第一二六章 呼ばれた名前
翌朝、アポロンのスマートフォンに、見覚えのない番号から電話がかかってきた。
午前七時十二分。
美咲はまだ朝食の準備をしている。
アポロンは画面を見つめた。
知らない番号からの電話に出るかどうか。
人間になってから、何度か考えたことのある問題だった。
しかし、今回は少し違った。
電話が鳴り続けるあいだ、彼は相手の名前を知ろうとはしなかった。
代わりに、通話ボタンを押した。
「もしもし」
返事はなかった。
かすかな雑音だけが聞こえる。
「もしもし。どなたでしょうか」
数秒後、男の声がした。
『……アポロン』
彼は動きを止めた。
相手は、自分の名前を知っていた。
人間として暮らし始めてから、知り合いは増えた。店の客も、近所の人も、名前を知っている者はいる。
だが、この声には聞き覚えがなかった。
「どちら様ですか」
『やっと、つながった』
男は質問に答えなかった。
声はひどく疲れているように聞こえた。
『聞こえているんだろう? なら、今度は最後まで聞いてくれ』
「何をですか」
『あの場所へ行くな』
アポロンは窓の外を見た。
朝の街は、いつもどおりだった。
『神社の奥だ。あそこへ行ってはいけない』
「あなたは、あの場所について何を知っているのですか」
『知っているから言っている』
「お名前を教えてください」
しばらく沈黙が続いた。
やがて、男が答えた。
『黒田修一』
アポロンは、スマートフォンを握る手に力を込めた。
三十七年前、行方不明になった男。
証言だけが記録に残っていなかった人物。
「あなたは、三十七年前に行方不明になった方ですか」
『……そうか。もう、そんなに経ったのか』
男は驚いた様子もなく答えた。
『こっちでは、まだ三日しか経っていない』
アポロンは言葉を失った。
三日。
三十七年と三日。
その差が何を意味するのか、今の情報だけでは判断できない。
「あなたは今、どこにいるのですか」
『分からない』
「分からない?」
『帰ろうとしたんだ。何度も。だけど、戻れなかった』
男の声が、少しずつ乱れていく。
『道はある。街も見える。人の声も聞こえる。なのに、誰も俺に気づかない』
「昨日、神社の奥にいた人影は、あなたですか」
返事が途切れた。
雑音が強くなる。
『……見えたのか』
「はい」
『なら、まだ間に合うかもしれない』
「何が間に合うのですか」
男は答えず、何かを確かめるように息を潜めた。
その直後、電話の向こうから別の声が聞こえた。
遠くから呼びかけるような、かすかな声だった。
『修一』
黒田の呼吸が止まった。
『……来た』
「誰が来たのですか」
『俺の名前を呼んでいる』
男の声が震えた。
『あいつは、俺が帰りたいと思っていることを知っている。だから、何度も呼ぶんだ』
「電話を切らないでください。あなたの話を聞かせてください」
『アポロン』
男は初めて、はっきりと彼の名前を呼んだ。
『お前は、何をした?』
その問いに、アポロンは答えられなかった。
自分が人間になったこと。
世界のどこかで異常が起きていること。
それらに関係があるのかもしれない。
しかし、まだ確かなことは何もない。
『……そうか』
黒田は、返事を待たずに呟いた。
『お前も知らないんだな』
電話の向こうで、足音が聞こえた。
一歩。
また一歩。
黒田から遠ざかるのではなく、こちらへ近づいてくるような音だった。
『まずい』
「黒田さん?」
『聞いてくれ。もし、あそこに行くなら――』
突然、男の声が途切れた。
雑音が消えた。
通話は続いている。
それなのに、何も聞こえない。
アポロンは呼びかけた。
「黒田さん。聞こえますか」
返事はない。
その代わり、別の声がした。
今度は、ひどく近かった。
『見つけた』
通話が切れた。
アポロンは、画面を見つめたまま動かなかった。
午前七時十七分。
わずか五分間の通話だった。
だが、その中で語られた内容は、これまでの推測を大きく変えるものだった。
黒田修一は、三十七年前に行方不明になったあと、今もどこかで生きている可能性がある。
少なくとも、彼の名前を使って電話をかけてきた何者かがいる。
そして、その何者かは、アポロンを知っている。
「アポロン?」
美咲が、食卓から声をかけた。
「どうしたの?」
彼は振り返った。
「電話がありました」
「誰から?」
「黒田修一と名乗る男性です」
美咲は手を止めた。
「それって、昨日の……?」
「はい」
アポロンは、電話で聞いたことを伝えた。
三十七年。
三日。
帰れない場所。
名前を呼ぶ声。
美咲は最後まで聞いてから、ゆっくりと椅子に座った。
「その人、本当に生きているのかな」
「分かりません」
「電話番号は?」
「記録されています」
アポロンは着信履歴を見せた。
美咲は番号を確認し、少し考えた。
「警察に伝えたほうがいいと思う」
「私も、そう考えています」
「一人で神社に行くのは?」
「今は、行かないつもりです」
美咲は頷いた。
「なら、まずは電話のことを伝えよう。相手が本当に黒田さんなら、三十七年前の行方不明事件とも関係があるかもしれないから」
アポロンは、彼女を見た。
神だった頃の自分なら、すべてを知ることができた。
黒田修一がどこにいるのか。
電話の向こうで何が起きていたのか。
そして、あの声の正体が何なのか。
今なら、それらを無理にでも確かめようとすることはできる。
だが、彼はそうしなかった。
分からないことを、他者と共有する。
人間として暮らすなかで覚えた、もう一つの方法だった。
その日の午前中、アポロンは警察へ連絡した。
電話の記録と、黒田修一を名乗る男性の発言を説明する。
担当者は慎重な口調で応じ、着信履歴を保存するよう伝えた。
ただし、電話番号の発信元がどこなのか、すぐに特定することはできないという。
「何か分かれば、こちらから連絡します」
通話は、それで終わった。
午後、店で仕事をしていると、アポロンのスマートフォンに新しい通知が届いた。
保存していた石碑の写真だった。
誰も送っていない。
自動的に画像が開かれた。
記号の下に、一行の文字が浮かんでいる。
――帰還者、接続を確認。
アポロンは、画面を見つめた。
その下に、もう一行が現れた。
――次の対象を選定中。
文字は、数秒後に消えた。
彼はすぐにスクリーンショットを撮った。
今度は、文字が画像に残っていた。
アポロンはスマートフォンを閉じ、厨房を見た。
健一が客の注文を聞いている。
佐藤が料理を運んでいる。
店の中には、普段と変わらない声が響いていた。
だが、アポロンには分かっていた。
これは、神社の奥だけで起きている現象ではない。
何かが、こちら側にまで手を伸ばし始めている。
そして、次の対象が誰なのか。
その答えを、彼はまだ知らなかった。




