがあるのですか」
「何度も」
黒田は答えた。
「最初は、帰るために来ました。次は、自分が誰なのかを確かめるために。けれど、何度来ても同じでした」
「あなたは、ここから出られないのですか」
「出られることもあります」
黒田は、改札の向こうを見た。
「ただ、出た先が本当に元の世界なのか、それとも別の場所なのか。それを確かめる方法がない」
アポロンは、彼の言葉を聞いていた。
黒田は、戻ることができた。
しかし、本人として認められなかった。
そして、戻った先が本当に元の世界なのかも分からなかった。
世界が人間を本人として認識する基準は、記憶や外見だけではないのかもしれない。
「黒田さん。あなたは、もう一度家族に会いたいですか」
黒田は、すぐに答えなかった。
やがて、ゆっくりと頷いた。
「会いたいです」
「家族があなたを本人だと認めなくても?」
「それでも、会いたいですね」
黒田は、腕時計を見た。
「私が本当に本人なのか、今の私には証明できません。でも、家族に会いたいと思っていることだけは、間違いありませんから」
その言葉のあと、駅の照明が一瞬だけ明るくなった。
改札機の上に、文字が浮かんだ。
『回答を確認しました』
『本人確認――保留』
アポロンは、その表示を見つめた。
黒田の言葉によって、判定が変化した。
だが、本人と認められたわけではない。
「……あなたは、何を確認しているのですか」
アポロンが尋ねると、駅の奥から声が響いた。
『対象者の意思を確認しています』
アポロンは、顔を上げた。
「それなら、先ほどの質問は何だったのですか」
『身体的特徴を確認しました』
「身体的特徴と、本人であることは同じではありません」
『回答を確認しました』
アポロンは、息を吐いた。
この場所は、何かを確認するたびに、その結果を蓄積している。
しかし、その結果をどう扱うのかは、明確ではない。
「黒田さん」
彼は、隣に立つ男を見た。
「あなたは、ここから出たいですか」
黒田は、少し驚いたようにアポロンを見た。
「出られるのですか」
「まだ分かりません」
「それでも、聞くんですね」
「はい。あなたがどうしたいのかを、確認したかったので」
黒田は、しばらく黙っていた。
やがて、はっきりと答えた。
「出たいです。家族に会いたい」
その瞬間、改札機の表示が変わった。
『帰還者番号001』
『本人確認――継続中』
『帰還意思を確認しました』
黒田は、目を見開いた。
「今のは……」
「あなたの意思が、記録されたようです」
アポロンは改札機に近づいた。
「私にも、同じ質問をしてください」
駅の照明が点滅した。
『対象者――創造主』
『本人確認を再開します』
『帰還意思を確認してください』
アポロンは、改札機の前に立った。
「私は、まだ神に戻るつもりはありません」
『回答を確認しました』
「しかし、ここから出ることは望んでいます」
沈黙が流れた。
『帰還意思に不一致があります』
アポロンは、目を細めた。
「何が不一致なのですか」
『創造主の帰還と、対象者の帰還意思が一致しません』
「私は、神に戻ることと、ここから出ることを別々に考えています」
『回答を確認しました』
「それを、区別できないのですか」
駅の奥で、重い音が響いた。
改札機のすべてのランプが赤く点灯する。
『判定基準に不一致があります』
『創造主の意思を再確認します』
アポロンは、静かに立っていた。
世界は、彼の帰還を求めている。
しかし、彼自身は、帰還という言葉に含まれる意味を受け入れていない。
神に戻ること。
境界から出ること。
元の世界へ帰ること。
それらは、本当に同じ意味なのだろうか。
「あなたが確認したいのは、私がどこへ戻りたいのかということですか」
『回答を確認しました』
「それなら、私の答えは一つです」
アポロンは、改札機を見つめた。
「私は、私の意思で選びたい」
駅の照明が消えた。
暗闇の中で、機械的な声が響く。
『本人確認――中断』
『新たな照合対象を確認しました』
アポロンは、目を開いた。
駅の壁に、無数の名前が浮かび上がっていた。
黒田修一。
山本千代。
田中亮介。
美咲。
そして、見知らぬ名前が次々と現れる。
何十人。
何百人。
その数は、止まることなく増えていった。
黒田が、壁を見つめた。
「……この人たちは、誰ですか」
アポロンは、答えられなかった。
名前の横には、すべて同じ表示があった。
『本人確認未完了』
その中に、一つだけ、異なる表示が現れた。
『本人確認完了』
名前は、アポロンだった。
だが、その下には、さらに小さな文字が続いていた。
『対象者――創造主』
『判定――本人と一致しません』
アポロンは、動きを止めた。
本人確認は完了した。
それなのに、本人とは認められなかった。
彼は、自分の名前を見つめた。
そして、ようやく理解した。
この世界が確認しているのは、彼が誰であるかではない。
彼が、世界にとって、どの位置にいるべき存在なのかということだった。
そのとき、駅の奥に、もう一つの扉が現れた。
扉の向こうから、聞き覚えのある声がした。
『アポロン』
それは、彼自身の声だった。
『あなたが人間であることを、証明してください』
扉が開いた。
その向こうには、神殿ではなく、一軒の小さな食堂があった。
カウンターの向こうで、健一がいつものように料理を作っている。
佐藤が皿を運んでいる。
美咲が、窓際の席に座っていた。
そして、カウンターの端にいる男が、こちらを振り返った。
神だったころのアポロンだった。
彼は、人間の姿をしたアポロンを見て、静かに言った。
「あなたは、本当に人間になったのですか」
アポロンは、その問いに答えなかった。
食堂の時計は、十二時を指していた。




