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神様は、明日を知らない』 ――全知全能の神が、人間になった理由――  作者: 亀


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第一二九章 呼びかける声

黒田恵子と別れたあと、アポロンはすぐに帰宅しなかった。


写真に写っていた腕時計。


十一時五十九分を指す針。


三十七年前、黒田修一が帰還した夜に止まった時計。


偶然と考えるには、共通点が多すぎた。


しかし、まだ分からないこともある。


あの時計が異常の原因なのか。それとも、異常が時計に影響を与えているだけなのか。


そして、黒い服の男は、黒田修一とどのような関係にあるのか。


アポロンは、歩きながらスマートフォンを取り出した。


美咲からメッセージが届いていた。


『今日、少し遅くなります。夕飯は先に食べていても大丈夫です』


アポロンは短く返信した。


『分かりました。気をつけて帰ってください』


送信してから、彼は画面を見つめた。


以前なら、美咲がどこにいて、何をしていて、いつ帰ってくるのかを知ることは簡単だった。


今は違う。


返信が来るかどうかも、帰宅が何時になるかも分からない。


その不確かさを、彼はすでに何度も経験している。


けれど今日は、いつもと少し違った。


誰かが自分の帰りを待っていることと、誰かが自分の帰りを妨げていること。


その二つが、同じ「帰る」という言葉で結ばれている。


アポロンはスマートフォンをしまった。


今は、考え続けるより先に確かめるべきことがあった。


黒田修一が行方不明になる前、あの腕時計はどこにあったのか。


そして、現在の異常と、どうつながっているのか。


          *


翌朝、アポロンは警察から新しい連絡を受けた。


田中亮介が、昨夜、駅で再び異常を経験したという。


今回は、名前を呼ばれただけではなかった。


改札を通ろうとした瞬間、駅構内の案内表示が一斉に消えた。


照明はついていた。


人々も普段どおり歩いていた。


しかし、亮介には、改札の向こう側に見覚えのない通路が見えたという。


そこから、自分の名前を呼ぶ声が聞こえた。


亮介は立ち止まった。


そのとき、隣にいた会社員が彼の肩を叩いた。


「大丈夫ですか?」


声をかけられた瞬間、通路は消えた。


案内表示も元に戻っていた。


亮介は恐ろしくなり、そのまま駅員に事情を説明したらしい。


警察は、神社での出来事との関連を調べていた。


アポロンは、亮介本人と話したいと申し出た。


午後、警察署の会議室で、二人は向かい合った。


亮介は三十代半ばの、ごく普通の会社員だった。


目の下に薄い隈ができている。


「すみません。わざわざ来てもらって」


「謝る必要はありません。お話を聞かせてください」


「警察の方から、あなたも同じようなものを見たと聞きました」


「はい。神社の参道で、普通には見えない場所を確認しました」


「やっぱり、あるんですね」


亮介は安堵したように息を吐いた。


「自分だけがおかしくなったのかと思っていました」


「見えたものについて、もう少し詳しく教えていただけますか」


亮介は、駅での出来事を順番に説明した。


改札の向こうに、見たことのない通路があった。


壁は白く、天井には照明が並んでいた。


床には継ぎ目がなく、奥へ行くほど暗くなっていた。


そして、通路の奥から声がした。


「その声は、あなたの名前を呼んだのですか?」


「はい。最初は小さかったんです。でも、聞き間違いじゃないと分かるくらい、はっきり聞こえました」


「どのような声でしたか?」


亮介は少し考えた。


「自分の声に、似ていました」


アポロンは目を細めた。


「あなた自身の声ですか」


「録音した自分の声って、普段聞いている声と違うじゃないですか。あれに近い感じです。でも、もっと……」


亮介は言葉を探した。


「自分が、自分に話しかけているような感じでした」


「何と言われたのでしょう」


「名前を呼ばれただけです。そのあと、向こうへ来い、と」


「あなたは、通路に入ろうとしたのですか?」


「一歩、踏み出しました」


亮介は自分の足元を見た。


「でも、そのとき肩を叩かれたんです。駅員さんに話したら、そんな通路はないと言われました。防犯カメラにも、何も映っていなかったそうです」


「その通路を見たとき、ほかの人はどうしていましたか?」


「普通に歩いていました。誰も気づいていないみたいでした」


アポロンは黙って考えた。


神社では、同じ場所にいる人間でも、見えるものが異なっていた。


写真に写るものと、肉眼で見えるものも一致しない。


今回も同じだった。


ただし、亮介の話には一つ、これまでになかった点がある。


通路の向こうから聞こえた声が、本人の声に似ていたことだ。


「田中さん。神社で名前を呼ばれたときも、同じ声でしたか?」


「いいえ。あのときは、知らない男の声でした」


「その男性の姿は見ましたか?」


「見ていません。でも……」


亮介は顔を上げた。


「神社で声を聞いたあと、夢を見たんです」


「夢、ですか」


「知らない場所に立っていました。長い通路があって、その先に誰かがいるんです。顔は見えませんでした。ただ、その人が時計を持っていました」


アポロンの意識が、そこで止まった。


「どのような時計でしたか?」


「古い腕時計です。銀色の金属で、文字盤が丸い」


「針は何時を指していましたか?」


亮介は眉を寄せた。


「十一時五十九分だったと思います」


会議室の空気が、わずかに重くなった。


アポロンは表情を変えなかった。


しかし、三十七年前の記録と、黒田家の証言、そして写真に写る腕時計が、一本の線でつながり始めていた。


「田中さん。その夢を見たのは、いつですか?」


「一昨日の夜です」


「それ以前にも、同じ夢を?」


「ありません。初めてです」


「分かりました。ありがとうございます」


アポロンは、それ以上、無理に聞き出そうとはしなかった。


亮介は、帰り際に一度だけ振り返った。


「一つ、聞いてもいいですか」


「どうぞ」


「もし、また声が聞こえたら……どうすればいいんでしょう」


アポロンはすぐには答えなかった。


声の正体も、通路の仕組みも、まだ分からない。


ここで安全を保証することはできない。


「一人で確かめに行かないでください。声が聞こえた場所と時間を記録して、警察に知らせてください」


「それだけでいいんですか?」


「今、確実にできるのは、それです」


亮介は不安そうな顔をしていたが、やがて頷いた。


「分かりました。ありがとうございます」


彼が部屋を出たあと、アポロンは警察官に一つ頼んだ。


「黒田修一さんが失踪する前に所有していた腕時計について、記録を調べていただけませんか」


「腕時計ですか?」


「はい。型番や購入先、修理記録など、何でも構いません」


「調べてみます。ただ、三十七年前のことですから、記録が残っているかは分かりません」


「それでも、お願いします」


          *


その日の夕方、アポロンが働く食堂に、警察から電話が入った。


黒田修一の父親が、腕時計を購入した店を記録に残していたという。


店はすでに閉店していたが、経営者の息子が現在も時計修理の仕事を続けているらしい。


さらに、警察が古い記録を確認したところ、黒田が帰還した翌日、近隣の時計店に一件の修理依頼があったことが分かった。


依頼主の名前は、記録されていない。


修理内容は、腕時計の時刻調整。


持ち込まれた時計は、午前十一時五十九分で止まっていた。


そして、修理を担当した職人の記録には、短い一文が残されていた。


『針は正常。動力にも異常なし。時刻を合わせても、すぐに十一時五十九分へ戻る』


アポロンは、その記録を読み終えた。


時計そのものが壊れていたわけではない。


時刻を直しても、同じ場所へ戻る。


まるで、時間のほうが時計を引き戻しているかのようだった。


彼は店の仕事を終え、帰宅してから美咲に話した。


もちろん、すべてではない。


まだ確かめられていないことまで話せば、美咲を余計に不安にさせるかもしれない。


「また、神社のこと?」


美咲は夕食の準備をしながら尋ねた。


「はい。少し、手がかりが見つかりました」


「よかった、と言っていいのかな」


「まだ分かりません」


「そうだよね」


美咲は包丁を置き、彼を見た。


「アポロン。前にも言ったけど、一人で全部抱え込まないでね」


「分かっています」


「本当に?」


アポロンは少し考えた。


「……気をつけます」


「それ、分かってないときの返事に聞こえる」


美咲は苦笑した。


アポロンも、わずかに口元を緩めた。


いつもと変わらない会話だった。


それでも、彼は以前よりも、自分の言葉が相手にどう聞こえるかを考えるようになっていた。


「美咲さん」


「何?」


「もし、私が何も説明できないまま、どこかへ行かなければならなくなったら、どうしますか?」


美咲の手が止まった。


「急に、どうしたの?」


「仮定の話です」


「仮定でも、あまり聞きたくない質問だな」


彼女は少し困ったように笑った。


「でも、行かなきゃいけない理由があるなら、止められないかもしれない」


「理由が分からなくても?」


「理由も分からないのに、何も言わずにいなくなるのは困るよ」


美咲は再び包丁を手に取った。


「せめて、帰ってくるつもりなのかどうかくらいは、教えてほしい」


アポロンは返事をしなかった。


神であったころの自分なら、帰ることも、戻ることも、望むとおりに決められた。


しかし、今は違う。


少なくとも、あの通路の向こう側については。


「……分かりました」


彼はそう答えた。


その夜、日付が変わる少し前。


アポロンは机の上に、黒田家の写真と、時計修理の記録を並べていた。


十一時五十八分。


部屋の時計は、正常に動いている。


彼は、針が進むのを見つめていた。


十一時五十九分。


その瞬間、スマートフォンが震えた。


画面には、登録されていない番号が表示されていた。


アポロンは通話を受けた。


「もしもし」


返事はなかった。


代わりに、かすかな雑音が聞こえた。


その奥から、誰かが歩く音がする。


一歩。


また一歩。


そして、低い声が響いた。


『アポロン』


自分の名だった。


『ようやく、見つけた』


アポロンは静かに尋ねた。


「あなたは誰ですか」


数秒の沈黙。


やがて、相手は答えた。


『それを知りたいのは、こちらも同じだ』


通話の向こうで、時計の針が動く音がした。


『お前は、本当に人間になったのか?』


その言葉と同時に、部屋の時計が止まった。


十一時五十九分。


アポロンは、動かなくなった針を見た。


そして、通話の向こう側にいる存在へ、初めて自分から問いかけた。


「あなたは、私が何者だったのかを知っているのですね」


返事はなかった。


代わりに、電話の向こうで、誰かが小さく笑った。


『知っているとも』


次の瞬間、通話が切れた。


時計は止まったままだった。


アポロンは、しばらくその場から動かなかった。


相手は自分の名前を知っている。


自分が人間になったことも知っている。


そして、三十七年前から続く異常の中心に、何らかの形で関わっている。


彼は、机の上の写真に目を向けた。


玄関に立つ黒い服の男。


その左手首には、十一時五十九分を指す腕時計がある。


アポロンは写真を手に取った。


「……あなたは、誰なのですか」


今度は、誰も答えなかった。


けれど、彼はもう、相手が自分を見つけるのを待つつもりはなかった。


明日、あの時計を調べた職人のもとへ行く。


そして、三十七年前に何が起きたのかを、自分の足で確かめる。


時計の針が動き出したのは、午前零時を過ぎてからだった。

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