第一三七章 照合対象
朝、アポロンが目を覚ますと、机の上の時計は動いていた。
十二時一分。
秒針は、規則正しく進んでいる。
昨夜、十二時を指したまま止まった時計が、いつの間にか動き始めていた。
アポロンは時計を手に取り、裏側を確認した。
『次の確認対象 アポロン』
その文字は、消えていなかった。
時計としての機能が戻ったことと、刻まれた文字が残っていること。
この二つは、別の現象なのだろう。
彼は時計を鞄に入れ、スマートフォンを確認した。
佐藤からメッセージが届いていた。
『祖父に聞いてみました。今日の夕方なら、少し話せるそうです。ただ、時計のことを詳しく話すのは嫌がっているみたいです』
アポロンは返信した。
『分かりました。話せる範囲で構いません。ありがとうございます』
送信してから、彼は窓の外を見た。
いつもの朝だった。
通勤する人々が歩き、車が道路を走り、近所の店がシャッターを開けている。
世界は、何事もなかったかのように動いている。
だが、世界の一部では、彼の名前が確認対象として登録されている。
その事実だけは、変わらなかった。
*
昼前、アポロンは健一の店に向かった。
店では、佐藤が開店準備をしていた。
「おはようございます」
「おはようございます。お祖父様の件、ありがとうございます」
「いえ。祖父も、昔の話をするのは久しぶりみたいです」
佐藤は、テーブルを拭きながら話した。
「ただ、アポロンさんに直接会うのは難しいそうです。電話ならいいと言っていました」
「それで十分です」
佐藤はスマートフォンを取り出し、祖父に連絡した。
数分後、アポロンのスマートフォンが鳴った。
知らない番号だった。
「もしもし」
『……あなたが、アポロンさんですか』
年配の男性の声だった。
「はい。佐藤さんのお祖父様でしょうか」
『そうです。孫から、時計のことを聞きました』
男性は少し間を置いた。
『その時計は、今も動いていませんか』
「昨夜、一度だけ十二時を指しました。その後、動き始めています」
電話の向こうで、息を呑む音がした。
『十二時まで進んだんですか』
「はい」
『そうですか……』
男性の声が、わずかに震えた。
『では、とうとう始まったんですね』
「何が始まったのでしょうか」
すぐには返事がなかった。
やがて、男性は尋ねた。
『あなたは、時計の裏に書かれた文字を見ましたか』
「はい」
『何と書かれていましたか』
「帰還者の照合は、まだ終わっていない。そう書かれていました」
電話の向こうで、長い沈黙が続いた。
『……やはり、同じです』
「同じ、というのは?」
『昔、私の父も、同じ文字を見たと言っていました』
アポロンは、姿勢を正した。
「お父様が、ですか」
『ええ。父は三十七年前、ある男を駅まで迎えに行きました。その男は、長い間行方不明だった知人でした』
黒田修一の件と、時期が一致している。
「その知人は、黒田修一さんですか」
『名前までは聞いていません。ただ、父はその人を知っていました。帰ってきたとき、父は喜んだそうです』
「その後、何が起きたのでしょうか」
『その男は、以前とまったく同じ姿で帰ってきました。しかし、数日後、またいなくなったんです』
「再び、行方不明になったのですか」
『そうです。父は、二度目にいなくなった理由を、最後まで話しませんでした』
男性は、少し声を落とした。
『ただ、一度だけ、こう言ったことがあります』
「何と?」
『あの人は、帰ってきたんじゃない。帰ってきたことにされたんだ、と』
アポロンは、言葉を失った。
帰ってきたことにされた。
それは、単に本人かどうか分からないという話ではない。
何者かが、帰還という結果を成立させている。
あるいは、本人が帰還したと判断されるための条件そのものを、何かが操作している。
「お父様は、その意味を説明されましたか」
『いいえ。私が尋ねても、答えてくれませんでした』
「その時計については、何かご存じですか」
『父の遺品の中に、似た時計がありました。針は十一時五十九分で止まっていました。父は、その時計を捨てないようにと言っていたんです』
「今も、お持ちでしょうか」
『……いいえ』
男性の声が曇った。
『数年前、家の整理をしているときに、なくなってしまいました。捨てた覚えはありません。どこへ行ったのかも分からないんです』
「そうですか」
『アポロンさん』
「はい」
『もし、あなたの時計が動き始めたのなら、気をつけてください』
「何に、気をつければいいのでしょうか」
男性は、答えるまでに時間をかけた。
『帰ってきた人間が、本当に帰ってきたのか。それを、簡単に信じてはいけない』
電話は、そこで切れた。
アポロンはスマートフォンを見つめた。
帰ってきたことにされた人間。
その言葉は、これまでの出来事を別の角度から照らしていた。
黒田修一は、帰還者だった。
山本千代も、同じ記録に関係していた。
そして、自分は今、次の確認対象として登録されている。
だが、誰が、何を基準に帰還を成立させているのか。
そこは、まだ分からない。
*
夕方、アポロンは佐藤とともに、祖父の家を訪ねた。
玄関で迎えてくれた男性は、電話で話した声と同じだった。
居間には、古い写真や書類が整理されていた。
男性は二人に座るよう促し、湯呑みを置いた。
「わざわざ来てもらって、すみませんね」
「こちらこそ、お時間をいただきありがとうございます」
アポロンが頭を下げると、男性は少し困ったように笑った。
「丁寧な方ですね。佐藤から聞いていた印象とは、少し違うな」
「祖父、何を話したんですか」
佐藤が尋ねる。
「お前が、妙なことに巻き込まれている人と知り合った、と言っただけだよ」
「妙なこと、ですか……」
佐藤は苦笑した。
男性は、棚から一枚の写真を取り出した。
古い駅のホームが写っていた。
現在の駅とは、建物の形が違う。
ホームの端には、何人かの人影がある。
そのうちの一人だけ、顔が不自然にぼやけていた。
「これは、父が撮った写真です」
アポロンは写真を受け取った。
「いつ撮影されたものですか」
「三十七年前だと聞いています」
「この人物は、誰でしょうか」
男性は、ぼやけた人影を指した。
「父は、帰ってきた男だと言っていました。ただ、名前は教えてくれませんでした」
「黒田修一さんの可能性はありますか」
「分かりません。父が誰を迎えに行ったのか、私も詳しくは知らないんです」
アポロンは写真を裏返した。
そこには、父親の字と思われる短い文章が書かれていた。
『到着時刻 十一時五十九分』
そして、その下には別の一文があった。
『本人確認、未完了』
アポロンは写真を見つめた。
時計の異常と同じ時刻。
本人確認という言葉。
三十七年前にも、同じ仕組みが存在していた。
「この写真の人物は、その後どうなったのでしょうか」
男性は、静かに首を振った。
「分かりません。父は、あの人を家に連れて帰ったと言っていました。でも、その後のことは、ほとんど話しませんでした」
「ご家族は、その人を知っていたのでしょうか」
「知っていたはずです。父は、昔からの知り合いだと言っていましたから」
アポロンは、写真を机に置いた。
知っている人間が帰ってきた。
顔も、声も、記憶も一致していた。
それでも、何かが違った。
その違いを、家族は感じ取っていたのかもしれない。
あるいは、何者かが、彼らに違いを認識させたのかもしれない。
どちらなのかは、まだ判断できなかった。
「もう一つ、聞いてもよろしいでしょうか」
「何でしょう」
「お父様は、帰還した人物について、何か特別なことを話していませんでしたか」
男性は、しばらく考えた。
「一度だけ、こんなことを言っていました」
「はい」
「帰ってきた人間は、必ずしも、帰りたいと思っているわけではない、と」
アポロンは顔を上げた。
「それは、どういう意味でしょうか」
「私にも分かりません。ただ、父は、その言葉を何度も繰り返していました」
男性は、窓の外に目を向けた。
「もしかすると、帰ってきた本人は、帰りたくなかったのかもしれません」
帰りたくなかった。
アポロンは、その言葉を心の中で繰り返した。
異常な列車には、「創造主専用」と書かれていた。
車内には、自分の席が用意されていた。
そして、放送は、終点まで乗るよう告げていた。
世界は、自分を元の場所へ戻そうとしているのかもしれない。
だが、それは、彼自身が望んでいることではなかった。
「お話しいただき、ありがとうございました」
アポロンは頭を下げた。
男性は、少し迷ったあと、尋ねた。
「アポロンさん。あなたも、帰還者なのですか」
アポロンは、すぐには答えなかった。
神だったころの彼は、世界の中心にいた。
人間になった今、世界は彼を照合できない存在として扱っている。
それならば、自分は帰還者なのだろうか。
それとも、帰還という仕組みそのものが、自分を対象にしているのだろうか。
「……まだ、分かりません」
男性は、その答えを聞いて、静かに頷いた。
「そうですか」
彼は、それ以上尋ねなかった。
*
帰り道、佐藤はしばらく黙って歩いていた。
やがて、ぽつりと言った。
「アポロンさん」
「はい」
「もし、自分が自分じゃないかもしれないって言われたら、どうしますか?」
アポロンは、彼を見た。
「佐藤さんは、どうしたいですか?」
「僕ですか?」
「はい」
佐藤は少し考えた。
「……たぶん、家に帰ります。家族に会って、普通に話して、それから考えます」
「なぜですか?」
「だって、誰かに違うと言われたからって、すぐに自分が変わったことにはならないじゃないですか」
佐藤は、少し照れたように笑った。
「もちろん、本当に何か変わっていたら、困りますけど」
アポロンは、静かに頷いた。
「そうですね」
佐藤の答えは、何かを証明するものではない。
しかし、本人の感覚も、周囲の認識も、どちらか一方だけで結論を出すべきではないということを、改めて示していた。
「今日はありがとうございました」
アポロンが言うと、佐藤は手を振った。
「いえ。僕も気になっていたので」
二人は駅で別れた。
*
夜、アポロンは帰宅すると、机の上の時計を確認した。
針は、動いていた。
十二時四十七分。
裏側の文字も、消えている。
しかし、時計を持ち上げた瞬間、スマートフォンに通知が表示された。
知らない番号からのメッセージだった。
本文は、短かった。
『あなたは、まだ帰っていない』
アポロンは画面を見つめた。
続けて、もう一通届いた。
『帰還を成立させるには、本人の同意が必要です』
そして、最後の一通。
『あなたは、神に戻ることを望みますか』
アポロンは、ゆっくりとスマートフォンを下ろした。
世界は、彼の帰還を求めている。
しかし、今度は、ただ元の場所へ戻そうとしているだけではないらしい。
何かの条件を確認しようとしている。
本人の同意。
その言葉が、彼の心に残った。
もし、神に戻ることが、世界を安定させるための条件だとしたら。
もし、彼が拒否すれば、異常がさらに広がるのだとしたら。
それでも、彼は自分の選択を変えるべきなのだろうか。
アポロンは、スマートフォンの画面を閉じた。
答えを急ぐつもりはなかった。
彼が人間になったのは、誰かに命じられたからではない。
自分で選んだからだ。
ならば、元に戻るかどうかも、他者に決めさせることはできない。
机の上で、時計が一度だけ音を立てた。
針は、十二時四十八分を指していた。
そのまま、動き続けている。
アポロンは、窓の外を見た。
明日、何が起きるのかは分からない。
しかし、今の彼には、その分からなさを誰かに取り上げられたくないという気持ちがあった。




