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神様は、明日を知らない』 ――全知全能の神が、人間になった理由――  作者: 亀


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第一三六章 本人確認

時計の針は、十一時五十九分で止まっていた。


アポロンは、しばらく時計を見つめていた。


裏側に刻まれた文字は、消えていない。


『帰還者の照合は、まだ終わっていない』


時計の電池を取り外してみる。


文字は残ったままだった。


電池を戻しても、針は動かない。


「……なるほど」


アポロンは時計を机に置いた。


壊れた時計を直すこと自体は難しくない。


だが、今回の現象は、時計の故障ではなさそうだった。


彼は部屋の中を見渡した。


壁掛け時計は、正常に動いている。


スマートフォンの時刻も正確だった。


止まっているのは、机の上の時計だけ。


そして、その時計に刻まれた文章は、異常なホームで見た記録と一致していた。


世界は、帰還者の照合を続けている。


その言葉を文字どおりに受け取るなら、今日の出来事は終わっていない。


むしろ、アポロンが境界から戻ってきたことで、何かが次の段階に進んだ可能性がある。


彼はスマートフォンを手に取り、亮介とのメッセージを開いた。


『無事に帰れました。妻も、いつもどおりでした。今のところ、特に変わったことはありません』


その文章を読み返す。


亮介は帰宅できた。


家族との関係も、今のところ変わっていない。


ならば、照合が終わっていないというのは、何を意味するのか。


本人を確認するための作業が続いているのか。


それとも、本人であるかどうかを判断するための条件が、まだ満たされていないのか。


アポロンはノートを開いた。


『帰還者の照合は、まだ終わっていない』


その下に、もう一つ書き加える。


『照合の完了条件は不明』


書き終えたところで、スマートフォンが震えた。


美咲からだった。


『もう家に着きましたか?』


アポロンは返信した。


『はい。少し調べたいことがありますが、今日はもう休みます』


すぐに返事が届いた。


『分かりました。無理しないでくださいね』


アポロンは画面を閉じた。


今夜、できることは限られている。


焦って答えを出す必要はなかった。


ただし、明日になればすべてが元どおりになると考える理由もなかった。


          *


翌朝。


アポロンは、いつもより早く目を覚ました。


机の上の時計は、依然として十一時五十九分を指していた。


しかし、裏側の文字が変わっていた。


『対象者の状態を確認してください』


彼は時計を裏返したまま、しばらく考えた。


命令なのか。


警告なのか。


あるいは、単なる記録なのか。


この世界の異常は、人間に言葉を見せる。


けれど、言葉が表示されたからといって、それが必ず命令だとは限らない。


アポロンは時計を鞄に入れ、家を出た。


最初に向かったのは、昨日の駅だった。


駅員に確認したところ、南町駅という駅は確かに存在していた。


しかし、昨日乗った電車の経路を調べても、あの場所から南町駅へ直接移動できる路線は見つからなかった。


駅員の記録にも、異常な列車の運行履歴はない。


それ自体は、予想していた結果だった。


彼が確認したかったのは、別のことだった。


「昨日、改札を通った際の記録を確認できますか?」


駅員は困ったように眉を下げた。


「申し訳ありません。一般のお客様に、個別の通行記録をお見せすることはできないんです」


「そうですか。では、記録が残っているかどうかだけでも分かりませんか?」


「少々お待ちください」


駅員は端末を操作した。


しばらくして、首を傾げた。


「おかしいですね……」


「何かありましたか?」


「昨日の時間帯、改札の通過人数と、実際の入出場記録に差があるんです」


「差、ですか?」


「はい。一人分だけ、入場した記録があるのに、退場した記録がありません」


アポロンは、駅員を見た。


「それは、どの改札ですか?」


「中央改札です」


昨日、彼が亮介と通った場所だった。


「その人は、今も駅の中にいることになっているのでしょうか?」


「システム上は、そうなります。ただ、実際に駅構内を確認しても、該当する人はいませんでした」


駅員は画面を見ながら続けた。


「それに、この記録……」


「何でしょう?」


「入場時刻が、昨日ではないんです」


「では、いつですか?」


駅員は画面を拡大した。


「三十七年前の日付になっています」


アポロンは黙った。


三十七年前。


黒田修一が消えた時期と一致する。


「その記録は、誰のものですか?」


「氏名欄は空白です。ただ、記録番号だけは残っています」


駅員が画面を見せてくれた。


数字の並びの最後に、奇妙な文字があった。


『帰還者番号 001』


アポロンは、その番号を覚えた。


「ありがとうございます。お手数をおかけしました」


駅員に礼を述べ、駅を出る。


記録が残っていたことは重要だった。


しかし、三十七年前の記録が昨日の通行と結びついている理由は、まだ分からない。


単なるシステムの不具合なのか。


それとも、異常な場所では時間そのものが、通常とは異なる形で扱われているのか。


アポロンは、歩きながら時計を取り出した。


裏側の文字は、また変わっていた。


『対象者の確認を開始します』


彼は足を止めた。


時計の表側を見る。


針は、十一時五十九分のままだった。


          *


昼前、アポロンは健一の店を訪れた。


店内は、昼食を取る客で賑わっていた。


健一は調理場から顔を出すと、アポロンを見るなり声をかけた。


「おう。今日は早いな」


「少し、確認したいことがありまして」


「仕事の話か?」


「それとは別のことです」


健一は、アポロンの表情を見て、冗談を引っ込めた。


「何かあったのか?」


「昨日、田中さんを連れて、異常な場所から戻ってきました」


「田中って、あの美咲ちゃんの知り合いか?」


「はい。彼は無事に帰宅しました」


「それならよかった。……でも、何か残ってるんだな?」


アポロンは鞄から時計を取り出した。


「この時計を見てください」


健一は時計を受け取り、表裏を確認した。


「十一時五十九分で止まってるな。電池切れか?」


「電池を交換しても動きません」


「修理に出したのか?」


「まだです」


健一は時計の裏側を見た。


そこに刻まれた文字を読んで、眉を寄せた。


「帰還者の照合……何だ、これ」


「分かりません。ただ、異常な場所で見た記録と関係があるようです」


健一は時計を返した。


「俺には仕組みは分からない。でも、何が起きたかを忘れないように、記録は残しておいたほうがいい」


「私も、そう思います」


「あと、田中さんには無理をさせるなよ。怖い思いをしたばかりだろう」


「はい。本人にも、できる範囲で構わないと伝えています」


健一は頷き、調理場へ戻ろうとした。


そのとき、店の入口から佐藤が入ってきた。


「お疲れさまです。すみません、少し遅れました」


「おう、着替えてこい」


健一が答える。


佐藤はアポロンに気づき、軽く会釈した。


「おはようございます」


「おはようございます」


佐藤は更衣室へ向かいかけたが、ふと足を止めた。


「……あれ?」


「どうしましたか?」


佐藤は、アポロンの手元にある時計を見た。


「その時計、どこかで見たことがあります」


アポロンの表情が変わった。


「どこで見ましたか?」


「確か、祖父の家です。昔から、同じような時計が置いてありました」


「同じような、というのは?」


「銀色で、少し古いやつです。針が十一時五十九分で止まっていて……」


佐藤はそこまで話して、言葉を切った。


「でも、祖父はその時計を、ずっと前に処分したと言っていました」


「その時計について、ほかに何か聞いたことはありませんか?」


佐藤は考え込んだ。


「一度、祖父に聞いたことがあります。どうして動かない時計を捨てないのかって」


「それで?」


「『あれは、帰ってきた人間の時計だから』って言っていました」


店の空気が、わずかに変わった。


健一も、調理場から顔を出していた。


「帰ってきた人間?」


佐藤は困惑した表情で頷いた。


「はい。でも、どういう意味なのかは教えてくれませんでした。祖父は、あまり昔のことを話したがらない人なので」


アポロンは、時計を見つめた。


黒田修一の腕時計。


山本千代が持っていた時計。


そして、佐藤の祖父の家にあった時計。


これらは、同じ現象に関係している可能性がある。


「佐藤さん。そのお祖父様に、話を聞くことはできますか?」


佐藤は少しためらった。


「聞くだけなら、できると思います。でも、何を聞けばいいんでしょう?」


「その時計を、どこで手に入れたのか。それから、帰ってきた人間という言葉が何を意味していたのか」


「分かりました。連絡してみます」


「ありがとうございます」


佐藤は頷き、更衣室へ向かった。


健一がアポロンの隣に来た。


「偶然にしては、つながりが多いな」


「はい」


「でも、まだ決めつけるなよ」


「分かっています」


「聞けることを聞いて、分かったことを整理する。それでいいんじゃないか」


アポロンは、静かに頷いた。


今の彼に必要なのは、すべてを知ったことにすることではない。


断片を集め、確かめ、間違っていれば修正することだった。


          *


夕方、アポロンは美咲と会った。


駅前の喫茶店で待ち合わせ、向かい合って座る。


美咲は、彼の顔を見ると少し安心したように微笑んだ。


「昨日は、本当に心配したんですよ」


「すみません」


「無事なら、それでいいです。でも、連絡が取れないと、何かあったのかと思いますから」


「次からは、できるだけ連絡します」


美咲は頷いた。


それから、テーブルの上に置かれた時計に気づいた。


「それ、どうしたんですか?」


「異常な場所から戻ってきたあと、止まってしまいました」


「直せないんですか?」


「時計としての故障なのかどうかも、分かりません」


美咲は時計を手に取った。


裏側の文字を読み、少し考えた。


「帰還者の照合……」


「はい」


「これって、誰かが帰ってきたかどうかを確認している、という意味なんでしょうか」


「その可能性があります」


美咲は時計を机に戻した。


「でも、帰ってきたかどうかを確認する必要があるって、どういうことなんでしょう」


「私にも、まだ分かりません」


美咲は、アポロンを見た。


「アポロンさんは、どうしたいんですか?」


彼はすぐには答えなかった。


この異常を調べることはできる。


黒田修一や山本千代が、どのような経験をしたのかを知ることもできるかもしれない。


しかし、調べ続ければ、また自分が境界の中へ入ることになる可能性がある。


そのとき、今度も無事に戻れるとは限らない。


それでも、放置することはできなかった。


「この異常が、何をしようとしているのかを知りたいと思っています」


「どうしてですか?」


「私が人間になったことと、関係しているようだからです」


美咲は、黙って聞いていた。


「私がいなくなったことで、世界に何らかの変化が起きている。その可能性があります」


「それを、元に戻したいんですか?」


「まずは、何が起きているのかを知りたいです。元に戻すべきものなのか、それとも別の方法があるのか。それを決めるのは、そのあとだと思います」


美咲は少し考えた。


「分かりました」


それから、彼女は言葉を続けた。


「ただ、一つだけ約束してほしいです」


「何でしょう?」


「一人で何もかも解決しようとしないでください」


アポロンは、美咲を見た。


「……分かりました」


「本当に?」


「はい。分からないことは、誰かに相談します」


美咲は、ようやく笑った。


「それなら、いいです」


二人は、そのあと夕食を食べた。


異常の話だけを続けることはしなかった。


美咲は仕事で起きた小さな失敗について話し、アポロンは健一の店で佐藤が話してくれたことを伝えた。


食事が終わるころには、外は暗くなっていた。


別れ際、美咲が言った。


「また、何か分かったら教えてくださいね」


「はい」


「私にも、できることがあるかもしれませんから」


アポロンは頷いた。


彼女にすべてを任せるつもりはない。


しかし、自分だけですべてを抱え込む必要もない。


その違いを、今は理解できるようになっていた。


          *


帰宅後、アポロンは机の上の時計を確認した。


針は、十一時五十九分。


変わっていない。


彼はノートを開き、今日の出来事を整理した。


駅の記録。


帰還者番号。


佐藤の祖父が知っている時計。


そして、美咲との約束。


書き終えたところで、時計の裏側に変化が起きた。


刻まれていた文字が、ゆっくりと消えていく。


代わりに、新しい文章が現れた。


『対象者の確認が完了しました』


アポロンは、時計を手に取った。


その下には、もう一行あった。


『帰還者番号 001――黒田修一』


彼は、息を止めた。


三十七年前の記録。


本人と一致しないという家族の証言。


帰ってきた人間の時計。


それらが、今になって一つにつながり始めている。


さらに、文字が浮かび上がった。


『次の確認対象』


その下には、名前が一つだけ表示されていた。


『アポロン』


時計の針が、一度だけ動いた。


十一時五十九分から、十二時へ。


そして、再び止まった。


今度は、裏側の文字も消えなかった。


アポロンは時計を机に戻した。


世界は、黒田修一の確認を終えた。


そして、次に自分を確認しようとしている。


彼が神であったころ、世界にとって、彼が誰であるかを確かめる必要はなかった。


彼自身が、その世界の基準だったからだ。


しかし、今は違う。


世界は、彼を一人の対象として扱い始めている。


それが何を意味するのか。


答えは、まだ出ていなかった。

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