第一三二章 神の代わり
「この世界は、お前がいなくなった瞬間から、お前の代わりを探し続けている」
黒い服の男は、そう言った。
アポロンは、男の顔を見つめていた。
三十七年前の写真に写っていた人物。
神社の参道で姿を現し、何度も自分の存在を意識させてきた人物。
ようやく目の前に現れたというのに、その正体はまだ分からない。
「代わりとは、何のことですか」
「文字どおりの意味だ」
男は家の中へ入り、壁に並ぶ時計を見た。
すべての時計が、十二時を指している。
「お前が神だったころ、この世界はどうやって動いていた?」
「世界には、法則があります。それらが世界を成り立たせています」
「では、その法則を誰が維持していた?」
「法則そのものが、世界を維持していました」
「本当にそう思うか?」
アポロンは答えなかった。
男は笑わなかった。
ただ、アポロンの答えを待っていた。
「お前は、世界を作った。時間を作り、命が生まれる仕組みを作り、あらゆるものが存在できるようにした。だが、作ったものが、そのまま永遠に動き続けるとは限らない」
男は壁の時計を指した。
「この時計は、部品がそろっている。歯車も、針も、動力もある。それでも、同じ時刻に戻り続けた」
「何かが、時計の動作に干渉していたのでしょう」
「そうだ。では、世界はどうだ?」
アポロンは、男の言葉を考えた。
「世界にも、維持するための仕組みがあるということですか」
「仕組みだけでは足りない」
男は、アポロンを見た。
「世界が世界であり続けるためには、それを成立させる基準が必要だった」
「その基準が、私だったと?」
「そうだ」
千代が二人の会話を聞きながら、困惑した表情を浮かべていた。
「すみません。話がよく分からないのですが……」
男は彼女に視線を向けた。
「あなたは、ここから出たいんだろう?」
「はい」
「なら、今は黙って聞いていたほうがいい」
「あなたは、私が誰なのか知っているんですか?」
千代の問いに、男はすぐには答えなかった。
「山本千代。三十七年前、止まった時計を修理に出した女性。外へ戻ったあと、自分の家族に自分だと認めてもらえなかった人間」
千代の顔が強張った。
「どうして、それを……」
「ここにいる者の記録は、すべて残っている」
「あなたが、私をここへ連れてきたんですか?」
「私ではない」
男は首を横に振った。
「お前たちを呼んでいるものがある。私は、それを見ているだけだ」
「では、なぜ助けてくれなかったのですか?」
千代の声には、抑えきれない怒りが混じっていた。
「三十七年間、私は帰りたかった。何度も、何度も。あなたは知っていたのでしょう?」
男は、彼女を見た。
「知っていた」
「それなのに、何もしなかったんですか?」
「私にできることと、私がしてよいことは違う」
千代は唇を噛んだ。
「そんなの、ずるいです」
男は何も言わなかった。
アポロンは、その沈黙を見ていた。
この男は、何でも知っているわけではない。
少なくとも、すべてを自分の思いどおりにできる存在ではないようだった。
「一つ、確認させてください」
アポロンは男に向き直った。
「あなたは、私が神であったことを知っている。私が人間になったことも知っている。ですが、あなた自身は何者なのですか?」
男は少しだけ目を細めた。
「私は、お前の代わりではない」
「それは質問への答えになっていません」
「そうだな」
男は、初めてわずかに笑った。
「お前は、神だったころから、質問に対して答えが足りないと指摘するのが好きだった」
アポロンは、表情を変えなかった。
「私を知っているのですね」
「知っているとも」
「どこで?」
男は答えず、代わりに一歩近づいた。
「アポロン。お前は、人間になりたいと思った。だから、人間になった。それ自体は、お前の自由だ」
「ならば、なぜ世界に異常が起きているのですか?」
「お前が、世界の中心にあったものを持ち出したからだ」
「私は、神としての力を失ってはいません」
「力の話ではない」
男は、アポロンの胸元を指した。
「お前が人間の身体を得ても、お前の本質が消えたわけではない。問題は、お前が世界に対して、以前と同じ位置にいなくなったことだ」
アポロンは黙った。
「神だったころ、お前は世界の内側にいながら、世界の外側からも世界を把握していた。すべての場所に存在し、すべての時間を知り、あらゆるものがどこへ向かうのかを見ていた」
男は言葉を続けた。
「だが、今のお前は、一つの場所にいる。人間として歩き、食べ、眠り、誰かと会い、明日を待っている」
「それが、問題なのですか?」
「問題は、それだけではない」
男は壁の時計を見た。
「お前が世界を見ていた位置から離れたことで、世界は自分自身を確認するための基準を失った。だから、代わりを探している」
「代わりが見つかるまで、異常が続くのですか?」
「分からない」
アポロンは、その答えにわずかに目を見開いた。
男は続けた。
「代わりが見つかれば安定するのかもしれない。見つからなければ、世界が別の形に変わるのかもしれない。あるいは、すべてが元に戻る可能性もある」
「あなたにも、結末は分からないのですね」
「私は未来を知る神ではない」
男は静かに言った。
「だからこそ、お前に会いに来た」
*
アポロンは、男の言葉を整理した。
世界は、彼が神であったころの位置を必要としている。
彼が人間になったことで、その位置が空席になった。
そして、世界はその空席を埋めようとしている。
しかし、まだ疑問が残る。
「なぜ、三十七年前から異常が起きていたのですか?」
男の目が、一瞬だけ動いた。
「黒田修一と山本千代。二人が異常を経験したのは、私が人間になった時期よりも前です」
「そうだ」
「ならば、私が人間になったことだけが原因ではありません」
「そのとおりだ」
男は、否定しなかった。
「異常は、以前から存在していた。だが、お前が人間になったことで、今まで維持されていた均衡が崩れた。以前なら局所的な問題で済んでいたものが、今は世界のあちこちへ広がり始めている」
「つまり、私が原因のすべてではない。しかし、拡大させた要因ではある」
「理解が早いな」
「それくらいは、分かります」
アポロンは、千代の持っていた時計を見た。
「この時計が十二時を指したとき、何が起きたのですか?」
「お前が、世界の記録に接続した」
「それによって、私の居場所が特定された?」
「そうだ」
「ならば、なぜ時計を動かす必要があったのですか?」
男はしばらく黙っていた。
「お前が、ただの人間として暮らしている間は、世界はお前を完全には特定できなかった」
「私が神であることを、忘れていたからですか?」
「違う。お前が人間として生きていたからだ」
男は、ゆっくりと言った。
「お前が何を考え、何を選び、誰と関わり、どこへ向かうのか。以前のお前なら、そのすべてを知っていた。だが、今のお前は、自分自身の明日さえ知らない」
アポロンは、言葉を返さなかった。
「お前が知らないということは、世界にとっても、お前の次の行動が確定していないということだ。その不確定な部分が、世界の照合を妨げていた」
「では、私が時計を動かしたことで、その不確定な部分がなくなったのですか?」
「一時的に、お前の存在が世界の記録とつながった。だから、居場所が特定された」
「それは、私が人間になったことと矛盾しませんか?」
「矛盾しているのかもしれない」
男は、淡々と答えた。
「だから、私もここに来た」
アポロンは、男の顔を見つめた。
彼は、すべてを知っているわけではない。
けれど、少なくとも、この現象について何らかの知識を持っている。
そして、アポロンが人間になったことを、単なる変身とは考えていない。
「あなたは、私に何を望んでいるのですか?」
男は答える前に、千代を見た。
「まず、彼女を帰すことだ」
千代が顔を上げた。
「本当に、帰れるんですか?」
「可能性はある」
「どうすれば?」
男は、アポロンの手元にある時計を見た。
「時計を元に戻せばいい。ただし、針を動かすだけでは足りない」
「どういう意味ですか?」
「彼女が、外の世界とつながっていることを確かめなければならない」
「どうやって?」
「それを、これから探す」
千代は、時計を抱きしめた。
「三十七年も待ったんです。もう、待つだけなのは嫌です」
男は彼女を見た。
「なら、あなた自身が決める必要がある」
「何を?」
「帰ったあと、何をするのか」
千代は戸惑った。
「帰ることが、目的ではないのですか?」
「帰ることは、目的の一つだ。だが、帰った先で何を望むのかは、あなたが決めなければならない」
アポロンは、そのやり取りを聞いていた。
人間になった自分が、初めて理解しようとしていること。
選択とは、ただ一つの答えを見つけることではない。
何を望み、何を引き受けるかを、自分で決めることでもある。
「私も、協力します」
アポロンが言った。
男は彼を見た。
「お前は、まだ人間でいたいのか?」
「はい」
「世界が不安定になっても?」
「それが私の選択によって起きたのであれば、責任を考える必要があります。ただし、責任を取ることと、以前の状態へ無条件に戻ることは、同じではありません」
男は黙っていた。
「私は、まだ何も理解していません。世界に何が起きているのかも、あなたが誰なのかも」
アポロンは、まっすぐに男を見た。
「それでも、何も知らないまま、誰かの決めた結論に従うつもりはありません」
男は、しばらくアポロンを見つめていた。
やがて、静かに頷いた。
「そうか」
そして、玄関の外を指した。
「なら、最初に確かめることがある」
外の景色が、少しずつ戻り始めていた。
遠くに、住宅街の屋根が見える。
しかし、道の先には、もう一つの景色が重なっていた。
駅のホーム。
人々が行き交う改札。
そして、ホームの端に立つ一人の男性。
アポロンは、その姿を見て、息を止めた。
田中亮介だった。
彼はホームの端に立ち、線路の向こうを見つめていた。
その背後には、黒い服の男と同じ姿をした人影が立っている。
男が言った。
「次に呼ばれるのは、あの男だ」
アポロンは、すぐに歩き出した。
「待て」
男の声が背後から届く。
「今、向こうへ行けば、こちらに戻れなくなる可能性がある」
アポロンは足を止めなかった。
「なら、戻れなくなる前に、彼を助けます」
「お前は、自分が何をしようとしているのか分かっているのか?」
アポロンは振り返った。
「分かりません」
その答えに、男は一瞬だけ黙った。
「ですが、目の前で誰かが危険にさらされているなら、確かめる前にできることがあります」
アポロンは再び前を向いた。
「私は、そういう人間になりたいのです」
そして、彼は道の向こうへ踏み出した。
背後で、すべての時計が再び動き始めた。
今度は、十一時五十九分から先へ進んでいた。




