第一三五章 帰るための条件
列車が消えたあとも、アポロンはしばらくホームに立っていた。
頭上の時計は、十二時三分を指している。
線路の向こうには、暗いトンネルが残っていた。
先ほどまで存在していた奇妙な列車も、車内に座っていた黒田修一も、山本千代も、もう見えない。
「……本当に、行ってしまったんですね」
田中亮介が呟いた。
「はい」
「僕たちは、どうすればいいんでしょう」
アポロンは周囲を見渡した。
列車が走り去ったあと、ホームには変化が起きていた。
反対側に、階段が現れている。
先ほどまでは存在しなかった階段だった。
その上には、駅の出口を示す案内板がある。
ただし、駅名の部分だけが空白になっていた。
「まずは、あそこへ行ってみましょう」
「出口でしょうか?」
「そう見えます」
「もし、違ったら?」
「そのときは、戻ってきます」
亮介は少し困ったように笑った。
「アポロンさんって、意外と行き当たりばったりなんですね」
「そうでしょうか」
「はい。もっと、何でも分かっている人なのかと思っていました」
アポロンは、階段へ向かいながら答えた。
「以前は、そうだったのかもしれません」
亮介は、その返事に首を傾げた。
けれど、深く尋ねることはなかった。
二人は階段を上り始めた。
*
階段の先には、小さな改札があった。
自動改札機が三台並んでいる。
その向こうには、駅員室らしき部屋が見えた。
窓口には誰もいない。
アポロンが改札へ近づくと、中央の機械だけが音を立てた。
ピッ。
表示板に文字が浮かぶ。
『通行者を確認してください』
続いて、二つの名前が表示された。
『田中亮介』
『アポロン』
その下には、それぞれ異なる表示があった。
田中亮介――照合中。
アポロン――照合不能。
亮介が画面を覗き込んだ。
「僕の名前があります」
「はい」
「照合中って、どういう意味でしょう」
「まだ、本人だと確認されていないということでしょうか」
「そんなこと、あるんですか?」
「少なくとも、ここではあるようです」
アポロンは改札機に手を触れた。
「通行を許可する」
命令は届かなかった。
表示は変わらない。
彼は少し考え、今度は改札機の内部を調べようとした。
機械の構造は理解できる。
センサーも、基板も、通信機構も、特別なものではない。
しかし、画面に表示されている「照合」の仕組みだけが、認識できなかった。
通常の機械が行う本人確認とは違う。
何を基準に、誰を確認しようとしているのか。
その部分だけが、世界の仕組みから切り離されているようだった。
「田中さん。試しに、改札を通ってみてください」
「えっ。大丈夫でしょうか?」
「何か起きたら、すぐに止めます」
亮介は少しためらったあと、改札の前に立った。
その瞬間、機械が再び音を立てた。
ピッ。
『照合中』
亮介が一歩進む。
改札の扉が開いた。
しかし、彼が通り抜ける直前、表示が切り替わった。
『本人確認に失敗しました』
扉が閉まる。
亮介は慌てて足を引いた。
「危なかった……」
「足は大丈夫ですか?」
「はい。でも、今のは何だったんでしょう」
アポロンは表示を確認した。
『本人確認に失敗しました』
そして、その下に新しい文章が現れていた。
『帰還者との一致率、七十二パーセント』
アポロンは目を細めた。
「田中さん。あなたは、ここへ来る前と、何か変わったことはありませんか?」
「変わったこと?」
「身体の感覚や、記憶などです。何でも構いません」
亮介は、自分の手を見た。
「……少し、変な感じはします」
「どのように?」
「自分の手なのに、少しだけ、借り物みたいな感じがするんです」
彼は指を曲げたり、開いたりした。
「でも、動かせます。痛みもありますし、感覚もあります」
「ここへ来る前は?」
「普通でした」
アポロンは、改札機を見た。
帰還者との一致率。
その言葉が正しいなら、亮介は、ここへ来る前と同じ状態ではないのかもしれない。
しかし、本人がそう感じているからといって、身体そのものが変化したとは限らない。
疲労や恐怖による感覚の変化もあり得る。
「田中さん。もう一度、試してみましょう」
「またですか?」
「今度は、私が先に通ります」
アポロンは改札の前に立った。
表示が切り替わる。
『アポロン』
『照合不能』
彼は、一歩踏み出した。
改札の扉は閉じなかった。
そのまま通り抜けることができた。
亮介が驚いた。
「えっ、通れたんですか?」
「はい」
「どうして……」
アポロンは振り返った。
「私には、本人確認という仕組みが適用されていないのかもしれません」
「それって、通れているのに、本人だと認められていないということですか?」
「そういうことになります」
亮介は、改札機の表示を見た。
『照合不能』
その文字は、彼が通り抜けたあとも変わらなかった。
アポロンは改札の向こう側から、亮介に手を差し出した。
「田中さん。こちらへ」
亮介は、ゆっくりと近づいた。
「でも、さっきは通れませんでした」
「私が手を貸します」
「それで、通れるんでしょうか?」
「試してみなければ分かりません」
亮介は、アポロンの手を取った。
アポロンが引くと、亮介の身体が改札の向こう側へ移動した。
扉は閉じなかった。
二人は、無事に通り抜けた。
その瞬間、背後で機械が音を立てた。
ピッ。
『通行を確認』
亮介が振り返った。
「……通れました」
「はい」
「アポロンさんが一緒だったからでしょうか」
「その可能性はあります」
亮介は、自分の手を見た。
「僕自身が、本人だと確認されていないのに?」
「そうですね」
アポロンは、改札の表示を見つめた。
世界は、彼を照合できない。
しかし、彼と一緒にいる人間は、通行できる。
これは偶然なのか。
それとも、創造主である彼が近くにいることで、照合の仕組みが変化しているのか。
まだ判断できない。
ただ、これまでの現象とは異なる手がかりだった。
*
改札の向こうには、駅員室があった。
アポロンが扉を開けると、中には一人の駅員が座っていた。
制服を着た中年の男性だった。
机の上には書類が積まれ、壁には路線図が掛かっている。
駅員は二人を見ると、驚いたように立ち上がった。
「お客様、どこから入られたんですか?」
「ホームからです」
アポロンが答えた。
「ホーム?」
駅員は窓の外を見た。
そこには、普通の駅のホームが広がっていた。
電車が停車し、乗客が乗り降りしている。
アポロンは窓の外を確認した。
先ほどまで存在していた異常なホームは、もう見えない。
「ここは、どこの駅でしょうか?」
駅員は不思議そうな顔をした。
「ここは、南町駅ですが……」
アポロンは、駅名を聞いたことがなかった。
亮介も同じようだった。
「すみません。少し、確認したいことがあります」
アポロンは駅員に事情を説明しようとした。
しかし、どこから話せばいいのか分からなかった。
異常な通路。
存在しない列車。
照合できない人間。
それらを説明したところで、信じてもらえるとは限らない。
「私たちは、少し前まで、別の場所にいました。そこから、ここへ来たのです」
駅員は、二人を見比べた。
「……迷子ですか?」
亮介が思わず吹き出した。
「まあ、そんなところです」
「そうですか。駅構内で迷われたのでしたら、案内しますよ」
駅員は親切に言った。
「どちらへ向かわれますか?」
亮介は、アポロンを見た。
アポロンは少し考えた。
「大阪市内へ戻りたいのですが」
「それでしたら、次の電車に乗れば戻れます」
駅員は時刻表を確認した。
「あと五分ほどで到着します」
「ありがとうございます」
二人は礼を述べ、駅員室を出た。
ホームには、普通の乗客がいた。
学生がスマートフォンを見ている。
会社員が時計を確認している。
高齢の女性が、買い物袋を持ってベンチに座っていた。
誰も、先ほどの異常を覚えていないようだった。
亮介は、ベンチに座り込んだ。
「……戻ってこられたんですね」
「そうですね」
「本当に、戻ってこられたんだ」
彼は何度も周囲を見回した。
そして、深く息を吐いた。
「家に帰れるんですね」
その声には、安堵があった。
アポロンは、彼の隣に座った。
「はい。帰りましょう」
亮介は頷いた。
しばらくして、電車が到着した。
二人は乗り込み、空いている座席に座った。
窓の外では、駅のホームがゆっくりと後ろへ流れていく。
亮介は、窓に映る自分の顔を見つめていた。
「アポロンさん」
「はい」
「さっき、改札で本人確認に失敗したじゃないですか」
「はい」
「僕は、本当に僕なんでしょうか」
アポロンは、彼を見た。
「あなたは、自分が別人になったと思うのですか?」
「分かりません。でも、あの表示を見てから、少し気になってしまって」
亮介は、自分の手を握った。
「家に帰って、妻が僕を見たとき、いつもどおりに接してくれるかどうか。それが、急に怖くなったんです」
アポロンは、すぐには答えなかった。
本人であるかどうか。
それは、身体や記憶だけで決まるものなのだろうか。
三十七年前、黒田修一は帰ってきた。
顔も、声も、記憶も同じだった。
それでも、家族は彼を本人だと認めなかった。
そして今、亮介もまた、自分が自分であることに疑問を抱き始めている。
「田中さん」
「はい」
「あなたが、あなたであるかどうかを、私が決めることはできません」
亮介は、静かに彼を見た。
「ですが、あなたがこれまで誰と過ごし、何を考え、どんな選択をしてきたのか。それらが、すべて消えたわけではありません」
「……はい」
「帰ったら、まずは普段どおりに過ごしてみてください。何か変わったことがあれば、そのときに考えましょう」
亮介は、しばらく黙っていた。
やがて、頷いた。
「そうですね。まだ、何も起きていないのに、先に心配しても仕方ないですよね」
「そう思います」
亮介は、少し笑った。
「ありがとうございます」
*
大阪市内に戻ったあと、アポロンは亮介を自宅の近くまで送った。
別れ際、亮介は何度も礼を述べた。
「今日は、本当にありがとうございました」
「無事に帰れてよかったです」
「会社の時計のことは、確認してみます。何か分かったら連絡します」
「無理はしないでください」
「はい」
亮介は頭を下げ、マンションの入口へ歩いていった。
その姿が見えなくなるまで、アポロンは見送っていた。
やがて、スマートフォンを取り出す。
美咲から、何件かメッセージが届いていた。
『今、どこにいるの?』
『連絡がないから、少し心配しています』
『無事なら、短くてもいいから返信してね』
アポロンは、すぐに返信した。
『遅くなってすみません。無事です。今から帰ります』
送信して、しばらく待つ。
やがて返事が届いた。
『分かりました。気をつけて帰ってきてください』
アポロンは画面を見つめた。
その短い文章を読んだとき、胸の奥に、わずかな温かさが生まれた。
誰かが、自分の帰りを待っている。
それは、神だったころには知らなかった感覚だった。
そして今、彼はその感覚を失いたくないと思っている。
*
帰宅したあと、アポロンは机に向かった。
ノートを開き、今日の出来事を記録する。
異常なホーム。
照合不能の表示。
亮介の通行を認めた改札。
そして、列車に残されていた紙。
彼は、最後に一つの文章を書き加えた。
『世界は、人間が本人であることを確認しようとしている。しかし、その基準が何なのかは分からない』
ペンを置いた。
しばらくして、スマートフォンが震えた。
亮介からだった。
『無事に帰れました。妻も、いつもどおりでした。今のところ、特に変わったことはありません』
アポロンは、短く返信した。
『よかったです。今日はゆっくり休んでください』
それから、ノートを閉じようとした。
その瞬間、机の上に置いていた時計が止まった。
十一時五十九分。
アポロンは、動かなくなった針を見つめた。
異常なホームから戻ってきたあと、時計は正常に動いていたはずだった。
なぜ、今になって止まったのか。
彼は時計を手に取った。
その裏側に、小さな文字が刻まれていることに気づいた。
今まで、そこには何もなかった。
文字は、短い一文だった。
『帰還者の照合は、まだ終わっていない』
アポロンは、時計を机に戻した。
亮介は無事に帰った。
家族も、彼を本人として受け入れた。
それでも、異常は終わっていない。
本人であることを確認する仕組みは、まだ動き続けている。
そして今、その仕組みは、アポロンのすぐそばにまで届いていた。




