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神様は、明日を知らない』 ――全知全能の神が、人間になった理由――  作者: 亀


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第一四二章 回収対象

鍵が、ゆっくりと回り切った。


美咲の部屋には、ほかに誰もいない。


玄関の向こう側にいるものが、鍵を開けようとしている。


『対象者を回収します』


その声は、感情を含んでいなかった。


アポロンは玄関の前に立った。


「止まりなさい」


鍵の回転が止まった。


静寂が戻る。


美咲は、彼の後ろから玄関を見ていた。


「今の声は……」


「聞こえていましたね」


「はい。回収って、どういう意味なんでしょう」


「まだ分かりません」


アポロンは、玄関の鍵に手を伸ばした。


鍵は動かない。


彼が命じたとおり、停止している。


しかし、ドアの向こう側にあるものの気配は消えていなかった。


「美咲さん。ここから少し離れていてください」


「アポロンさんは、どうするんですか」


「扉の向こうを確認します」


「危険ではありませんか」


「危険かどうかを確かめるためにも、確認が必要です」


美咲は何か言いかけたが、やがて頷いた。


「分かりました。でも、一人で全部を決めないでくださいね」


アポロンは振り返った。


「……はい」


彼は玄関の鍵を解除した。


ただし、扉そのものは開かなかった。


外側の空間だけを、慎重に確認する。


廊下。


壁。


照明。


階段へ続く通路。


見慣れた建物の構造に異常はない。


しかし、玄関のすぐ向こう側に、もう一つの空間が重なっていた。


こちら側の廊下と、よく似ている。


けれど、壁の色が違う。


照明はなく、床には細い黒線が走っている。


そして、その奥に一人の人間が立っていた。


「……あなたですか」


アポロンは、相手の顔を確認した。


黒い服を着た男。


先ほど街で会った人物とは違う。


それでも、その顔には見覚えがあった。


自分自身だった。


ただし、神としての姿ではない。


今と同じ、人間の姿をしたアポロンが、向こう側に立っていた。


男は口を開いた。


「こちらへ来てください」


アポロンは答えなかった。


「あなたが戻らなければ、照合は終わりません」


「私を回収するために、美咲さんまで対象にしたのですか」


「彼女は、あなたの記録に含まれています」


「質問に答えてください」


男は、少しだけ首を傾けた。


「彼女が対象になったのは、あなたが彼女を認識しているからです」


「それだけですか」


「それだけではありません」


男の背後で、黒い線が広がった。


「あなたが人間になってから、世界はあなたとの関係を再構築しようとしています。あなたが関わった人々も、その照合に含まれ始めました」


アポロンは、玄関の外を見つめた。


「私が神に戻れば、彼女は対象から外れるのですか」


「保証できません」


その答えは、先ほど黒い扉が返したものと同じだった。


「では、何のために私を回収するのですか」


男は、静かに言った。


「創造主を元の位置に戻すためです」


「元の位置に戻すことと、世界の問題を解決することは同じではありません」


「そのとおりです」


男は否定しなかった。


「ですが、創造主が不在のままでは、照合を止めることもできません」


アポロンは、男を見つめた。


「あなたは、誰なのですか」


男は答えなかった。


その代わり、向こう側の廊下に文字が浮かんだ。


『回収対象――創造主』


『随伴対象――美咲』


アポロンの目が細くなった。


「随伴対象?」


「あなたが帰還する際、彼女も一緒に移動する必要があります」


「必要があるとは、誰が決めたのですか」


「システムです」


「そのシステムは、何を根拠に判断しているのですか」


男は、初めて答えに詰まった。


「……私には、分かりません」


アポロンは、玄関の扉を閉じた。


鍵を掛ける。


向こう側の空間が、視界から消えた。


美咲が、すぐに尋ねた。


「今の人は、誰だったんですか」


「私と同じ顔をしていました」


「アポロンさんと?」


「はい」


美咲は、しばらく黙っていた。


「それは……アポロンさん自身なんでしょうか」


「分かりません」


彼は、写真を振り返った。


写真の中には、創造主だったころの自分が写っている。


そして、写真の下には、依然として文字が残っていた。


『判定――本人と一致しません』


「少なくとも、私と同じ顔をしているだけでは、本人とは認められないようです」


          *


アポロンは、美咲に事情を説明した。


世界が彼の帰還を求めていること。


黒田修一や千代、亮介が照合の対象になっていること。


そして、今度は美咲まで対象に加えられたこと。


美咲は最後まで話を聞いていた。


「つまり、アポロンさんが神に戻れば、全部解決するとは限らないんですね」


「はい」


「でも、戻らなければ、私たちが危険になるかもしれない」


「その可能性もあります」


美咲は、テーブルの上の写真を見た。


「……困りましたね」


アポロンは、彼女を見た。


「怖くありませんか」


「怖いですよ」


美咲は、正直に答えた。


「自分の写真に知らない人が写っていたり、玄関の外から変な声がしたり。何が起きているのか分からないんですから」


「それでも、私が戻るべきだと思いますか」


美咲は、すぐには答えなかった。


「私には、決められません」


彼女はアポロンを見た。


「アポロンさんが神様に戻ったほうがいいのか、人間のままでいたほうがいいのか。それを私が決めるのは違うと思います」


「……そうですか」


「ただ、ひとつお願いがあります」


「何でしょう」


「私を理由にして、自分の気持ちを無視しないでください」


アポロンは、黙っていた。


「私が危険だからといって、本当は戻りたくないのに戻る。それで何も解決しなかったら、きっと後悔すると思います」


美咲は、少し視線を落とした。


「もちろん、私のことを何も考えないでほしいわけじゃありません。でも、アポロンさん自身がどうしたいのかも、大切にしてほしいんです」


アポロンは、しばらく彼女を見つめていた。


神だったころなら、こうした言葉を聞く必要はなかった。


人間が何を考え、どのような選択をするのか、彼は知っていたからだ。


しかし、美咲は今、自分の言葉で彼に伝えている。


彼がどうするべきかではなく、彼自身がどうしたいのかを。


「ありがとうございます」


アポロンは、そう答えた。


「ですが、あなたを危険にさらしたまま、自分の意思だけを優先するつもりもありません」


「はい。それなら、一緒に考えましょう」


そのとき、テーブルの上でスマートフォンが震えた。


亮介からだった。


『アポロンさん、また変化がありました』


続けて、写真が送られてきた。


家族写真だった。


妻と子どもが写っている。


そして、写真の中央にいるはずの亮介だけが、薄くなっていた。


完全に消えたわけではない。


輪郭だけが残り、顔も服も、背景と混ざり始めている。


アポロンは、すぐに電話をかけた。


「亮介さん、今どこにいますか」


『家です。妻と子どもも一緒にいます』


「ご家族の様子は?」


『普通です。僕のことも覚えています。でも、さっきから、僕の名前を思い出すのに時間がかかるようになってきました』


アポロンは、目を閉じた。


「今は、ご家族から離れないでください。記録や写真が変化しても、無理に修正しようとしないでください」


『分かりました。でも、どうすればいいんでしょう』


「私が調べています。分かったことがあれば、すぐに連絡します」


電話を切ると、美咲が尋ねた。


「亮介さんも、危険なんですね」


「はい」


アポロンは、送られてきた写真を見つめた。


世界は、彼が神に戻ることを要求している。


その一方で、彼の周囲にいる人々の記録が、少しずつ失われ始めている。


しかし、彼ら自身は、まだ自分の生活を続けている。


家族と話し、食事をし、互いを覚えている。


それらまで失われることを、アポロンは望んでいなかった。


「美咲さん。私は、もう一度あの場所へ行きます」


「神殿ですか」


「はい。世界が私を回収しようとしている理由と、人々の記録が失われている理由を、別々に確かめる必要があります」


「私も行ったほうがいいですか」


「いいえ。今は、ここにいてください」


美咲は頷いた。


「分かりました。でも、必ず連絡してくださいね」


「約束します」


アポロンは玄関へ向かった。


今度は、扉を開ける前に振り返った。


「美咲さん」


「はい?」


「先ほどの写真は、捨てないでください。あの男が写っていたことも、忘れないでいてください」


「分かりました」


「そして、もし私と同じ顔をした人が現れても、すぐには信用しないでください」


美咲は、少しだけ表情を引き締めた。


「はい。アポロンさん本人かどうか、ちゃんと確かめます」


彼は頷き、部屋を出た。


          *


建物の外へ出ると、街の時計は動いていた。


けれど、駅前の大型時計には、十一時五十九分の表示が残っている。


周囲の人々は、特に気にしていない。


アポロンは、神殿へ通じる黒い扉を思い浮かべた。


扉は、美咲の家に現れた。


そして、彼を回収するために、別の空間を重ねてきた。


それならば、次に現れる場所も、予想できるかもしれない。


彼は歩きながら、世界の状態を探った。


街の一部で、記録の不一致が起きている。


写真。


書類。


時計。


人々の記憶。


それらは、ばらばらに異常を起こしているように見える。


だが、根本には一つの共通点があった。


世界が、人間を本人として認識するための基準が、揺らいでいる。


アポロンは足を止めた。


彼が神だったころ、世界は彼を基準にしていた。


だが、彼が人間になったことで、その基準は失われた。


それなら、今起きているのは、単なる記録の破損ではない。


世界が、人間を人間として認識する方法そのものを、作り直そうとしているのかもしれない。


その作業の途中で、亮介や美咲が対象になった。


そして、本人と一致しないと判定され始めた。


「……もし、そうなら」


アポロンは、静かに呟いた。


世界が必要としているのは、神の力だけではない。


誰が誰であるのかを決める、基準そのものなのかもしれない。


そのとき、彼の目の前に黒い扉が現れた。


駅前の歩道。


人々が行き交う、その真ん中だった。


誰も扉に気づいていない。


アポロンだけが、その存在を認識していた。


プレートには、新しい文字が刻まれていた。


『本人確認を再開します』


その下に、別の一文が現れる。


『照合対象――創造主』


そして、最後に。


『照合条件――あなたが人間であることを証明してください』


アポロンは、扉を見つめた。


神に戻れとは書かれていない。


帰還に同意しろとも書かれていない。


代わりに、彼が人間であることを証明しろと要求している。


「……今度は、そう来ましたか」


彼は、扉に手を伸ばした。


世界が何を基準に人間を認識しているのか。


その答えを確かめるために。


アポロンは、扉を開いた。

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