第一二七章 次の対象
翌朝、アポロンは目覚ましが鳴る前に目を覚ました。
枕元のスマートフォンには、昨夜撮影したスクリーンショットが残っている。
――帰還者、接続を確認。
――次の対象を選定中。
二つの文章は、昨夜から一度も変わっていなかった。
彼は画像を開き、文字の位置や表示された時間を確認した。
午前十時四十二分。
仕事中だった。
スマートフォンを操作していた時間とも一致している。
誰かが遠隔で画面を書き換えた可能性はある。しかし、通常の方法で説明できるのかどうかも分からない。
アポロンは画像を保存し、スマートフォンを置いた。
調査を続ける必要がある。
ただし、次に何を調べるべきなのかは、慎重に決めなければならなかった。
朝食の席で、美咲が尋ねた。
「昨日の文字、もう一度出た?」
「いいえ。保存した画像には残っています」
「警察には伝えた?」
「電話のことは伝えましたが、画像のことはまだです」
「じゃあ、それも伝えたほうがいいね」
「そうします」
美咲は少し迷ってから、続けた。
「それと、昨日の話を聞いてから考えていたんだけど」
「はい」
「次の対象って、人のことなのかな」
アポロンは彼女を見た。
「どういう意味ですか?」
「黒田さんが帰還者って呼ばれていたから、次も誰かが、あの場所から戻ってくるってことなのかなって」
「その可能性はあります」
「それとも、今度は誰かがいなくなるのかもしれない」
美咲は断定しなかった。
ただ、考えられる可能性を口にしただけだった。
アポロンは、その違いを意識した。
彼自身も、文字を見た瞬間から、次に誰かが行方不明になる可能性を考えていた。
しかし、「対象」という言葉が何を指すのかは分からない。
人間なのか。
場所なのか。
あるいは、何か別のものなのか。
「美咲さん。昨日、神社の写真を送ってくれた方のお名前を教えていただけますか?」
「もちろん。連絡してみるね」
美咲はスマートフォンを手に取った。
数分後、相手から返信が届いた。
名前は、田中亮介。
美咲の職場の知人で、神社の近くを通勤に利用している男性だった。
昨日の写真は、通勤途中に何気なく撮影したものだという。
「その人、今日は普通に出勤してるみたい」
美咲が言った。
「写真を撮ったあと、何か変わったことはなかったのでしょうか」
「聞いてみる」
しばらくして、再び返信が届いた。
田中は、今朝も同じ道を通った。
しかし、神社の前で奇妙なことがあったらしい。
彼が鳥居の前を通り過ぎようとしたとき、境内から自分の名前を呼ぶ声が聞こえた。
振り返っても、誰もいなかった。
彼は気味が悪くなり、そのまま立ち去ったという。
美咲は画面をアポロンに見せた。
二人は顔を見合わせた。
「昨日、写真に写っていた人影が関係しているのでしょうか」
「分からない。でも、警察には知らせたほうがいいと思う」
「はい」
アポロンは、田中に直接連絡を取る前に、まず美咲から事情を確認してもらうことにした。
無関係な人間を、必要以上に巻き込むべきではない。
しかし、彼が実際に声を聞いたのなら、重要な証言になる可能性がある。
朝食を終え、二人はそれぞれの予定に向かった。
アポロンが店に着くと、健一はすでに警察からの連絡を受けていた。
「昨日の電話の件、担当の人から確認があったよ」
「私にですか?」
「いや、店に問い合わせがあったわけじゃない。俺が、神社の近くで起きたことを知っているか聞かれたんだ」
健一は声を落とした。
「それで、今朝も変なことがあったらしい」
アポロンは顔を上げた。
「何があったのでしょうか」
「神社の前を通った人が、誰もいない境内から自分の名前を呼ばれたそうだ」
「その方のお名前は?」
「田中さんという人らしい。詳しいことは警察が確認している」
アポロンは、健一を見つめた。
美咲から聞いた話と一致している。
偶然にしては、出来事が続きすぎていた。
「健一さん。少し相談があります」
「何だ?」
「これから先、神社の異常について、何か新しい情報があれば教えていただけませんか」
健一はすぐには答えなかった。
「もちろん、分かる範囲なら協力する。ただし、アポロン」
「はい」
「何かあったときに、全部自分で確かめようとするなよ」
「……分かりました」
「俺たちには俺たちにできることがある。警察が調べることもある。無理に一人で背負う必要はない」
健一は、それ以上説明しなかった。
アポロンは静かに頷いた。
昼の営業が始まると、店は忙しくなった。
客の注文を取り、料理を運び、食器を片づける。
いつもと変わらない仕事だった。
しかし、午後一時過ぎ。
店の入口に、一人の男性が立った。
年齢は三十代半ばほど。
黒い上着を着て、片手に古い紙袋を持っている。
男性は店内を見回したあと、アポロンに声をかけた。
「すみません。少し、お話を伺ってもよろしいでしょうか」
「はい。どのようなご用件でしょうか」
男性は名刺を差し出した。
警察署の生活安全課に所属する職員だった。
「昨日、神社で起きた件について、確認したいことがあります」
アポロンは名刺を受け取った。
「分かりました」
「お仕事中に申し訳ありません。短時間で構いませんので、こちらでお話しできますか」
健一が厨房から顔を出した。
事情を説明すると、健一は休憩時間を調整してくれた。
アポロンは男性と店の奥へ移動した。
「まず、昨日、神社の参道で何を見たのか、改めて教えていただけますか」
アポロンは、見たものを順番に説明した。
途切れた参道。
奥に立っていた人影。
そして、警察官が倒れる直前に口にした言葉。
男性はメモを取りながら聞いていた。
「その警察官は、あなたに向かって何と言ったのですか」
「『あなたが、いなくなったから』と」
男性のペンが止まった。
「……そうですか」
「何か、ご存じなのですか?」
男性はすぐには答えなかった。
代わりに、持っていた紙袋から一枚の書類を取り出した。
古い新聞記事のコピーだった。
「実は、昨日の件を調べていたところ、過去の類似事例が見つかりました」
アポロンは書類を受け取った。
そこには、三十七年前の行方不明事件について書かれていた。
彼がすでに確認した記事と同じものだった。
しかし、今回のコピーには、新聞記事の余白に手書きの文字が残されていた。
『対象者の証言は削除』
その下に、別の一文がある。
『帰還後、本人確認不能』
アポロンは顔を上げた。
「この書き込みは、誰が?」
「それが分からないのです。原本を保管していた方も、書いた人物を覚えていないそうです」
男性は慎重に言葉を選んだ。
「ただ、当時の資料には、もう一つ気になる記録がありました」
「何でしょうか」
「行方不明になった人々のうち、一人だけ、発見後に家族が本人だと認めなかったという記録です」
アポロンの視線が、再び書類に戻った。
「黒田修一さんですか?」
男性は驚いたように顔を上げた。
「その名前をご存じなのですか」
「古い新聞記事で確認しました」
男性は頷いた。
「はい。黒田修一さんです。発見されたあと、家族は彼を本人だと認めなかった。しかし、警察の記録上は、本人と判断されている」
「理由は分かっているのでしょうか」
「残念ながら、詳しい記録は残っていません」
男性は書類を指さした。
「ただ、家族が当時、こう話したという記録があります」
アポロンは、その一文を読んだ。
『顔も、声も、記憶も同じだった。それでも、あれは私たちの知っている修一ではない』
部屋の中が静かになった。
三十七年前に帰還した男。
三日しか経っていないと語った男。
そして、電話の向こうで「見つけた」と言った声。
アポロンは、初めて別の可能性を考えた。
黒田修一は、本当に元の世界へ帰ってきたのだろうか。
それとも、帰ってきたように見える何かが、彼の代わりに現れたのだろうか。
「もう一つ、確認させてください」
アポロンは男性を見た。
「この記録にある『対象者』とは、何を意味しているのでしょうか」
男性は首を横に振った。
「現時点では分かりません。ただ、当時の担当者が、通常の行方不明事件とは別の扱いをしていた可能性があります」
話はそこで終わった。
男性は礼を言って店を出た。
アポロンは、しばらく書類の内容を思い返していた。
顔も、声も、記憶も同じ。
それでも、本人ではない。
もし、家族の証言が正確なら、問題は時間の経過だけではない。
向こう側から戻ってきたものが、本当に元の人間なのか。
それすら、確かではないのだ。
夕方、アポロンは美咲と合流した。
彼女は、田中から追加の連絡を受けていた。
「田中さん、警察に話をしたみたい。今のところ、体調に問題はないって」
「そうですか」
「でもね、もう一つ聞いたことがあるの」
美咲はスマートフォンを見せた。
田中は、神社で名前を呼ばれたあと、帰り道にもう一度、自分の名前を聞いたという。
今度は、神社とはまったく関係のない場所だった。
駅のホーム。
電車を待っていたとき、背後から声がした。
『亮介』
振り返っても、誰もいなかった。
その瞬間、ホームの案内表示が一度だけ消えた。
すぐに元へ戻ったため、周囲の人々はほとんど気に留めなかったらしい。
「神社から離れても、起きているんだね」
美咲が言った。
「はい」
アポロンは画面を見つめた。
異常は、境内の中だけにとどまっていない。
名前を呼ぶ声が聞こえる場所も、少しずつ広がっている可能性がある。
そして、昨日現れた文字。
――次の対象を選定中。
アポロンは、その意味を考えた。
次の対象とは、田中亮介なのだろうか。
それとも、すでに別の誰かが選ばれているのか。
答えはまだない。
その夜、二人が夕食を終えたあと、アポロンのスマートフォンが鳴った。
今度は、着信ではなかった。
警察からのメッセージだった。
『先ほど、黒田修一氏の親族に関する追加資料が見つかりました。確認をお願いしたいことがあります』
アポロンは画面を開いた。
添付されていたのは、古い家族写真だった。
三十七年前に撮影されたものらしい。
写真には、黒田修一と思われる男性と、その家族が写っていた。
しかし、アポロンの目を引いたのは、男性の顔ではなかった。
写真の一番奥。
家族の背後にある、開いた玄関の向こう側。
そこに、一人の男が立っていた。
黒い服。
見知らぬ顔。
そして、その男の姿は、昨日、神社の参道で見た人影とよく似ていた。
写真の日付は、三十七年前の事件が起きる二日前だった。
アポロンは画面を拡大した。
男はカメラを見ていなかった。
黒田修一を、じっと見つめていた。
まるで、彼がいなくなる日を知っていたかのように。
その写真が何を意味するのか。
まだ、分からない。
ただ一つ確かなことがあった。
神社の異常は、三十七年前に突然始まったのではない。
少なくとも、その二日前には、すでに誰かがそこにいた。
そして、その男は今も、同じ姿で現れている可能性があった。




