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神様は、明日を知らない』 ――全知全能の神が、人間になった理由――  作者: 亀


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第一三三章 ホームの向こう側

アポロンが道を踏み越えた瞬間、周囲の景色が変わった。


木造の家も、止まった時計も、山本千代の姿も消えた。


代わりに現れたのは、見慣れた駅のホームだった。


頭上には案内表示があり、線路の向こうには向かい側のホームが見える。天井の照明も、足元の黄色い点字ブロックも、どこにでもある駅と変わらない。


ただし、人の姿がなかった。


電車も来ない。


構内放送も聞こえない。


ホームの時計だけが、十一時五十九分を指していた。


アポロンは周囲を見回した。


田中亮介は、ホームの端に立っていた。


その背後に、黒い服の男がいる。


「田中さん」


呼びかけても、亮介は振り返らなかった。


彼は線路の向こうを見つめている。


「田中亮介さん」


もう一度呼ぶと、亮介の肩がわずかに動いた。


しかし、彼の口から出たのは、アポロンへの返事ではなかった。


「……もう、帰ってもいいんですか」


誰に尋ねているのか。


その答えは、すぐに分かった。


黒い服の男が、亮介の隣へ歩み寄った。


「帰りたいのか?」


「はい」


「どこへ?」


「家に」


「家に帰って、お前を待っている人間はいるのか?」


亮介は答えなかった。


男は、さらに尋ねた。


「お前が帰らなくても、誰も困らないのではないか?」


亮介の手が震えた。


「そんなことは……」


「なら、なぜ帰りたい?」


亮介は唇を動かした。


しかし、声にならなかった。


アポロンは、男の言葉を聞きながら、亮介の様子を観察していた。


彼は単に道に迷っているのではない。


自分がどこへ帰りたいのか、その理由さえ分からなくなりかけている。


アポロンは、二人の間へ歩み寄った。


「田中さん」


今度は、はっきりと名前を呼んだ。


亮介が振り返った。


「……アポロンさん?」


「はい。こちらへ来てください」


亮介は、すぐには動かなかった。


「でも、あの人が……」


彼は黒い服の男を見た。


男は、何もしていない。


ただ、そこに立っているだけだった。


「田中さん。あなたは、家に帰りたいのですか?」


「分かりません」


亮介は、苦しそうに答えた。


「帰りたいと思っていたはずなんです。でも、ここに来てから、何がしたかったのか分からなくなって……」


「では、一度、こちらへ来てください。帰るかどうかは、そのあとで考えましょう」


亮介はアポロンを見つめた。


「それでも、いいんですか?」


「もちろんです」


アポロンは手を差し出した。


「今すぐ答えを出す必要はありません」


亮介は、その手を見た。


やがて、ゆっくりと一歩踏み出した。


その瞬間、ホームの時計が音を立てた。


針が動く。


十一時五十九分から、十二時へ。


同時に、構内の照明が一斉に消えた。


暗闇の中で、男の声が響いた。


「余計なことをするな」


アポロンは亮介の手をつかんだ。


「田中さん、目を閉じてください」


亮介が目を閉じたのを確認すると、アポロンは静かに告げた。


「止まれ」


世界が止まった。


暗闇の中で、空気の動きも、時計の音も、すべてが停止する。


アポロンは亮介を抱えるようにして、ホームの端から離れた場所へ移動した。


そして、線路から十分な距離を取ったところで、再び言った。


「続けろ」


照明が戻った。


時計の針は十二時を指したままだった。


亮介は、呆然と周囲を見回した。


「今のは……?」


「説明はあとでします」


アポロンは彼を支えたまま、黒い服の男を見た。


男は、少し離れた場所に立っていた。


「お前は、まだその力を使えるのか」


「使えます」


「なら、なぜ最初から使わなかった?」


「あなたが何をするのか、確認する必要がありました」


男は、わずかに首を傾けた。


「確認?」


「あなたが亮介さんを危険な場所へ誘導していたのか。それとも、彼自身がここへ来たのか。その違いを知りたかったのです」


「答えは分かったか?」


「まだです」


男は小さく息を吐いた。


「相変わらずだな」


「私を知っているような言い方ですね」


「実際、知っている」


「なら、あなたの名前を教えてください」


男は答えなかった。


代わりに、亮介へ視線を向けた。


「この男を連れて帰るのか?」


「はい」


「帰したところで、また呼ばれるかもしれない」


「それでも、今は帰します」


「また同じことが起きたら?」


「そのときは、そのときに考えます」


男はしばらく黙っていた。


そして、ゆっくりと笑った。


「お前は、本当に人間になったんだな」


アポロンは、その言葉を聞き流さなかった。


「あなたは、私が神だったころを知っている。なら、なぜ私が人間になったのかも知っているのですか?」


男の表情から、笑みが消えた。


「知っている」


「私が望んだからですか?」


「そうだ」


「それなら、なぜ、私が人間になることを止めなかったのですか?」


男は答えなかった。


その沈黙は、これまでのものとは違っていた。


まるで、答えるべき言葉を探しているかのようだった。


やがて、男は言った。


「止める理由がなかったからだ」


「世界が不安定になることを、知っていたのではありませんか?」


「可能性は考えていた」


「それでも、止めなかった」


「お前が望んだからだ」


アポロンは、男を見つめた。


「あなたは、私の願いを尊重したのですね」


「そう受け取っても構わない」


男は、ホームの時計を見上げた。


「だが、願いを叶えることと、その結果を引き受けることは別だ。お前は、自分が何を選んだのかを理解しなければならない」


「そのために、私をここへ呼んだのですか?」


「私は、お前を呼んでいない」


男は、はっきりと言った。


「お前を呼んでいるのは、別のものだ」


アポロンは、周囲を見回した。


「それは何ですか?」


「まだ分からない」


「あなたにも?」


「私にも、すべては分からない」


男は、初めて視線を落とした。


「ただ、一つだけ分かっていることがある」


「何でしょう」


「お前が人間になったことで、あれはお前を見つけられるようになった」


アポロンは、眉を動かした。


「私が神であったころは、見つけられなかったのですか?」


「見つける必要がなかった」


「どういう意味ですか?」


男は答えず、ホームの向こうを指した。


そこには、いつの間にか一本の線路が増えていた。


本来なら存在しない線路。


その先には、暗いトンネルが続いている。


トンネルの入口に、白い文字が浮かんでいた。


『次の対象』


その下に、別の文字が現れた。


『照合対象、田中亮介』


亮介が息を呑んだ。


「また、僕なんですか……?」


アポロンは、彼の前へ出た。


「田中さん。こちらから離れないでください」


「でも、どうすれば……」


「まず、ここから出ます」


アポロンはトンネルを見た。


あの奥に何があるのか、まだ分からない。


しかし、今は調べることよりも、亮介を安全な場所へ戻すことが先だった。


「止まれ」


彼は、線路に向けて言葉を放った。


しかし、何も起きなかった。


線路は消えない。


トンネルも、文字も、そのまま残っている。


アポロンは、もう一度試した。


「止まれ」


今度も、変化はなかった。


彼は、静かに息を吐いた。


自分の力が失われたわけではない。


先ほどは世界を停止させ、亮介を危険から遠ざけることができた。


しかし、この線路には、その命令が届いていない。


「……そういうことですか」


アポロンは、ようやく一つの可能性に気づいた。


この場所では、すべてが自分の支配下にあるわけではない。


世界そのものに干渉できても、世界の外側にある何かまでは、自由に書き換えられないのかもしれない。


男が言った。


「それを理解したなら、もう十分だ」


「十分ではありません」


アポロンは男を見た。


「この場所から出る方法を教えてください」


「自分で見つけろ」


「あなたは知っているのでは?」


「知っていたとしても、今のお前に教えることはできない」


「なぜですか?」


男は、答える代わりに一歩下がった。


その身体が、少しずつ暗闇に溶け始める。


「待ってください」


アポロンは呼び止めた。


「最後に、一つだけ答えてください」


男は足を止めた。


「あなたは、私の味方なのですか?」


長い沈黙があった。


やがて、男は言った。


「お前が神だったころなら、迷わずそう答えただろう」


「今は?」


「今は、お前が何を選ぶのかを見ている」


男の姿が、完全に消えた。


同時に、トンネルの奥から電車の走行音が響き始めた。


亮介が、アポロンの袖をつかんだ。


「アポロンさん。電車が来ます」


アポロンは線路を見た。


本来なら、電車が来るはずのない場所だった。


しかし、暗いトンネルの奥に、二つの光が見えた。


ヘッドライトだった。


列車は、ゆっくりとこちらへ近づいてくる。


その車体には、行き先表示がない。


代わりに、車両の正面に、白い文字が浮かんでいた。


『創造主専用』


アポロンは、その文字を見つめた。


そして、列車がホームへ滑り込む直前、扉がひとりでに開いた。


車内には、誰もいなかった。


ただ、一番奥の座席に、一枚の紙が置かれている。


アポロンは亮介を背後にかばいながら、車内を見渡した。


紙には、短い文章が書かれていた。


『お帰りなさい、アポロン』


その下に、もう一文。


『あなたの席は、まだ空いています』

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