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神様は、明日を知らない』 ――全知全能の神が、人間になった理由――  作者: 亀


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第一三〇章 動かない時計の持ち主

翌朝、アポロンは目覚まし時計が鳴る前に目を覚ました。


昨夜、電話の向こうから聞こえた声が、まだ耳に残っている。


『お前は、本当に人間になったのか?』


単なる質問ではなかった。


相手は、アポロンが人間になる前の姿を知っている。


それだけではない。


人間になったという変化を、何か特別な出来事として認識していた。


アポロンは机の上に置いた腕時計を見た。


昨夜、止まった時計は、午前零時を過ぎてから再び動き始めた。電池にも、内部の機構にも異常は見つからない。


時計が止まった理由は分からない。


だが、一つだけ確かなことがあった。


異常は、遠くの神社だけで起きているのではない。


自分のいる場所まで、届いている。


アポロンは身支度を済ませ、黒田修一の時計を修理した職人の連絡先を確認した。


今日は、直接会いに行くつもりだった。


          *


店は、商店街から少し離れた住宅街にあった。


看板には、手書きの文字で「時計修理」と書かれている。


ガラス戸の向こうには、壁掛け時計や置き時計が並んでいた。大小さまざまな針の音が重なり、店内には独特のリズムが生まれている。


アポロンが戸を開けると、奥から老人が顔を上げた。


「いらっしゃいませ」


「突然申し訳ありません。以前、こちらで修理された時計について、お話を伺いたいのですが」


アポロンは、警察から許可を得て持参した記録の写しを見せた。


老人は眼鏡をかけ直し、紙面を確かめた。


「黒田修一……」


その名前を見た瞬間、老人の表情が変わった。


「この件を、まだ調べている人がいるんですか」


「ご存じなのですか?」


「ええ。私は父から、この店を引き継ぎました。これは父が残した記録です」


老人は棚の下から古い帳面を取り出した。


表紙は擦り切れ、背表紙の一部が剥がれている。


「父は、修理した時計の状態を細かく記録する人でした。普通なら、電池交換だけで終わる仕事でも、気になったことがあれば書き残していたんです」


彼は帳面を開き、該当するページを探した。


やがて、一つの記録を指で押さえた。


「ここです。三十七年前の記録ですね」


そこには、警察から提供されたものと同じ修理内容が書かれていた。


ただし、帳面には、その先があった。


『時刻調整後、再び十一時五十九分に停止。三回試行するも同様。依頼主、時計を持ち帰る』


さらに、その下には、別の筆跡で一文が記されていた。


『持ち帰ったのは、依頼主ではない』


アポロンは、文字を見つめた。


「これは、どういう意味でしょうか」


老人は首を横に振った。


「分かりません。父も分からなかったのでしょう。説明はありませんから」


「この記録を書いたのは、お父様ですか?」


「おそらく。筆跡は似ています。ただ、最後の一文だけ、少し違うようにも見えます」


老人は帳面を傾け、光の当たり方を変えた。


「ほかにも、気になることがあります」


彼はページの端を示した。


小さな数字が書かれていた。


「十二」


「十二、ですか」


「父は修理品に番号をつけていました。受付番号です。でも、この番号は、当時の帳簿と一致しません」


「つまり、記録に残っていない修理品だった可能性があるのでしょうか」


「そうなりますね。ただ、父が番号を書き間違えた可能性もあります」


アポロンは頷いた。


一つの記録だけで、すべてを決めることはできない。


しかし、帳面の記述には、明らかに通常の修理とは異なる部分がある。


「その時計は、今どこにあるか分かりますか?」


「残念ですが。父が亡くなったとき、店の古い修理品や部品は整理してしまいました」


「そうですか」


「ただ……」


老人は、帳面のページをめくった。


「この翌月にも、似た記録があるんです」


アポロンは身を乗り出した。


別の記録には、女性の名前が記されていた。


山本千代。


修理内容は、置き時計の時刻調整。


症状は、十一時五十九分で停止すること。


そして、最後にこう書かれていた。


『依頼主、時計を受け取らず。翌日、再訪するも本人確認できず』


アポロンは顔を上げた。


「本人確認できず、というのは?」


「父が何を意味して書いたのかは分かりません。ただ、父は普通、時計を受け取りに来た人の名前を確認していました。名前が違ったなら、そう書いたはずです」


「では、本人だと確認できなかった?」


「そうかもしれません」


老人は帳面を閉じなかった。


「この記録を見たとき、私は父が何かの事件に巻き込まれたのかと思いました。でも、父は何も話さなかった。警察から問い合わせがあった記録もありません」


アポロンは、山本千代という名前を記憶した。


黒田修一だけではない。


同じ現象が、別の人物の周囲でも起きていた可能性がある。


「その女性について、何かご存じですか?」


「名前しかありません。父の古い住所録に残っていれば、何か分かるかもしれません」


老人は店の奥を指した。


「少し時間をいただけますか。探してみます」


「お願いします」


          *


老人が奥へ入ったあと、アポロンは店内を見回した。


壁には、修理を待つ時計がいくつも掛けられている。


一つの時計が、正午を告げた。


ほかの時計も、少しずつ違う時刻を刻んでいる。


すべてが同じ時間を示しているわけではない。


それでも、それぞれの時計は、それぞれの仕組みに従って動いていた。


アポロンは、神だったころのことを思い出した。


世界の時間は、彼にとって観測する対象ではなかった。


時間が進むことも、止まることも、巻き戻ることも、すべては彼が把握できる範囲にあった。


だが、今、彼が向き合っているのは、単純な時間の停止ではない。


時計の針が十一時五十九分に戻る。


帰還した人間が、家族に本人だと認められない。


存在しない通路が現れ、名前を呼ぶ声が聞こえる。


そして、何者かが自分を観測している。


これらが同じ現象なのか、それとも複数の現象が重なっているのか。


まだ、判断できない。


そのとき、店の奥から老人の声がした。


「見つかりましたよ」


老人は、古い住所録を持って戻ってきた。


該当するページには、山本千代の住所が書かれていた。


ただし、住所の横には、赤鉛筆で小さく記されている。


『転居先不明。家屋取り壊し』


その下には、別の住所があった。


現在の地名に置き換えると、神社からそれほど離れていない地域だった。


「この場所は……」


アポロンは、地図を確認した。


その住所は、古い石碑の近くにあった。


あの、地図から消えていた道の先にある地域だった。


「この女性について、ほかに何かありませんか?」


老人は、住所録をもう一度確認した。


「一つだけ。父が残したメモがあります」


それは、帳面に挟まれていた小さな紙片だった。


そこには、短い文章が書かれていた。


『山本氏、修理品を受け取りに来る。ただし、前回とは別人のように見える。本人は、時計を預けた覚えがないと話す』


アポロンは、紙片を見つめた。


時計を預けた覚えがない。


本人は、本人だと言っている。


しかし、修理を担当した職人には、別人のように見えた。


黒田修一の家族が語ったことと、よく似ていた。


「この女性は、その後どうなったのでしょうか」


「分かりません。住所録には、それ以上の記録がありません」


アポロンは老人に礼を述べ、店を出た。


手元には、山本千代の住所と、三十七年前の記録の写しがある。


神社の異常と時計の停止。


黒田修一と山本千代。


そして、地図から消えた道。


次に向かう場所は決まった。


          *


午後、アポロンは美咲に連絡を入れた。


『古い記録から、別の人物が見つかりました。少し調べてきます』


しばらくして、返信が届いた。


『一人で行くの?』


『はい。場所を確認するだけです』


返信は、すぐには来なかった。


数分後、画面に文字が表示された。


『場所を確認するだけでも、何か起きるかもしれないよね』


アポロンは、その言葉を読み返した。


『そうですね』


『せめて、着いたら連絡して』


『分かりました』


それで会話は終わった。


アポロンはスマートフォンをしまい、地図に示された場所へ向かった。


そこは、住宅と小さな工場が混在する地域だった。


古い住所の建物は、すでに取り壊されている。


跡地には、新しい集合住宅が建っていた。


アポロンは周囲を歩き、地形を確かめた。


かつての道は、現在の道路から少し外れたところを通っていたらしい。


その先には、小さな空き地があった。


草が伸び、隅には古い石垣が残っている。


アポロンが近づいたとき、スマートフォンが震えた。


美咲からだった。


『着いた?』


彼は返信しようとした。


その瞬間、画面が暗くなった。


電源が切れたわけではない。


画面の中央に、白い文字が浮かんでいた。


『対象者、接近を確認』


続いて、もう一行。


『前回の記録との照合を開始』


アポロンは、空き地の奥を見た。


草の向こうに、細い道が伸びている。


地図にはない。


しかし、その道は、古い石碑の裏手へ続いているように見えた。


そして、道の入口に、一人の女性が立っていた。


年齢は分からない。


薄い灰色の服を着て、手には古い置き時計を抱えている。


女性はアポロンを見つめた。


「あなたが、アポロンさん?」


「そうです。あなたは?」


女性は答えなかった。


代わりに、抱えていた時計を少し持ち上げた。


文字盤の針は、十一時五十九分を指していた。


「これを、直していただけませんか」


アポロンは時計を見た。


「私は時計職人ではありません」


「知っています」


女性は、静かに言った。


「でも、あなたなら直せるはずです」


「なぜ、そう思うのですか?」


女性は初めて、笑った。


その表情を見た瞬間、アポロンは気づいた。


彼女の顔は、古い住所録に書かれた名前の人物を知っているわけではないのに、写真の中の誰かを思い出させた。


三十七年前の家族写真。


玄関に立つ、黒い服の男。


女性は時計を抱えたまま、言った。


「だって、時間を作ったのは、あなたでしょう?」


その言葉の直後、空き地の奥で、鐘の音が鳴った。


アポロンは女性から目を離さなかった。


彼女の背後に伸びる道が、ゆっくりと暗くなっていく。


そして、道の奥から、聞き覚えのある声がした。


『アポロン』


昨夜、電話の向こうから聞こえた声だった。


『今度は、こちらへ来い』


女性は、時計を抱え直した。


「急いでください」


彼女の声が、わずかに震えた。


「次に時計が動かなくなったら、今度は誰も戻れません」


アポロンは、道の奥を見た。


彼はまだ、何が待っているのか知らない。


だが、ここで引き返せば、次に何が起きるかを知る機会さえ失うかもしれなかった。


「あなたのお名前を、教えてください」


女性は、ほんの一瞬だけ迷った。


「山本千代です」


三十七年前、時計を預けた女性。


本人確認ができなかったと記録された女性。


その人物が、今、目の前にいる。


アポロンは一歩、道へ踏み出した。


その瞬間、背後で、何かが閉じる音がした。


振り返ると、空き地へ続いていたはずの入口が消えていた。


そして、アポロンの手元にあるスマートフォンには、最後の一文が表示されていた。


『観測者、境界内に進入』


画面は、そこで暗転した。

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