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神様は、明日を知らない』 ――全知全能の神が、人間になった理由――  作者: 亀


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第一四一章 玄関の向こう

チャイムが、もう一度鳴った。


電話の向こうで、美咲が息を潜めているのが分かった。


「美咲さん、玄関を開けないでください」


『はい。でも、誰でしょう……』


「分かりません。まず、ドアから離れてください」


『分かりました』


足音が遠ざかった。


アポロンは黒い扉を見つめたまま、電話を耳に当てていた。


目の前の扉には、依然として『本人確認――接触を開始します』と表示されている。


美咲の家で何かが起きている。


そして、こちらの扉も、それに反応している。


偶然と考えるには、タイミングが一致しすぎていた。


「美咲さん。玄関の向こうから、何か聞こえますか」


『……今は何も』


「人の気配は?」


『あります。誰かが立っているような気がします』


アポロンは目を閉じた。


美咲の家の様子を、いつものように知ろうとする。


しかし、そこへ意識を向けた瞬間、何かが遮った。


神社の参道で感じたものと同じだった。


世界そのものが見えなくなったわけではない。


ただ、美咲の玄関の向こう側だけが、認識できない。


「分かりました。私が行きます」


『でも、アポロンさんのところにも、何かあるんですよね?』


「はい」


『だったら、無理はしないでください』


彼は少し黙った。


「……分かりました。できるだけ早く、状況を確認します」


『待っています』


通話が切れた。


アポロンは、すぐに部屋を出ようとした。


しかし、玄関の扉を開けたところで、足を止めた。


廊下の突き当たりにあった黒い扉が、玄関の前へ移動していた。


壁も床も変わっていない。


ただ、そこにあったはずの扉だけが、場所を変えている。


プレートの文字が更新された。


『本人確認――接触を継続します』


アポロンは、黒い扉に手を伸ばした。


「私の移動を妨げないでください」


扉は動かなかった。


彼は、もう一度命令した。


「退きなさい」


反応はない。


アポロンの目が、わずかに細くなった。


この扉は、物理的に通行を妨げているだけではない。


彼が外へ出ようとする行為そのものに、何らかの制限をかけている。


「なるほど」


彼は、玄関の外へ出るという結果を命じるのではなく、自分の周囲にある空間を操作した。


本来なら、扉の位置など関係なく、彼はどこへでも移動できる。


次の瞬間、アポロンの姿は建物の外にあった。


黒い扉は、そこにはない。


しかし、スマートフォンの画面を見ると、時刻は十一時五十九分で止まったままだった。


そして、美咲からメッセージが届いていた。


『玄関の外から、私の名前を呼ばれました』


続けて、もう一通。


『声は、アポロンさんに似ていました』


アポロンは、歩き出した。


          *


美咲の住む建物に着くまで、いつもならそれほど時間はかからない。


今日は、途中で何度も異常を見た。


駅前の時計が止まっている。


交差点の電光掲示板が、同じ表示を繰り返している。


コンビニの自動ドアが開いたままになり、店員が何度もセンサーを確認していた。


街全体が止まっているわけではない。


人々は歩き、車は走り、店は営業している。


しかし、ある種の記録や認識だけが、局所的に途切れていた。


アポロンは、道の向こう側に立つ男に気づいた。


黒い服。


見覚えのある立ち姿。


境界の中で何度も出会った男だった。


男は、こちらを見ていた。


アポロンが近づくと、男は小さく首を振った。


「そちらへ行くのは、お勧めしません」


「美咲に何が起きているのか、あなたは知っているのですか」


「詳しくは知りません。ただ、あの扉が人間を対象にしたとき、本人確認は単なる記録の照合では終わらない」


「どういう意味ですか」


「記録と、本人の現在が一致するかどうかを確かめるのです」


アポロンは、男を見た。


「記録が一致しなければ?」


「対象が、本人として扱われなくなる可能性があります」


「それは、誰が決めているのですか」


男は答えなかった。


「あなたは、私が神に戻ることを望んでいないと言いましたね」


「私は、あなたの選択を見たいと言いました」


「それでは、答えになっていません」


「そうですね」


男は、静かに続けた。


「ですが、今は私の考えを説明している時間がありません」


男は、美咲の住む建物を見た。


「あなたが行けば、向こうはあなたを利用するでしょう」


「美咲を見捨てて、ここに立っていろというのですか」


「いいえ」


男は、はっきりと否定した。


「あなたが行くこと自体を止めているのではありません。ただ、相手があなたに何をさせようとしているのかを、忘れないでください」


アポロンは、しばらく男を見つめた。


「あなたは、私の味方ですか」


「その質問には、今も答えられません」


男は一歩、後ろへ下がった。


「ただ、ひとつだけ言えます。あなたが神だったころ、このようなことは起きませんでした」


「私が世界の基準だったからですか」


「それだけではありません」


男は、初めて迷うような表情を見せた。


「あなたが世界を知っていたからではなく、世界があなたを知っていたからです」


アポロンは、その言葉を頭の中で繰り返した。


世界が、自分を知っていた。


今は、その認識が失われている。


だから、世界は彼を探し、帰還を求めている。


しかし、なぜ美咲まで照合の対象になったのか。


「話の続きを聞かせてください」


「戻ってきたときに」


男はそう答え、背を向けた。


「もし、戻ってこられたら」


アポロンが問い返す前に、男の姿は人通りの中へ紛れた。


追いかけることもできた。


だが、今は優先すべきことがある。


アポロンは建物へ向かった。


          *


美咲の部屋の前に着くと、玄関の扉は閉まっていた。


呼び鈴を押す前に、スマートフォンを取り出す。


『今、玄関の前にいます』


送信すると、すぐに返信が来た。


『本当にアポロンさんですか?』


アポロンは、画面を見つめた。


それから、電話をかけた。


『もしもし』


「私です。今、玄関の前にいます」


『……声は、さっきと同じです』


「そうですか」


『でも、さっきも同じ声だったんです』


アポロンは、玄関の扉を見た。


「今から、私が三回ノックします。そのあと、あなたが私に一つ質問してください。答えが正しいかどうか、ご自身で判断してください」


『分かりました』


彼は、扉を三回ノックした。


コン、コン、コン。


部屋の中から足音が聞こえた。


しかし、美咲はすぐには扉を開けなかった。


『質問してもいいですか』


「どうぞ」


『私が前に、アポロンさんに貸したものは何ですか?』


アポロンは答えた。


「私があなたに貸した黒いペンではありませんね。あなたが私に貸したものなら、傘です。雨の日に、駅で一緒に使った透明な傘を、私が先に持って帰ってしまいました」


電話の向こうで、息を呑む音がした。


『……分かりました』


鍵が回った。


扉が、ゆっくりと開いた。


美咲は、少し疲れた顔で立っていた。


「アポロンさん」


「無事でよかったです」


美咲は頷いた。


「さっきから、玄関の外で、何度も私の名前を呼ばれていたんです」


「どんな声でしたか」


「アポロンさんの声でした。でも、話し方が少し違いました」


「何と言っていましたか」


美咲は、ためらいながら答えた。


「『扉を開けてください』と」


アポロンは、玄関の外を確認した。


廊下には誰もいない。


ただ、壁の時計が十一時五十九分で止まっていた。


「それ以外には?」


「私が開けないでいると、今度はこう言いました」


美咲は、アポロンを見た。


「『あなたが開けなければ、彼は戻れません』と」


アポロンは、黙った。


扉を開けさせるために、自分の帰還を持ち出した。


つまり、向こう側にいる何かは、美咲が自分にとって重要な存在であることを理解している。


あるいは、そう見せかけようとしている。


「その声は、今も聞こえますか」


「いいえ。アポロンさんが来てから、聞こえなくなりました」


「分かりました」


彼は部屋の中へ入った。


「少し、確認させてください」


美咲は頷いた。


アポロンは、部屋の中を見渡した。


机の上にあるカップ。


棚に置かれた写真。


壁に掛けられた時計。


そして、テーブルの端に置かれた一枚の写真。


美咲と家族が写っている写真だった。


アポロンは、その写真を手に取った。


「この写真は、いつ撮ったものですか」


「去年の年末です。実家に帰ったときに撮りました」


写真の中には、美咲と両親、兄弟が写っている。


全員、笑っていた。


だが、写真の右端に、見覚えのない人物が立っていた。


黒い服を着た男だった。


アポロンは、写真を見つめた。


あの男と同じ服装。


同じ立ち姿。


ただし、顔はぼやけている。


「美咲さん。この写真を撮ったとき、ここに誰かいましたか」


美咲は写真を覗き込んだ。


「いいえ。家族だけです」


「撮影した人は?」


「父です。父がタイマーを使って撮りました」


アポロンは、写真の裏側を確認した。


何も書かれていない。


「この写真、以前からこの状態でしたか」


「分かりません。今日、初めて気づきました」


彼は、写真をテーブルに戻した。


美咲の記憶に、異常はない。


しかし、写真には本来存在しないはずの人物が写っている。


三十七年前の黒田修一の家族写真と、同じだった。


「美咲さん。しばらく、この部屋から出ないでください」


「何か分かったんですか」


「まだ、確かなことは分かりません。ただ、今回の異常は、私だけを対象にしているわけではなさそうです」


美咲は、少し不安そうに写真を見た。


「この人は、誰なんでしょう」


「それを、これから確かめます」


そのとき、テーブルの上の時計が音を立てた。


秒針が、十一時五十九分から動き始めた。


一秒。


二秒。


三秒。


美咲が時計を見上げる。


「動きましたね」


「はい」


しかし、アポロンは喜ばなかった。


時計の針は、十二時を過ぎても止まらなかった。


代わりに、写真の中の黒い男の輪郭が、少しずつ鮮明になっていった。


アポロンは、写真を見つめた。


今度は、顔が見えた。


それは、先ほど街で会った男ではなかった。


アポロン自身の顔だった。


神として世界を創造したころの姿。


写真の中の男は、アポロンと同じ顔で、こちらを見ていた。


そして、写真の下端に、文字が浮かび上がった。


『創造主の記録を確認しました』


『照合対象――美咲』


『判定――本人と一致しません』


美咲が、息を呑んだ。


アポロンは写真を置き、彼女の前に立った。


「美咲さん。私の後ろにいてください」


次の瞬間、部屋の玄関から音がした。


鍵の回る音だった。


誰も触れていないはずの鍵が、内側からゆっくりと回り始めた。


そして、扉の向こうから声が聞こえた。


今度は、アポロンの声ではなかった。


『本人確認を完了しました』


『対象者を回収します』


アポロンは、玄関を見た。


彼は、まだ神に戻ると決めていない。


だが、世界の側は、もう彼の意思を待つつもりがないのかもしれなかった。

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