第一三八章 同意しない者
翌朝、アポロンは目覚まし時計の音で目を覚ました。
窓から差し込む光は穏やかで、外からは通勤する人々の足音が聞こえてくる。
机の上の時計も、正常に動いていた。
昨夜届いたメッセージは、スマートフォンに残っている。
『帰還を成立させるには、本人の同意が必要です』
『あなたは、神に戻ることを望みますか』
アポロンは、その二つの文章を読み返した。
送信元を調べても、番号の登録情報は見つからなかった。
返信しても、相手に届く保証はない。
それでも、一つだけ確かめたいことがあった。
彼は短く入力した。
『同意しなければ、何が起きますか』
送信する。
画面には、送信済みと表示された。
返事はなかった。
アポロンはスマートフォンを置き、着替えを始めた。
返事が来るまで、何もしないわけにはいかない。
*
昼前、アポロンは美咲と待ち合わせた。
美咲は彼の顔を見ると、少し考えるような表情を浮かべた。
「何かありましたか?」
「どうして、そう思うのですか?」
「今日は、いつもより考え込んでいるように見えるので」
アポロンは、彼女の観察が正確であることに少し驚いた。
「昨日、知らない相手からメッセージが届きました」
「どんな内容ですか?」
彼は、スマートフォンの画面を見せた。
美咲は二つの文章を読み、眉を寄せた。
「神に戻ることを望みますか、ですか……」
「はい」
「アポロンさんが、神様だったということを知っている人なんでしょうか」
「その可能性があります」
「その人は、戻ってほしいんですか?」
「まだ分かりません。少なくとも、私が同意するかどうかを確認しているようです」
美咲は画面をもう一度見た。
「でも、これって少し変ですよね」
「どのように?」
「戻ってほしいなら、戻ってほしいと言えばいいのに。わざわざ同意が必要だと伝えている」
アポロンは黙って聞いていた。
「もしかしたら、その人にも、勝手には決められない理由があるのかもしれません」
美咲はスマートフォンを返した。
「もちろん、相手が本当のことを言っているとは限りませんけど」
「そうですね」
「それで、アポロンさんはどうしたいんですか?」
アポロンは、すぐには答えなかった。
神だったころ、彼は世界の秩序を維持することを当然の役割として受け入れていた。
世界が安定していること。
人々が生き続けられること。
そのために必要なことを、彼は迷わず実行できた。
しかし、今は違う。
自分が神の座を離れたことで、世界に異常が起きている。
その可能性は高い。
だが、神に戻ることが唯一の解決策なのかは、まだ分からない。
そして何より、彼は人間として生きることを、自分で選んだ。
「私は、まだ戻りたくありません」
アポロンは答えた。
美咲は驚かなかった。
「そうですか」
「ただ、世界に問題が起きているのなら、何もしないつもりもありません」
「それなら、戻らずに解決する方法を探すこともできるんじゃないでしょうか」
「できるかどうかは、分かりません」
「でも、最初から選択肢を一つに決めなくてもいいと思います」
アポロンは、彼女を見た。
「戻るか、戻らないか。それだけで考えていたのかもしれません」
「ほかにも方法があるかもしれませんから」
美咲は、少し笑った。
「それに、アポロンさんが人間になった理由も、まだ終わっていないんでしょう?」
その言葉に、アポロンは静かに頷いた。
「はい」
「だったら、まずは今の自分にできることを考えればいいと思います」
二人は、そのあと昼食を取った。
話題は、最近見つけた店や、仕事の予定に移っていった。
美咲は、特別な答えを与えたわけではない。
ただ、アポロンが見落としていた選択肢を、一つ増やしただけだった。
*
午後、アポロンのスマートフォンが震えた。
昨夜のメッセージと同じ送信元だった。
『回答を確認しました』
続いて、もう一通届いた。
『同意が得られない場合、代替手順を実行します』
アポロンは足を止めた。
『代替手順とは何ですか』
すぐに返信した。
今回は、数秒で返事が届いた。
『創造主の不在を解消するため、代替対象を確定します』
その下に、名前が表示された。
『田中亮介』
アポロンの表情が変わった。
彼はすぐに亮介へ電話をかけた。
呼び出し音が続く。
一度目は、つながらなかった。
二度目も同じだった。
アポロンは、美咲に事情を説明した。
「田中さんに連絡が取れません」
「昨日、何か変わったことがあったのでしょうか」
「今のところ、分かりません。ただ、相手は田中さんを代替対象として指定しました」
美咲の顔から笑みが消えた。
「……田中さんを、アポロンさんの代わりにするということですか?」
「その可能性があります」
「でも、田中さんは普通の人ですよね」
「はい」
「神様になれるかどうか以前に、本人が望んでいるかどうかも分かりません」
「そのとおりです」
アポロンは、もう一度電話をかけた。
今度は、つながった。
『もしもし?』
亮介の声だった。
「田中さん。今、どこにいますか?」
『家です。どうかしましたか?』
「何か変わったことはありませんか?」
『特にありませんけど……』
少し間が空いた。
『あ、そういえば、変な夢を見ました』
「どのような夢ですか?」
『駅のホームにいて、知らない人たちから名前を呼ばれるんです。誰かが、僕の席は用意されていると言っていました』
アポロンは、スマートフォンを握り直した。
「その人たちの顔は、覚えていますか?」
『よく覚えていません。ただ、一人だけ、黒い服を着た男がいました』
「その男は、何と言っていましたか?」
亮介は、しばらく黙った。
『……僕が代わりになれば、みんな帰れるって』
美咲が、息を呑んだ。
アポロンは、落ち着いた声で尋ねた。
「田中さん。その夢を見たあと、何かを決めましたか?」
『いいえ。夢のことなので、気にしていませんでした』
「今、もう一度確認します。あなたは、自分が何かの代わりになることを望んでいますか?」
『いいえ』
亮介は、はっきりと答えた。
『僕は、ただ家族と暮らしていたいだけです。何かを背負わなければならない理由も、神様になる理由もありません』
「分かりました」
アポロンは、目を閉じた。
『でも、アポロンさん。どうして、そんなことを聞くんですか?』
「説明しなければならないことがあります。直接会って話せますか?」
『はい。今からなら大丈夫です』
「では、駅前で会いましょう」
通話を終える。
美咲が、すぐに尋ねた。
「田中さんが代わりにならなければ、どうなるんでしょうか」
「まだ分かりません」
「でも、相手は田中さんの同意を確認していないんですよね」
「はい」
アポロンは、スマートフォンを見つめた。
自分が神に戻ることを拒否した。
その直後、別の人間が代替対象として指定された。
これは、単なる偶然とは考えにくい。
しかし、誰がこの手順を管理しているのか。
何のために代替対象が必要なのか。
そこは依然として分からなかった。
「美咲さん」
「はい」
「田中さんに会いに行きます。もし私が戻らなかったら、健一さんと佐藤さんにも連絡してください」
美咲は、すぐには頷かなかった。
「戻らなかったら、というのは?」
「念のためです」
「……分かりました。でも、必ず連絡してください」
「はい」
*
駅前の広場で、亮介は待っていた。
アポロンと美咲を見つけると、軽く頭を下げた。
「お待たせしました」
「いえ。急に呼び出して、すみません」
三人は、近くの喫茶店に入った。
席に着くと、アポロンはこれまでに分かったことを説明した。
異常な列車。
創造主の不在。
代替対象という記録。
そして、亮介の名前が指定されたこと。
話を聞き終えた亮介は、しばらく黙っていた。
やがて、困ったように笑った。
「つまり、僕がアポロンさんの代わりになるかもしれない、ということですか?」
「その可能性があります」
「どうして僕なんでしょう」
「理由は分かりません」
「僕は、特別な人間ではありませんよ」
「私も、あなたが特別だと考えているわけではありません」
アポロンは、言葉を選んだ。
「あなたが選ばれたことと、あなたがその役割を引き受けるべきかどうかは、別の問題です」
亮介は、少しだけ表情を緩めた。
「……そう言ってもらえると、助かります」
「あなたが同意していない以上、私は勝手に決めるつもりはありません」
「ありがとうございます」
亮介は、両手をテーブルの上に置いた。
「ただ、もし僕が断ったら、何か悪いことが起きるんでしょうか」
アポロンは、正直に答えた。
「分かりません」
「世界が壊れるとか?」
「その可能性も否定できません。しかし、あなたが引き受ければ必ず解決するという保証もありません」
亮介は深く息を吐いた。
「それなら、僕は引き受けません」
「理由を聞いてもいいですか?」
「僕が引き受けることで、本当に問題が解決するなら、考える余地はあるかもしれません。でも、今は何も分からないんですよね」
「はい」
「だったら、分からないまま同意することはできません」
亮介は、窓の外に目を向けた。
「僕には家族がいます。自分が何をするのかも分からないまま、帰れなくなるかもしれないことを引き受けるわけにはいきません」
アポロンは、頷いた。
「分かりました」
「……それで、本当にいいんですか?」
「あなたの人生です。あなたが決めることです」
亮介は、少し驚いたように彼を見た。
「世界のためでも、ですか?」
「世界のためであっても、あなたの意思を無視してよい理由にはなりません」
アポロンは、静かに続けた。
「ただし、あなたが拒否した結果、何が起きるのか。それは私も確かめなければなりません」
その瞬間、アポロンのスマートフォンが震えた。
新しいメッセージだった。
『代替対象の同意を確認できません』
続いて、画面が切り替わる。
『手順を変更します』
アポロンは、文字を見つめた。
『創造主本人の同意を再確認します』
その下に、一つの選択肢が表示された。
『同意する』
もう一つの選択肢は、なかった。
亮介が画面を覗き込んだ。
「……これでは、断ることができないじゃないですか」
美咲が言った。
「同意するかどうかを尋ねているのに、同意しないという選択肢がないんですね」
アポロンは、スマートフォンを机に置いた。
「そういうことです」
彼は画面に触れなかった。
同意しないという選択肢がないからといって、同意したことにはならない。
少なくとも、彼自身はそう考えていた。
すると、画面に新しい文字が現れた。
『回答がありません』
『回答期限まで、残り三十分』
亮介は、時計を確認した。
「三十分後に、何が起きるんでしょう」
「分かりません」
「……でも、何かが起きるんですよね」
「その可能性はあります」
アポロンは立ち上がった。
「田中さん。今日は、できるだけ一人にならないでください。美咲さん、健一さんにも連絡して、協力をお願いできますか」
「分かりました」
美咲も立ち上がった。
亮介は、不安そうな表情を浮かべながらも、頷いた。
「僕も、家族に連絡します」
「はい。何かあれば、すぐに知らせてください」
三人は店を出た。
それぞれが、できることを始めるために。
*
三十分後。
アポロンは、自宅の机に向かっていた。
スマートフォンの画面には、依然として二つの文字が表示されている。
『同意する』
回答期限まで、残り一分。
アポロンは、何も操作しなかった。
残り三十秒。
二十秒。
十秒。
画面が暗くなった。
そして、短い通知音が鳴った。
『回答期限に到達しました』
アポロンは画面を見つめた。
続いて、文字が表示された。
『同意なし』
彼は、息を吐いた。
少なくとも、勝手に同意したことにはされなかった。
しかし、次の文章を見た瞬間、その安堵は消えた。
『代替対象を確定できません』
『創造主不在の状態を維持できません』
そして、最後の一文。
『次の手順として、創造主の所在を確認します』
アポロンは立ち上がった。
部屋の時計が、一斉に止まった。
壁掛け時計。
目覚まし時計。
キッチンの時計。
すべて、十一時五十九分を指していた。
スマートフォンの画面に、見覚えのある文字が浮かぶ。
『創造主の所在を確認しました』
アポロンは、部屋の入口を見た。
廊下の先に、黒い扉が現れていた。
昨日まで、そこには何もなかった。
扉の中央には、小さなプレートが取り付けられている。
そこに刻まれていたのは、たった一つの文字だった。
『帰還』
アポロンは、扉を見つめた。
世界は、彼の同意を得られなかった。
だからといって、諦めたわけではなかった。
今度は、彼の目の前に、直接道を作ったのだ。




