第一四〇章 本人ではない者
『照合結果――本人と一致しません』
その声が消えたあとも、神殿の揺れは続いていた。
白い柱の表面に、細い亀裂が走る。
床に浮かんでいた光は、一つ、また一つと消えていった。
アポロンは、奥の扉を見つめていた。
黒田修一。
三十七年前に姿を消し、戻ってきたあと、家族から本人ではないと疑われ、再び消えた男。
彼の記録は、境界の中で何度も確認されていた。
それなのに、ここでは本人と一致しないと判定された。
「黒田修一は、実際に帰還したのではないのですか」
アポロンは、隣に立つ男に尋ねた。
「帰還したことと、本人であると認められることは、別のようです」
「あなたにも、理由は分からないのですね」
「ええ」
男は、隠そうとせずに答えた。
「ただ、今の判定は、三十七年前の記録と同じではありません」
「何が違うのですか」
「以前は、帰還したあとに本人との不一致が記録されていました。今回は、帰還を確認した直後に、不一致と判定された」
アポロンは、扉の上に浮かぶ文字を見た。
『帰還者番号001』
『本人確認未完了』
『照合基準を再設定します』
最後の一文が現れた瞬間、神殿の奥から低い音が響いた。
空席の背後にある地図が、ゆっくりと動き始める。
黒く塗りつぶされていた部分が広がっていく。
「再設定とは、何をするつもりですか」
アポロンが尋ねると、男は初めて即座に答えた。
「分かりません。しかし、止めたほうがいい」
「止められるのですか」
「私には難しいでしょう」
男は奥の扉へ向かった。
アポロンも続こうとしたが、男は手で制した。
「あなたは、まだ中へ入らないでください」
「なぜですか」
「今、あなたが近づけば、照合対象が変わる可能性があります」
「私を確認しているのではないのですか」
「最初は、そうだったはずです」
男は振り返った。
「ですが、今は違う。何かが、あなたを基準にして、別のものまで確認しようとしている」
そのとき、奥の扉に新しい文字が現れた。
『照合基準――創造主』
『参照対象――全帰還者』
アポロンは、文字を見つめた。
自分を基準にして、すべての帰還者を照合する。
もし、それが本当に実行されるなら。
三十七年前に帰ってきた人々も。
境界の中で時間を失った人々も。
今、帰還者として扱われている亮介も。
すべてが、同じ基準で判定されることになる。
「私が基準になれば、彼らは本人と認められるのですか」
男は答えなかった。
代わりに、扉の文字が変化した。
『照合対象を選択してください』
その下に、名前が並んだ。
黒田修一。
山本千代。
田中亮介。
そして、アポロン。
最後の名前だけが、ほかの三つよりも明るく表示されていた。
「選択しろということですか」
「そう見えますね」
「私が誰かを選べば、その人が本人だと認められる?」
「それも、まだ分かりません」
アポロンは、しばらく考えた。
世界が用意した選択肢は、四つしかない。
だが、彼は四人のうち誰かを選ばなければならない理由を知らなかった。
「選びません」
彼が告げると、神殿の光が一斉に消えた。
暗闇の中で、機械的な声だけが響く。
『選択が確認できません』
『照合を継続します』
「私の意思を確認したいのなら、選ばないという意思も記録してください」
返答はなかった。
しかし、しばらくして文字が一つだけ浮かんだ。
『拒否を記録しました』
アポロンは、その表示を見た。
拒否は、無視されなかった。
少なくとも、今のところは。
*
神殿を出ると、アポロンの部屋に戻っていた。
黒い扉は、まだ廊下に立っている。
時計は十一時五十九分で止まったままだった。
彼はスマートフォンを確認した。
画面の時刻も動いていない。
しかし、メッセージが一件届いていた。
美咲からだった。
『メッセージ、届きました。今は無事なんですね。詳しいことは分からないけれど、帰ってきたら連絡してください』
アポロンは、その文章を二度読んだ。
それから、返信を打った。
『はい。必ず連絡します』
送信は、すぐに完了した。
彼はスマートフォンをしまい、扉を振り返った。
向こう側で何が起きているのか。
あの男は、どこまで知っているのか。
そして、世界が求めている「本人」とは、いったい何を指しているのか。
一つずつ確かめなければならない。
アポロンは、扉に向かって手を伸ばした。
その瞬間、スマートフォンが震えた。
亮介からの着信だった。
「もしもし」
『アポロンさん、今、大丈夫ですか』
亮介の声は、いつもより早口だった。
「何かありましたか」
『家にいるんです。妻も子どもも、いつもどおりです。でも……』
そこで、亮介は言葉を切った。
「続けてください」
『さっき、妻が昔の写真を見ていたんです。子どもが生まれたときの写真とか、結婚したときの写真とか』
「はい」
『その中に、僕が写っていない写真がありました』
アポロンは、黙って聞いていた。
『いや、正確には、写真を撮った覚えはあるんです。僕もその場にいた。妻も覚えています。でも、写真には僕がいないんです』
「写真だけですか」
『今のところは。妻も、僕がそこにいたことは覚えていると言っています。ただ、何枚かの写真で、僕の姿だけが消えているんです』
亮介は息を吸った。
『それから、子どもの母子手帳を確認しました。父親の欄には、僕の名前が書いてあります。でも、結婚届の控えにあった僕の署名が、読めなくなっていました』
アポロンは、扉を見た。
神殿で表示された文字が、頭に浮かぶ。
『照合基準――創造主』
「亮介さん。今、時計はどうなっていますか」
『家の時計ですか?』
「はい」
『十一時五十九分で止まっています』
アポロンは、目を閉じた。
「ご家族の様子は?」
『変わりません。妻も子どもも、僕を僕だと思っています』
「それなら、今は家族と一緒にいてください。写真や書類を捨てたり、無理に直そうとしたりしないでください」
『分かりました。でも、これは……僕が僕じゃなくなるということですか』
アポロンは、すぐには答えなかった。
安心させるために、根拠のない言葉を与えることはできる。
しかし、それでは亮介が直面している問題を、何も解決しない。
「まだ分かりません。ただ、あなたの家族が、あなたを覚えていることは確かです。今は、そのつながりを大切にしてください」
『……はい』
「何か変化があれば、すぐに連絡してください」
通話が終わった。
アポロンは、スマートフォンを握ったまま立っていた。
亮介の家族は、彼を覚えている。
しかし、過去の記録から、少しずつ彼の存在が消え始めている。
それが何を意味するのか、まだ確定できない。
ただ一つ、神殿での出来事と無関係ではないだろう。
アポロンは黒い扉を見た。
今度は、迷わなかった。
扉の表面に手を置く。
「開けてください」
黒い表面に光が走った。
『本人確認を再開します』
「いいえ」
アポロンは、静かに言った。
「私ではなく、田中亮介を確認してください」
扉が震えた。
『照合対象の変更はできません』
「では、私を基準にするのもやめなさい」
『要求を処理できません』
「なぜですか」
『創造主の不在を維持できません』
アポロンは、扉から手を離した。
やはり、世界は彼の不在を問題としている。
だが、それならば、なぜ亮介の過去が消え始めているのか。
創造主がいないことと、ある人間の記録が失われることは、本当に同じ問題なのだろうか。
彼は、再び扉に触れた。
「私が神に戻れば、亮介さんの記録は元に戻りますか」
しばらく、何も起こらなかった。
やがて、文字が浮かんだ。
『保証できません』
アポロンは、手を止めた。
初めて、扉が明確な答えを返した。
神に戻っても、元に戻るとは限らない。
それは、彼が予想していた以上に重要な情報だった。
「では、神に戻ることを求める理由は何ですか」
今度は、返答がなかった。
扉の表面が黒く沈み、中央に別の文章が現れる。
『次の照合対象を確認しました』
アポロンは、文字を見つめた。
そこに表示されたのは、亮介の名前ではなかった。
美咲。
その名前の下に、住所の一部と、現在の状態が表示されていた。
『照合対象――未登録』
アポロンの表情が変わった。
「美咲を、どうするつもりですか」
扉は答えない。
代わりに、最後の一文が浮かんだ。
『本人確認を開始します』
アポロンは、すぐに美咲へ電話をかけた。
今度は、呼び出し音が鳴った。
一回。
二回。
三回。
『もしもし?』
美咲の声が聞こえた。
アポロンは、すぐに尋ねた。
「今、どこにいますか」
『家ですけど……どうしたんですか?』
「玄関から離れてください。誰かが訪ねてきても、すぐに扉を開けないでください」
『アポロンさん? 何があったんですか』
そのとき、電話の向こうから音がした。
美咲が言葉を止める。
少し間を置いて、彼女が小さく尋ねた。
『……誰か、来たみたいです』
アポロンは、黒い扉を見た。
プレートには、見覚えのない文字が浮かんでいた。
『本人確認――接触を開始します』
そして、電話の向こうで。
玄関のチャイムが鳴った。




