第一三九章 扉の向こう
黒い扉は、廊下の突き当たりに立っていた。
昨日まで、そこには白い壁があった。
ドアノブも、蝶番も、扉枠さえも見当たらない。
ただ、黒い扉が存在している。
中央のプレートには、『帰還』と刻まれていた。
アポロンは、近づかなかった。
まず、スマートフォンを取り出す。
美咲に電話をかけた。
呼び出し音は鳴らなかった。
画面には、通話中でも圏外でもない表示が出ている。ただ、接続されない。
続いて、健一と佐藤、亮介にも連絡を試みた。
結果は同じだった。
世界の異常が、通信にまで影響しているのか。
それとも、この部屋だけが別の場所へ切り離されているのか。
今の段階では判断できない。
アポロンはスマートフォンをしまった。
扉を開ける前に、もう一度、部屋を見渡す。
机。
椅子。
本棚。
窓の外に見える街並み。
すべて、いつものままだった。
時計だけが、十一時五十九分で止まっている。
「……帰還、ですか」
彼は、扉のプレートに触れた。
冷たい。
それ以外は、何も感じない。
「開けてください」
声に出してみたが、扉は動かなかった。
「開けなさい」
今度は、神としての命令を与えた。
それでも、変化はない。
アポロンは手を離した。
力が失われたわけではない。
彼は今でも、世界のあらゆるものに命令できる。
しかし、この扉が従うべき対象なのかどうかさえ、認識できなかった。
扉は存在している。
触れることもできる。
けれど、その存在を成立させている仕組みだけが、世界の認識から外れている。
それは、これまでの異常と同じだった。
「私を戻したいのなら、まず説明するべきでしょう」
アポロンは扉に向かって言った。
返事はなかった。
代わりに、プレートの文字が変わった。
『創造主の帰還を確認します』
その下に、別の一文が浮かぶ。
『扉を開いてください』
アポロンは、少しだけ目を細めた。
「開けるのは、そちらではないのですか?」
文字は変わらなかった。
彼は、扉の前に立ち続けた。
やがて、プレートに新しい文章が現れた。
『開扉権限を確認できません』
『創造主本人による操作が必要です』
アポロンは、その文章を読んだ。
世界は、彼に戻ることを要求している。
しかし、扉を開けるためには、彼自身の操作が必要らしい。
命令で開かないのも、単純な拒絶とは違う。
扉の向こう側へ進むという選択を、彼自身がしなければならない。
アポロンは、ドアノブのない扉を見つめた。
「……そういう仕組みですか」
*
彼は、すぐには扉を開かなかった。
まず、部屋の中にあるものを確認する。
時計は止まったまま。
窓の外では、通行人が歩いている。
車も動いている。
街は、十一時五十九分で停止しているわけではなかった。
止まっているのは、この部屋の時計だけだ。
アポロンはスマートフォンを再び取り出した。
画面の時刻は、十一時五十九分から動いていない。
時計だけでなく、スマートフォンの表示も止まっている。
それでも、画面は操作できた。
彼は美咲とのメッセージ履歴を開いた。
最後のメッセージは、昨日のものだった。
『また、何か分かったら教えてくださいね』
アポロンは、入力欄に文字を打ち込んだ。
『今、少し問題が起きています。連絡が取れなくなっていますが、無事です』
送信ボタンを押す。
画面には、送信中と表示された。
数秒後、送信済みに変わった。
アポロンは画面を見つめた。
通信は完全には途絶えていない。
相手からの返事が届くかどうかは分からないが、自分からメッセージを送ることはできた。
彼は、短く続けた。
『無理に来る必要はありません。何か分かったら、また連絡します』
送信したあと、スマートフォンをしまった。
美咲に知らせることができた。
それだけで、少し安心した。
神だったころの彼は、何かを知らせる必要などなかった。
誰が何を知り、何を考えているのか、すべて理解できたからだ。
しかし、今は違う。
連絡が届くかどうかも、相手が心配しているかどうかも、確かめなければ分からない。
それでも、伝えようとすることには意味があった。
アポロンは、もう一度、黒い扉に向き直った。
この先に何があるのかは分からない。
だが、何も分からないからといって、永遠に立ち止まるわけにもいかなかった。
彼は扉に手を置いた。
「私は、あなたが用意した答えを、そのまま受け入れるつもりはありません」
静かな声だった。
「それでも、確かめる必要はあります」
扉に、手のひらを押し当てる。
すると、黒い表面に細い光が走った。
光は円を描き、やがて文字へ変わる。
『本人確認』
アポロンは、動きを止めた。
「……私を確認するのですか」
文字はさらに続いた。
『対象者の記憶を照合します』
その瞬間、扉の表面に映像が浮かんだ。
白い神殿。
高い天井。
広い空間の中央に、一人の男が立っている。
アポロン自身だった。
人間の姿ではない。
神として世界を創造したころの姿だった。
周囲には、数えきれないほどの光が浮かんでいる。
世界のあらゆる場所で起きている出来事。
人間の生まれる瞬間。
生きている者たちの祈り。
まだ形になっていない未来。
すべてが、彼の前に広がっていた。
そして、神殿の奥に、一人の人物が立っていた。
黒い服を着た男だった。
顔は見えない。
けれど、アポロンはその立ち姿を知っていた。
異常なホームで、列車の窓越しに見た男。
神社の境界で、彼の選択を見守っていた男。
男は、神殿の中央に立つアポロンを見ていた。
映像の中のアポロンが、男に尋ねた。
『なぜ、そこにいる』
男は答えた。
『あなたが、ここにいるからです』
『それは理由になっていない』
『そうでしょうか』
男は、わずかに顔を上げた。
『あなたが世界を見ている間、私はあなたを見ていました』
映像が揺れた。
神殿の光が、少しずつ消えていく。
未来を映していた光も、祈りを伝えていた光も、次々と暗くなっていった。
神殿の中央に立つアポロンは、静かに目を閉じた。
そして、告げた。
『私は、人間になりたい』
映像が止まった。
アポロンは、息を吐いた。
これは、彼が神だったころの記憶だ。
自分の選択を、忘れてはいない。
忘れるはずもなかった。
しかし、映像はまだ終わっていなかった。
神殿の奥にいた男が、一歩だけ前へ出た。
『それでも、戻ってきますか』
映像の中のアポロンは、答えなかった。
代わりに、扉の表面に文字が浮かび上がった。
『本人確認、継続中』
*
アポロンは、扉から手を離した。
映像は消えた。
廊下には、元どおりの静けさが戻っている。
彼は、自分の記憶を見せられたことに驚いてはいなかった。
神だったころの自分を知る者がいる。
その可能性は、すでに分かっていた。
だが、映像の中の男が何をしようとしているのか。
そして、なぜ世界が彼の帰還を求めているのか。
まだ答えは見えない。
「本人確認というのは、記憶を見せれば済む話ではないでしょう」
アポロンは、扉に向かって言った。
「私が何を選んだのか。それを、あなたは確認できているはずです」
プレートの文字が変わった。
『記憶の一致を確認』
『選択の一致を確認』
その下に、最後の項目が現れる。
『現在の意思を確認できません』
アポロンは、その文章を見つめた。
記憶は一致している。
過去の選択も一致している。
しかし、現在の意思だけが確認できない。
それは当然だった。
神だったころの自分と、今の自分は、同じ存在である。
だが、同じ存在だからといって、同じ選択をするとは限らない。
彼は、神だったころに人間になることを選んだ。
今、再び神に戻るかどうかを選ぶのは、今の自分だ。
「現在の意思なら、私自身が決めます」
アポロンは、はっきりと言った。
「あなたが確認する必要はありません」
その瞬間、扉が震えた。
プレートの文字が消え、別の文章が浮かび上がる。
『意思の確認には、本人の操作が必要です』
そして、中央に円形の印が現れた。
アポロンは、その印に手を置いた。
光が広がる。
扉が、ゆっくりと開いた。
*
扉の向こうには、神殿があった。
アポロンが創造主だったころにいた、あの神殿と同じ姿だった。
白い柱。
高い天井。
足元に広がる、鏡のような床。
そして、奥にある空席。
そこには、かつて彼が座っていた場所があった。
椅子の周囲には、世界を映す光が浮かんでいる。
アポロンは、扉の外に立ったまま、その光を見つめた。
ここに戻れば、以前と同じように世界を見渡せるのだろう。
人々の祈りも。
世界の変化も。
これから起きる出来事も。
すべてを知ることができるのかもしれない。
しかし、彼はまだ、その場所へ戻るつもりはなかった。
神殿の中央に、黒い服の男が立っていた。
今度は、映像ではない。
実際に、そこにいる。
男はアポロンを見ると、静かに口を開いた。
「ようやく、ここまで来ましたね」
「あなたが、この扉を用意したのですか」
「いいえ」
男は首を横に振った。
「私は、あなたを呼んでいません」
「では、誰が?」
「それを確かめるために、あなたはここへ来たのでしょう」
アポロンは、男を見つめた。
「あなたは、私が神に戻ることを望んでいますか」
男は、すぐには答えなかった。
やがて、空席へ目を向けた。
「私の望みと、あなたが選ぶべきことは、同じではありません」
「それは、答えになっていません」
「そうですね」
男は、わずかに笑った。
「では、こう答えましょう。あなたが神だったころなら、私はあなたに戻ってほしいと願ったでしょう」
「今は?」
「今は、あなたが何を選ぶのかを見たいと思っています」
アポロンは、男の言葉を聞きながら、神殿の奥を見た。
空席の背後には、大きな扉がある。
その扉には、世界の地図のような模様が刻まれていた。
しかし、その一部が欠けていた。
欠けた部分は、黒く塗りつぶされたように見える。
アポロンは、そこへ近づいた。
「この欠落は何ですか?」
男は、少し表情を変えた。
「……そこまで見えますか」
「答えてください」
男は、しばらく沈黙した。
「あなたが神の座を離れたことで生じた欠落です。ただし、それだけではありません」
「ほかにも原因があるのですか」
「あります」
「それは何ですか」
男は、ゆっくりと首を振った。
「私にも、すべては分かりません」
アポロンは男を見た。
この男は、すべてを知っているわけではない。
少なくとも、そう見せかけているだけではなさそうだった。
「では、あなたは何を知っているのですか」
男は、神殿の空席を見つめた。
「一つだけ、確かなことがあります」
「何でしょう」
「この席が空いていることと、世界が不安定になっていることは、同じ問題ではありません」
アポロンは、目を細めた。
「どういう意味ですか」
男は、奥の扉を指した。
「あなたが席を離れたから、世界に欠落が生じた。それは事実です。しかし、今起きている異常のすべてが、その欠落だけで説明できるわけではありません」
「つまり、別の何かが存在している」
「はい」
男は、静かに答えた。
「そして、それはあなたが神だったころから、存在していました」
アポロンは、奥の扉を見つめた。
神だったころから、存在していたもの。
自分が世界を創造し、秩序を維持していた時代にも、すでにそこにあったもの。
それなのに、自分は知らなかった。
いや、正確には、知らなかったのではない。
知るための仕組みそのものが、そこへ届いていなかったのかもしれない。
男が、アポロンに向き直った。
「あなたが人間になったことで、それが動き始めました」
「なぜですか」
「あなたが世界の基準でなくなったからです」
男は、少し間を置いた。
「今まで世界が認識できなかったものが、あなたの不在によって、世界の表面に現れ始めたのです」
アポロンは、欠けた地図を見つめた。
彼が人間になったことは、単に世界を不安定にしただけではない。
世界の中に、もともと存在していた何かを、表へ引き出した可能性がある。
そして、今もその何かが動いている。
「では、私が神に戻れば、それは消えるのですか」
男は答えなかった。
その沈黙が、答えの一部だった。
アポロンは、空席を振り返った。
戻れば、世界の秩序を再び支えられるかもしれない。
しかし、欠落の原因がそれだけではないのなら、戻ることは解決にはならない。
ただ、問題を見えなくするだけかもしれない。
「……私は、まだ戻りません」
アポロンは告げた。
「この異常の正体を確かめるまでは、決めるつもりはありません」
男は、静かに頷いた。
「そう言うと思っていました」
「なぜですか」
男は、答えなかった。
代わりに、神殿の奥で音がした。
重い扉が、ゆっくりと開き始めていた。
その向こうから、声が聞こえた。
『創造主の帰還を確認しました』
アポロンは、動きを止めた。
男の表情が、初めて明確に変わった。
驚き。
警戒。
そして、わずかな焦り。
扉の向こうから、声が続いた。
『本人確認を完了します』
『帰還者番号 001』
『黒田修一』
アポロンは、男を見た。
「黒田修一が、ここにいるのですか?」
男は、答えなかった。
扉の奥で、何かが動いた。
そして、最後の声が響いた。
『照合結果――本人と一致しません』
その瞬間、神殿全体が揺れた。
空席の周囲に浮かんでいた光が、一斉に消えた。
アポロンは、奥の扉を見つめた。
黒田修一は、帰ってきた。
しかし、本人とは認められなかった。
それならば、いったい誰が、彼を帰還者として扱っていたのだろう。
そして今、世界は何をもって、本人であると判断しようとしているのか。
その答えを知るためには、もう一度、境界の向こう側へ進む必要があった。




