↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
神様は、明日を知らない』 ――全知全能の神が、人間になった理由――  作者: 亀


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

135/290

第一三五章 帰るための条件

列車が消えたあとも、アポロンはしばらくホームに立っていた。


頭上の時計は、十二時三分を指している。


線路の向こうには、暗いトンネルが残っていた。


先ほどまで存在していた奇妙な列車も、車内に座っていた黒田修一も、山本千代も、もう見えない。


「……本当に、行ってしまったんですね」


田中亮介が呟いた。


「はい」


「僕たちは、どうすればいいんでしょう」


アポロンは周囲を見渡した。


列車が走り去ったあと、ホームには変化が起きていた。


反対側に、階段が現れている。


先ほどまでは存在しなかった階段だった。


その上には、駅の出口を示す案内板がある。


ただし、駅名の部分だけが空白になっていた。


「まずは、あそこへ行ってみましょう」


「出口でしょうか?」


「そう見えます」


「もし、違ったら?」


「そのときは、戻ってきます」


亮介は少し困ったように笑った。


「アポロンさんって、意外と行き当たりばったりなんですね」


「そうでしょうか」


「はい。もっと、何でも分かっている人なのかと思っていました」


アポロンは、階段へ向かいながら答えた。


「以前は、そうだったのかもしれません」


亮介は、その返事に首を傾げた。


けれど、深く尋ねることはなかった。


二人は階段を上り始めた。


          *


階段の先には、小さな改札があった。


自動改札機が三台並んでいる。


その向こうには、駅員室らしき部屋が見えた。


窓口には誰もいない。


アポロンが改札へ近づくと、中央の機械だけが音を立てた。


ピッ。


表示板に文字が浮かぶ。


『通行者を確認してください』


続いて、二つの名前が表示された。


『田中亮介』


『アポロン』


その下には、それぞれ異なる表示があった。


田中亮介――照合中。


アポロン――照合不能。


亮介が画面を覗き込んだ。


「僕の名前があります」


「はい」


「照合中って、どういう意味でしょう」


「まだ、本人だと確認されていないということでしょうか」


「そんなこと、あるんですか?」


「少なくとも、ここではあるようです」


アポロンは改札機に手を触れた。


「通行を許可する」


命令は届かなかった。


表示は変わらない。


彼は少し考え、今度は改札機の内部を調べようとした。


機械の構造は理解できる。


センサーも、基板も、通信機構も、特別なものではない。


しかし、画面に表示されている「照合」の仕組みだけが、認識できなかった。


通常の機械が行う本人確認とは違う。


何を基準に、誰を確認しようとしているのか。


その部分だけが、世界の仕組みから切り離されているようだった。


「田中さん。試しに、改札を通ってみてください」


「えっ。大丈夫でしょうか?」


「何か起きたら、すぐに止めます」


亮介は少しためらったあと、改札の前に立った。


その瞬間、機械が再び音を立てた。


ピッ。


『照合中』


亮介が一歩進む。


改札の扉が開いた。


しかし、彼が通り抜ける直前、表示が切り替わった。


『本人確認に失敗しました』


扉が閉まる。


亮介は慌てて足を引いた。


「危なかった……」


「足は大丈夫ですか?」


「はい。でも、今のは何だったんでしょう」


アポロンは表示を確認した。


『本人確認に失敗しました』


そして、その下に新しい文章が現れていた。


『帰還者との一致率、七十二パーセント』


アポロンは目を細めた。


「田中さん。あなたは、ここへ来る前と、何か変わったことはありませんか?」


「変わったこと?」


「身体の感覚や、記憶などです。何でも構いません」


亮介は、自分の手を見た。


「……少し、変な感じはします」


「どのように?」


「自分の手なのに、少しだけ、借り物みたいな感じがするんです」


彼は指を曲げたり、開いたりした。


「でも、動かせます。痛みもありますし、感覚もあります」


「ここへ来る前は?」


「普通でした」


アポロンは、改札機を見た。


帰還者との一致率。


その言葉が正しいなら、亮介は、ここへ来る前と同じ状態ではないのかもしれない。


しかし、本人がそう感じているからといって、身体そのものが変化したとは限らない。


疲労や恐怖による感覚の変化もあり得る。


「田中さん。もう一度、試してみましょう」


「またですか?」


「今度は、私が先に通ります」


アポロンは改札の前に立った。


表示が切り替わる。


『アポロン』


『照合不能』


彼は、一歩踏み出した。


改札の扉は閉じなかった。


そのまま通り抜けることができた。


亮介が驚いた。


「えっ、通れたんですか?」


「はい」


「どうして……」


アポロンは振り返った。


「私には、本人確認という仕組みが適用されていないのかもしれません」


「それって、通れているのに、本人だと認められていないということですか?」


「そういうことになります」


亮介は、改札機の表示を見た。


『照合不能』


その文字は、彼が通り抜けたあとも変わらなかった。


アポロンは改札の向こう側から、亮介に手を差し出した。


「田中さん。こちらへ」


亮介は、ゆっくりと近づいた。


「でも、さっきは通れませんでした」


「私が手を貸します」


「それで、通れるんでしょうか?」


「試してみなければ分かりません」


亮介は、アポロンの手を取った。


アポロンが引くと、亮介の身体が改札の向こう側へ移動した。


扉は閉じなかった。


二人は、無事に通り抜けた。


その瞬間、背後で機械が音を立てた。


ピッ。


『通行を確認』


亮介が振り返った。


「……通れました」


「はい」


「アポロンさんが一緒だったからでしょうか」


「その可能性はあります」


亮介は、自分の手を見た。


「僕自身が、本人だと確認されていないのに?」


「そうですね」


アポロンは、改札の表示を見つめた。


世界は、彼を照合できない。


しかし、彼と一緒にいる人間は、通行できる。


これは偶然なのか。


それとも、創造主である彼が近くにいることで、照合の仕組みが変化しているのか。


まだ判断できない。


ただ、これまでの現象とは異なる手がかりだった。


          *


改札の向こうには、駅員室があった。


アポロンが扉を開けると、中には一人の駅員が座っていた。


制服を着た中年の男性だった。


机の上には書類が積まれ、壁には路線図が掛かっている。


駅員は二人を見ると、驚いたように立ち上がった。


「お客様、どこから入られたんですか?」


「ホームからです」


アポロンが答えた。


「ホーム?」


駅員は窓の外を見た。


そこには、普通の駅のホームが広がっていた。


電車が停車し、乗客が乗り降りしている。


アポロンは窓の外を確認した。


先ほどまで存在していた異常なホームは、もう見えない。


「ここは、どこの駅でしょうか?」


駅員は不思議そうな顔をした。


「ここは、南町駅ですが……」


アポロンは、駅名を聞いたことがなかった。


亮介も同じようだった。


「すみません。少し、確認したいことがあります」


アポロンは駅員に事情を説明しようとした。


しかし、どこから話せばいいのか分からなかった。


異常な通路。


存在しない列車。


照合できない人間。


それらを説明したところで、信じてもらえるとは限らない。


「私たちは、少し前まで、別の場所にいました。そこから、ここへ来たのです」


駅員は、二人を見比べた。


「……迷子ですか?」


亮介が思わず吹き出した。


「まあ、そんなところです」


「そうですか。駅構内で迷われたのでしたら、案内しますよ」


駅員は親切に言った。


「どちらへ向かわれますか?」


亮介は、アポロンを見た。


アポロンは少し考えた。


「大阪市内へ戻りたいのですが」


「それでしたら、次の電車に乗れば戻れます」


駅員は時刻表を確認した。


「あと五分ほどで到着します」


「ありがとうございます」


二人は礼を述べ、駅員室を出た。


ホームには、普通の乗客がいた。


学生がスマートフォンを見ている。


会社員が時計を確認している。


高齢の女性が、買い物袋を持ってベンチに座っていた。


誰も、先ほどの異常を覚えていないようだった。


亮介は、ベンチに座り込んだ。


「……戻ってこられたんですね」


「そうですね」


「本当に、戻ってこられたんだ」


彼は何度も周囲を見回した。


そして、深く息を吐いた。


「家に帰れるんですね」


その声には、安堵があった。


アポロンは、彼の隣に座った。


「はい。帰りましょう」


亮介は頷いた。


しばらくして、電車が到着した。


二人は乗り込み、空いている座席に座った。


窓の外では、駅のホームがゆっくりと後ろへ流れていく。


亮介は、窓に映る自分の顔を見つめていた。


「アポロンさん」


「はい」


「さっき、改札で本人確認に失敗したじゃないですか」


「はい」


「僕は、本当に僕なんでしょうか」


アポロンは、彼を見た。


「あなたは、自分が別人になったと思うのですか?」


「分かりません。でも、あの表示を見てから、少し気になってしまって」


亮介は、自分の手を握った。


「家に帰って、妻が僕を見たとき、いつもどおりに接してくれるかどうか。それが、急に怖くなったんです」


アポロンは、すぐには答えなかった。


本人であるかどうか。


それは、身体や記憶だけで決まるものなのだろうか。


三十七年前、黒田修一は帰ってきた。


顔も、声も、記憶も同じだった。


それでも、家族は彼を本人だと認めなかった。


そして今、亮介もまた、自分が自分であることに疑問を抱き始めている。


「田中さん」


「はい」


「あなたが、あなたであるかどうかを、私が決めることはできません」


亮介は、静かに彼を見た。


「ですが、あなたがこれまで誰と過ごし、何を考え、どんな選択をしてきたのか。それらが、すべて消えたわけではありません」


「……はい」


「帰ったら、まずは普段どおりに過ごしてみてください。何か変わったことがあれば、そのときに考えましょう」


亮介は、しばらく黙っていた。


やがて、頷いた。


「そうですね。まだ、何も起きていないのに、先に心配しても仕方ないですよね」


「そう思います」


亮介は、少し笑った。


「ありがとうございます」


          *


大阪市内に戻ったあと、アポロンは亮介を自宅の近くまで送った。


別れ際、亮介は何度も礼を述べた。


「今日は、本当にありがとうございました」


「無事に帰れてよかったです」


「会社の時計のことは、確認してみます。何か分かったら連絡します」


「無理はしないでください」


「はい」


亮介は頭を下げ、マンションの入口へ歩いていった。


その姿が見えなくなるまで、アポロンは見送っていた。


やがて、スマートフォンを取り出す。


美咲から、何件かメッセージが届いていた。


『今、どこにいるの?』


『連絡がないから、少し心配しています』


『無事なら、短くてもいいから返信してね』


アポロンは、すぐに返信した。


『遅くなってすみません。無事です。今から帰ります』


送信して、しばらく待つ。


やがて返事が届いた。


『分かりました。気をつけて帰ってきてください』


アポロンは画面を見つめた。


その短い文章を読んだとき、胸の奥に、わずかな温かさが生まれた。


誰かが、自分の帰りを待っている。


それは、神だったころには知らなかった感覚だった。


そして今、彼はその感覚を失いたくないと思っている。


          *


帰宅したあと、アポロンは机に向かった。


ノートを開き、今日の出来事を記録する。


異常なホーム。


照合不能の表示。


亮介の通行を認めた改札。


そして、列車に残されていた紙。


彼は、最後に一つの文章を書き加えた。


『世界は、人間が本人であることを確認しようとしている。しかし、その基準が何なのかは分からない』


ペンを置いた。


しばらくして、スマートフォンが震えた。


亮介からだった。


『無事に帰れました。妻も、いつもどおりでした。今のところ、特に変わったことはありません』


アポロンは、短く返信した。


『よかったです。今日はゆっくり休んでください』


それから、ノートを閉じようとした。


その瞬間、机の上に置いていた時計が止まった。


十一時五十九分。


アポロンは、動かなくなった針を見つめた。


異常なホームから戻ってきたあと、時計は正常に動いていたはずだった。


なぜ、今になって止まったのか。


彼は時計を手に取った。


その裏側に、小さな文字が刻まれていることに気づいた。


今まで、そこには何もなかった。


文字は、短い一文だった。


『帰還者の照合は、まだ終わっていない』


アポロンは、時計を机に戻した。


亮介は無事に帰った。


家族も、彼を本人として受け入れた。


それでも、異常は終わっていない。


本人であることを確認する仕組みは、まだ動き続けている。


そして今、その仕組みは、アポロンのすぐそばにまで届いていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。