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神様は、明日を知らない』 ――全知全能の神が、人間になった理由――  作者: 亀


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第一三一章 境界の内側

入口が消えていた。


アポロンは振り返り、先ほどまで自分が歩いてきた場所を確認した。


住宅街の道路も、集合住宅も、電柱も見えない。


そこにあるのは、石垣と草に覆われた細い道だけだった。


道の向こうには、灰色の空が広がっている。


空は見える。


風も吹いている。


それなのに、遠くから聞こえていた車の音も、人の声も、すっかり消えていた。


「ここは、どこですか」


アポロンは山本千代に尋ねた。


「私にも、分かりません」


千代は、抱えていた置き時計を見下ろした。


「最初に来たときは、普通の道だったんです。でも、歩いているうちに、帰り道が分からなくなりました」


「いつから、ここに?」


「三十七年前からです」


アポロンは、彼女を見つめた。


「三十七年間、ずっとここにいたのですか?」


「いいえ。外に戻れたこともあります」


「それは、いつですか?」


「何度か。でも、戻るたびに、外の世界が変わっていました」


千代は少し考えた。


「最初に戻ったとき、私はまだ若かったんです。次に戻ったときは、家がなくなっていました。その次には、知っている人が誰もいなくなっていました」


「それでも、またここへ戻ってきたのですね」


「戻りたかったわけではありません」


千代は、置き時計を抱える腕に力を込めた。


「ある日、時計が止まると、またこの道が現れるんです。気づいたときには、もう戻れなくなっている」


アポロンは時計を見た。


針は十一時五十九分を指したままだ。


「あなたは、この時計が原因だと思っているのですか?」


「分かりません。ただ、時計が動かなくなるたびに、何かが起きます」


「何が起きるのですか?」


千代は、道の奥へ目を向けた。


「誰かが、いなくなるんです」


その言葉の直後、遠くで足音が聞こえた。


一人分ではない。


複数の人間が、ゆっくりとこちらへ歩いてくる。


千代の顔から血の気が引いた。


「隠れてください」


「なぜですか?」


「見つかってはいけないんです」


彼女はアポロンの腕をつかみ、道脇の石垣の陰へ引いた。


アポロンは抵抗しなかった。


足音は近づいてくる。


やがて、道の向こうから三人の人影が現れた。


一人は古い時代の服を着た男性。


もう一人は、学生服を着た少年。


そして最後の一人は、現代の会社員のような格好をしていた。


三人とも、歩き方が不自然だった。


前を見ているのに、どこかを探しているように首を動かしている。


「次は、どこだ」


男性が言った。


「まだ、見つからない」


少年が答えた。


会社員は、黙ったまま周囲を見回していた。


彼らの目が、石垣の陰に近づく。


千代は息を殺した。


しかし、アポロンは気づいていた。


彼らは、こちらを見ていないのではない。


こちらが存在していること自体を、認識できていないようだった。


三人は石垣のすぐ前を通り過ぎ、道の奥へ歩いていった。


最後の会社員だけが、一瞬、足を止めた。


顔がこちらを向く。


その目が、アポロンの目と重なった。


「……いた」


会社員が呟いた。


次の瞬間、彼の姿が消えた。


男性も、少年も、同時に消えた。


足音が途絶えた。


千代は、しばらく動かなかった。


「今の人たちは?」


「分かりません」


「あなたも、知らないのですか?」


「はい」


千代は、アポロンを見た。


「あなたなら、何でも知っていると思っていました」


「私にも、分からないことがあります」


「そうですか」


千代は、少しだけ安心したように息を吐いた。


「なら、よかった」


「なぜですか?」


「何でも知っている人なら、ここから出られない理由も、すぐに分かってしまうでしょう?」


アポロンは答えなかった。


彼女の言葉は、彼が神であったころの自分に向けられているようだった。


すべてを知り、すべてを把握し、答えを持っている存在。


しかし、ここでは違う。


彼は、目の前の道がどこへ続いているのかさえ分からない。


そして、それを不思議だとは思っても、恐ろしいとは感じていなかった。


恐怖を感じていないのか。


それとも、まだ恐怖を理解できていないのか。


彼自身にも、判断できなかった。


          *


二人は再び歩き始めた。


道は、緩やかな下り坂になっていた。


しばらく進むと、小さな建物が見えてきた。


古い木造の家だった。


屋根は傷み、窓ガラスにはひびが入っている。


けれど、玄関先には、誰かが置いたばかりのような靴が並んでいた。


千代は足を止めた。


「ここです」


「ここに住んでいたのですか?」


「いいえ。でも、何度か見ています」


「誰かが住んでいるのでしょうか」


「分かりません」


千代は玄関へ近づいた。


戸には鍵がかかっていなかった。


中から、時計の音が聞こえる。


チク、タク。


チク、タク。


アポロンは、音のする方向を見た。


建物の中には、複数の時計があるようだった。


「入るのですか?」


「確かめたいことがあります」


千代は戸を開けた。


中は薄暗かった。


居間の壁には、古い時計が並んでいる。


丸い掛け時計。


四角い置き時計。


金属製の小さな時計。


形も大きさも違う。


しかし、そのすべてが、十一時五十九分を指していた。


アポロンは、一つの時計に近づいた。


文字盤には、傷がついている。


裏側の蓋を開けて確認しても、内部の機構に異常はない。


それでも、針は動かない。


「これらの時計は、いつからここにあるのですか?」


「知りません」


千代は、部屋の奥へ進んだ。


そこには、小さな机があった。


机の上には、紙が一枚置かれている。


千代は紙を手に取り、顔をこわばらせた。


「どうしましたか?」


「この字……」


彼女は紙をアポロンに差し出した。


そこには、短い文章が書かれていた。


『帰還者は、本人と一致しない』


その下には、別の一文があった。


『創造主の不在により、照合が継続できない』


アポロンは、紙を見つめた。


創造主。


その言葉が、この場所に残されている。


三十七年前の記録にも、神社の写真にも、そして電話の向こうから聞こえた声にも、自分の存在を知っている何者かの痕跡があった。


ここは、単なる時間の異常が起きている場所ではない。


何かが、人間の存在そのものを照合している。


そして、その仕組みには、自分が関係している。


「この紙を見たことはありますか?」


アポロンが尋ねると、千代は首を横に振った。


「いいえ。初めてです」


「では、なぜここへ来たのですか?」


「時計を直してもらうためです」


「誰に?」


千代は、アポロンを見た。


「あなたに」


アポロンは、彼女の目を見つめ返した。


「私は、時計を直すことはできません」


「でも、あなたは時間を作ったのでしょう?」


「それは、そうです」


「なら、直せるはずです」


「時間を作ることと、壊れた時計を直すことは、同じではありません」


千代は黙った。


やがて、机の上に時計を置いた。


「それでも、お願いします」


アポロンは時計に手を伸ばさなかった。


この時計が何を意味しているのか、まだ分からない。


ここで無理に動かせば、何が起きるのかも分からない。


神であったころなら、時計の針を動かすことなど、考えるまでもなかった。


だが、今は違う。


動かすことができるからといって、動かすべきだとは限らない。


「まず、あなたが何を望んでいるのか、教えてください」


千代は、しばらく時計を見つめていた。


「帰りたいんです」


その声は、小さかった。


「家に帰りたい。自分の部屋で眠りたい。朝起きて、普通にご飯を食べたい」


彼女は顔を上げた。


「もう、三十七年も待ったんです」


アポロンは、静かに頷いた。


「分かりました」


彼は時計を手に取った。


針は、十一時五十九分を指している。


その瞬間、家中の時計が一斉に音を立てた。


チク。


アポロンの手の中で、秒針が動いた。


タク。


壁の時計が、一つ進んだ。


そして、すべての時計が、同時に動き始めた。


千代が息を呑んだ。


「動いた……」


しかし、喜びは長く続かなかった。


時計の針が十二時を指した瞬間、家の奥から、低い声が響いた。


『照合対象、変更』


アポロンは顔を上げた。


『帰還者ではなく、創造主を確認する』


家の壁に、無数の文字が浮かび上がった。


そして、アポロンの手の中の時計が、再び止まった。


今度は、十二時ちょうどで。


『確認完了』


声が告げた。


『創造主、所在を特定』


千代が後ずさった。


「何が起きているんですか……?」


アポロンは、彼女を背後へかばった。


その瞬間、家の玄関が、ひとりでに開いた。


外には、黒い服の男が立っていた。


三十七年前の写真に写っていた男。


神社の参道で見た男。


電話の向こうから、自分を呼んだ声の主。


男はアポロンを見つめた。


そして、初めて、その口を開いた。


「やっと、会えたな」


アポロンは男を見返した。


「あなたは、誰ですか」


男は答えなかった。


代わりに、アポロンの手にある時計を見た。


「それを動かしたのか」


「はい」


「なら、もう隠れている意味はない」


男は一歩、家の中へ入った。


「アポロン。お前が人間になったことで、何が起きたのかを教えてやる」


その背後で、玄関の外の景色が、音もなく消えていった。


男は、静かに言った。


「この世界は、お前がいなくなった瞬間から、お前の代わりを探し続けている」


アポロンは、動かなかった。


男の言葉が正しいかどうかは、まだ分からない。


だが、ここに来て初めて、彼は自分の選択が世界に何をもたらしたのか、その答えに近づいたのだった。

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