第一三四章 空席
『あなたの席は、まだ空いています』
アポロンは、列車の座席に置かれた紙を見つめていた。
その文字には、見覚えがなかった。
筆跡も分からない。
けれど、書かれている内容は明確だった。
ここは、彼が帰るべき場所だと、何者かが考えている。
「アポロンさん……乗るんですか?」
田中亮介が、不安そうに尋ねた。
「いいえ。まだ決めていません」
「でも、ここから出る方法が、ほかにあるんでしょうか」
アポロンは、ホームの反対側を見た。
先ほどまで、そこには普通の駅の風景があった。
今は、何もない。
壁も、階段も、改札も消えている。
残されているのは、列車とホームだけだった。
「田中さん。あなたは、この列車に乗りたいですか?」
亮介は、すぐには答えなかった。
「……正直、分かりません」
「なぜですか?」
「ここから出られるなら、乗ったほうがいいのかもしれません。でも、あの紙に書かれていることが気になります」
彼は車内を見た。
「僕のために用意されたものじゃないですよね」
「そうですね」
「だったら、乗っていいのかどうかも分からない」
アポロンは頷いた。
亮介は、自分が帰りたいという気持ちと、目の前のものを警戒する気持ちの間で迷っている。
その迷いは、間違いではなかった。
分からないものを前にして、すぐに答えを出さなくてもいい。
「まず、確認しましょう」
アポロンは、開いた扉の前まで歩いた。
車内に足を踏み入れることなく、座席や床、天井を観察する。
窓の外には、駅の風景が映っていなかった。
代わりに、暗い空間が広がっている。
その奥に、いくつもの光が浮かんでいた。
遠くの星のようにも見える。
しかし、アポロンには、それが何なのか分からなかった。
彼は列車の扉に手を触れた。
金属の感触がある。
冷たさも、重さも、普通の列車と変わらない。
だが、その内部にある構造を把握しようとした瞬間、認識が途切れた。
そこから先を知ろうとすると、何かが遮る。
神だったころの彼なら、物体の内部構造を知らないままにしておくことなどなかった。
今は、知らない部分が確かに存在している。
アポロンは手を離した。
「どうですか?」
亮介が尋ねた。
「普通の列車のように見えます。ただ、内部については分からないことがあります」
「そんなものに乗って、大丈夫なんでしょうか」
「保証はできません」
亮介は困ったように笑った。
「正直ですね」
「分からないことを、分かるとは言えませんから」
「……そうですよね」
亮介は、しばらく考えたあと、首を横に振った。
「僕は、乗りたくありません」
アポロンは彼を見た。
「理由を聞いてもいいですか?」
「帰りたいとは思っています。でも、どこへ連れていかれるか分からないものに乗るのは、違う気がします」
亮介は、ホームの床を見た。
「帰りたいからといって、何でも選んでいいわけじゃないと思うんです」
アポロンは、その言葉を静かに受け止めた。
帰ることと、帰るために何を選ぶか。
それは、同じではない。
「分かりました。では、別の方法を探しましょう」
「そんな方法があるんですか?」
「まだ分かりません」
「……ですよね」
亮介は、今度は少しだけ笑った。
*
列車は、扉を開いたまま動かなかった。
アポロンはホームの端まで歩き、線路を見下ろした。
線路は、暗闇の中へ伸びている。
彼は再び、世界に命令を与えてみた。
「この場所の境界を示せ」
声が響いた。
しかし、何も変わらなかった。
彼の言葉が届いていないのではない。
命令を受け取る対象そのものが、通常の世界とは異なる仕組みに従っているようだった。
アポロンは目を閉じた。
自分の力を使って、この場所の構造を無理に変えることはできるかもしれない。
だが、それによって何が壊れるのか。
ここにいる亮介や、山本千代のように、すでに異常の影響を受けている人間に何が起きるのか。
今は、まだ分からない。
彼は目を開いた。
「田中さん。最後に、ここへ来たときのことを覚えていますか?」
「最後、というと?」
「あなたが駅で、通路を見たときです。その前後に、何か変わったことはありませんでしたか?」
亮介は考え込んだ。
「駅の表示が消えたことと、声が聞こえたことくらいです」
「それ以前は?」
「普通に仕事をしていました。帰りに駅へ向かって……」
彼は、突然言葉を止めた。
「そういえば」
「何か思い出しましたか?」
「その日の昼休み、会社の休憩室で時計が止まったんです」
アポロンは、亮介を見た。
「何時に?」
「十一時五十九分です」
また、その時刻だった。
「ほかの時計も止まりましたか?」
「壁の時計だけです。スマートフォンの時刻は動いていました」
「その時計は、今も会社にありますか?」
「分かりません。翌日には普通に動いていたと思います」
アポロンは、しばらく考えた。
異常は、神社だけで起きているわけではない。
古い時計だけでもない。
特定の場所で、特定の人物の周囲に、同じ時刻が現れている。
その共通点が何を意味するのかは、まだ分からない。
しかし、少なくとも、異常が発生する条件を探る手がかりにはなる。
「田中さん。もう一つだけ聞かせてください」
「はい」
「その日、誰かに名前を呼ばれたことはありませんでしたか?」
亮介は眉を寄せた。
「駅で声を聞く前に、ですか?」
「はい」
彼は長い時間考えた。
「……ありました」
「誰に?」
「会社の同僚です。昼休みに、廊下から名前を呼ばれました」
「その同僚は、あなたの名前を呼んだだけですか?」
「そうです。でも、変なことがあったんです」
亮介は、声を落とした。
「その人、僕を呼んだあと、すぐに謝ったんです。『すみません、間違えました』って」
「あなたの名前を、間違えて呼んだのでしょうか?」
「いいえ。僕の名前でした。でも、その人は、なぜ自分が僕を呼んだのか分からないと言っていました」
アポロンは、亮介の話を聞きながら、一つの仮説を立てた。
名前を呼ぶこと。
時計が止まること。
そして、本人と一致しないという記録。
これらは、ばらばらの現象ではないのかもしれない。
何かが、人間を特定しようとしている。
しかし、その照合は、必ずしも正しく行われていない。
だから、本人が帰ってきても、周囲の人間は本人だと認められない。
だから、存在しない通路に人間が引き込まれる。
そして今、世界はアポロンを特定しようとしている。
「田中さん」
「はい」
「ここから出られたら、あなたの会社にある時計について、確認してもらえませんか?」
亮介は驚いた顔をした。
「僕が、ですか?」
「はい。もちろん、危険がない範囲で構いません。無理に調べる必要はありません」
亮介はしばらく考えた。
「……分かりました。できる範囲で確認します」
「ありがとうございます」
「でも、どうして僕なんでしょう」
アポロンは、すぐには答えなかった。
彼を特別な人間だと決めつける根拠はない。
異常に巻き込まれたというだけで、特別な役割を背負わせるべきでもない。
「今のところ、あなたが異常を経験した一人だからです。それ以上の意味があるかどうかは、まだ分かりません」
亮介は、少し安心したようだった。
「それなら、よかったです」
「よかった、とは?」
「僕だけが何かを解決しなきゃいけないのかと思いました」
アポロンは、静かに頷いた。
「その必要はありません。分かったことを共有していただければ、それで十分です」
*
そのとき、列車の中から音がした。
車内放送だった。
『まもなく、終点です』
アポロンと亮介は同時に振り返った。
扉は、まだ開いている。
車内には誰もいない。
『お降りのお客様は、お忘れ物のないようご注意ください』
放送は、普通の列車と変わらない声だった。
しかし、次の言葉は違った。
『なお、創造主のお客様は、終点までお乗りください』
亮介が顔を強張らせた。
「……僕たちのことですか?」
「おそらく、私のことです」
『途中下車はできません』
アポロンは、列車を見つめた。
その言葉が終わると同時に、車内の照明が一斉に点灯した。
奥の座席に、もう一枚の紙が現れた。
先ほどと同じ白い紙。
アポロンは近づき、内容を確認した。
そこには、今度は別の文章が書かれていた。
『現在、代替候補の照合を行っています』
その下には、三つの名前が並んでいた。
黒田修一。
山本千代。
田中亮介。
そして、最後にもう一つ。
アポロン。
彼は紙を見つめた。
黒田修一と山本千代は、三十七年前に異常を経験した人間。
田中亮介は、現在、異常に巻き込まれている人間。
そして自分は、世界の創造主。
この四人が、同じ一覧に並んでいる。
「代替候補……」
アポロンは、小さく呟いた。
世界は、自分の代わりを探している。
男が言っていた言葉が、頭の中で繰り返された。
しかし、代わりとは何なのか。
神の力を持つ存在なのか。
世界を維持するための役割を担う存在なのか。
それとも、世界が世界であり続けるために必要な、何か別のものなのか。
まだ分からない。
だが、ここで一つだけ、はっきりしたことがある。
黒田修一も、山本千代も、田中亮介も、単に偶然巻き込まれた人間ではない可能性がある。
彼らは、何らかの基準によって選ばれている。
そして、アポロンもまた、その候補に含まれている。
「田中さん」
アポロンは振り返った。
「何でしょう」
「この紙に書かれていることを、覚えておいてください。あとで説明できるように、できるだけ正確に記録します」
亮介は頷いた。
「分かりました」
アポロンは、紙を持ち上げた。
その瞬間、文字が一つずつ消えていった。
最後に残ったのは、アポロンの名前だけだった。
そして、その名前の下に、新しい文章が浮かび上がった。
『代替候補の照合を中断』
『創造主本人の帰還を優先』
アポロンは、紙を握る手に力を込めた。
世界が、自分を必要としている。
その可能性は、すでに理解していた。
しかし、今の彼には、まだ確かめたいことがある。
神としての自分に戻れば、この異常は解決するのか。
それとも、世界が自分を必要としているという事実そのものが、何か別の問題を隠しているのか。
答えを知らないまま、元の位置へ戻ることはできなかった。
「田中さん。ここから出る方法を探しましょう」
「はい」
「それから、あなたを家まで送り届けます」
亮介は、少しだけ笑った。
「ありがとうございます」
アポロンは、列車の扉から離れた。
その瞬間、車内放送が再び流れた。
『ご案内いたします』
『創造主が乗車を拒否したため、次の手順へ移行します』
列車の扉が閉まった。
窓の向こうに、誰かの姿が見えた。
一人ではない。
複数の人間が、座席に座っている。
その中の一人が、ゆっくりと顔を上げた。
黒田修一だった。
その隣には、山本千代とよく似た女性が座っていた。
そして、二人の向かい側には、黒い服の男がいた。
男は窓越しに、アポロンを見つめていた。
声は聞こえなかった。
しかし、その唇が動いた。
――選ぶのは、お前だ。
次の瞬間、列車は音もなく走り出した。
トンネルの奥へ消えていく。
ホームには、アポロンと亮介だけが残された。
そして、頭上の時計が、ゆっくりと動き始めた。
十二時一分。
十二時二分。
今度は、針が止まることはなかった。
けれど、アポロンは知っていた。
時計が動き始めたからといって、すべてが解決したわけではない。
むしろ、これからが本当の始まりなのだと。




