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神様は、明日を知らない』 ――全知全能の神が、人間になった理由――  作者: 亀


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第一二八章 写真の中の男

アポロンは、写真を何度も拡大していた。


黒い服の男。


三十七年前の家族写真に写っているにもかかわらず、昨日、神社の参道で見た人影とよく似ている。


顔立ちを確認しようとしても、古い写真の解像度では限界があった。


それでも、一つだけ気になる点があった。


男の足元だった。


玄関の敷居に立っているように見えるのに、床には影がない。


照明の向きや写真の劣化によるものかもしれない。


アポロンは、画像だけで結論を出さないことにした。


翌朝、警察から紹介された黒田家の親族と連絡が取れた。


現在も大阪に住んでいる、黒田修一の妹だった。


名前は黒田恵子。


事件当時、彼女はまだ二十代だったという。


アポロンは、指定された喫茶店へ向かった。


店内の窓際に、一人の女性が座っていた。


白髪が増え、顔には年齢相応の皺が刻まれている。


けれど、目元には、写真に写っていた家族の面影が残っていた。


「黒田恵子さんでしょうか」


「はい。あなたが、警察から連絡を受けた方?」


「アポロンと申します」


「お話は聞いています。兄のことを調べているんですよね」


「はい。三十七年前の出来事について、少し教えていただきたいと思っています」


恵子は、しばらく彼の顔を見つめていた。


「正直に言うと、もう誰かに話すことはないと思っていました」


「無理にお話しいただく必要はありません」


「いいえ。今になって調べる人がいるなら、話しておこうと思います」


彼女は鞄から、小さな写真立てを取り出した。


中には、昨日送られてきたものと同じ家族写真が入っていた。


「これは、兄がいなくなる二日前に撮った写真です」


「玄関に立っている男性について、何かご存じですか?」


恵子は写真を見た。


そして、ゆっくり首を横に振った。


「知りません。あの人が誰なのか、家族の誰も分からなかったんです」


「撮影したとき、その男性は実際にそこにいたのでしょうか」


「それが……」


恵子は言葉を切った。


「写真を撮ったとき、玄関には誰もいませんでした」


アポロンは彼女を見つめた。


「誰も、ですか?」


「はい。兄がカメラを持って、家族全員で撮ったんです。玄関の向こう側は、撮影した場所からも見えていました。でも、あんな人はいませんでした」


「写真を現像したあと、初めて気づいたのでしょうか」


「そうです。最初は、どこかの家族が間違って写ったのかと思いました。でも、誰も知らない人でした」


「警察には相談されたのですか?」


「兄がいなくなったあとに、写真も見せました。でも、事件と関係があるとは判断されませんでした」


恵子は写真立てをテーブルに置いた。


「それよりも、私たちには、もっと大きな問題があったんです」


「お兄様が帰ってきたときのことでしょうか」


彼女は頷いた。


「兄は、翌日の夕方に見つかりました」


「ご家族が、本人だと認めなかったという記録があります」


「ええ」


恵子は、窓の外へ視線を向けた。


「顔は同じでした。声も同じ。昔のことも、家族しか知らない話も、全部覚えていました」


「それでも、違うと感じたのですね」


「はい」


彼女は、しばらく黙っていた。


「兄は、帰ってきてから、私たちのことを一度も名前で呼ばなかったんです」


アポロンは、静かに聞いていた。


「私のことも、母のことも、父のことも。全部、以前と同じ呼び方でした。でも、そこに私たちがいることを、確かめようともしなかった」


「どういうことでしょうか」


「例えば、母が泣いていても、兄は何も聞きませんでした。父が怒っていても、理由を尋ねませんでした。私が、兄がいなくなってからどれだけ心配したか話しても、ただ聞いているだけでした」


恵子は唇を結んだ。


「兄は、私たちのことを知っていました。でも、私たちに会いたいと思っていたようには見えなかったんです」


アポロンは、その言葉をすぐには理解できなかった。


知っていることと、会いたいと思うこと。


それらは、同じではない。


自分もまた、長いあいだ、世界のすべてを知りながら、誰かと一緒にいたいという気持ちを知らなかった。


「その後、お兄様はどうされたのですか?」


「三日後、いなくなりました」


「再び行方不明になったのですか」


「いいえ。今度は、誰も見ていなかったんです。朝、部屋で寝ていたはずなのに、昼になったらいなくなっていました。窓も玄関も閉まっていました」


「その後、見つかったのでしょうか」


「いいえ。一度も」


恵子は写真立てを鞄に戻した。


「だから、私たちは思ったんです。あれは、兄ではなかったんじゃないかって」


アポロンは黙っていた。


本人と同じ顔。


本人と同じ記憶。


しかし、本人のようには見えなかった存在。


もし、それが本当なら、三十七年前に黒田修一が帰還したという記録そのものを、見直す必要がある。


「もう一つ、伺ってもよろしいでしょうか」


「何でしょう」


「お兄様が戻ってきたとき、何か変わったものはありませんでしたか。持ち物や、身につけていたものなど」


恵子は考え込んだ。


「……時計です」


「時計?」


「兄は、いつも腕時計をしていました。父が就職祝いに贈ったものです。でも、帰ってきたときには、なくなっていました」


「どこかで失くした可能性は?」


「兄は、あの時計を大事にしていました。出かけるときも、寝るときも、ほとんど外さなかったんです」


彼女は少し考えてから、付け加えた。


「それと、帰ってきた日の夜、家の時計が全部止まったんです」


アポロンの視線が変わった。


「全部、ですか?」


「居間も、台所も、父の部屋も。腕時計まで止まっていました。翌朝には動き始めたんですけど」


「何時に止まったのでしょうか」


「確か……十一時五十九分だったと思います」


アポロンは息を止めた。


昨夜、自分の部屋で起きたことと同じだった。


十一時五十九分。


午前零時の手前。


「黒田さん。そのとき、ご家族は何かを聞きませんでしたか?」


「何を、ですか?」


「誰かの声や、名前を呼ぶ声です」


恵子は顔を上げた。


その反応だけで、アポロンには十分だった。


「……兄が、誰かと話していたんです」


「お兄様が?」


「はい。部屋で一人だったはずなのに、誰かに返事をしていました」


「どのようなことを?」


恵子は目を閉じた。


長い時間が経っている。


それでも、その声は彼女の記憶に残っていた。


「『まだ帰れない』って」


アポロンは動かなかった。


「それから、こう言ったんです」


恵子は、ゆっくりと続けた。


「『あの人がいないと、帰れない』って」


喫茶店の窓から、電車の音が聞こえた。


人々が歩いている。


誰かが笑い、誰かが電話をし、誰かが次の予定へ向かっていく。


世界は、何も変わっていないように見えた。


けれど、アポロンは気づいていた。


三十七年前にも、午前零時の手前で時計が止まった。


帰還したとされる人物は、家族の知る本人とは違っていた。


そして、誰かがいないと帰れないと言った。


その人物が指していた「あの人」とは、誰なのか。


アポロンは礼を述べ、喫茶店を出た。


帰り道、彼はスマートフォンを取り出した。


保存してある写真を開く。


玄関の向こうに立つ、黒い服の男。


今度は、顔ではなく、その手元を拡大した。


男の左手首に、何かが巻かれている。


腕時計だった。


古い金属製の腕時計。


文字盤は光の反射で見えない。


しかし、時計の針は、十一時五十九分を指しているように見えた。


アポロンは、足を止めた。


三十七年前に失われた腕時計。


家族写真に写った見知らぬ男。


そして、今も続く異常。


それらが同じものにつながっているのなら、次に確かめるべきことは一つだった。


あの男は、誰なのか。


そして、なぜアポロンがいなくなったことを知っているのか。


彼は写真を保存し、スマートフォンをしまった。


今度は、相手がこちらを観測しているだけではない。


こちらもまた、相手の痕跡をつかみ始めていた。

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