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神様は、明日を知らない』 ――全知全能の神が、人間になった理由――  作者: 亀


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第一二五章 帰ってきた人

店に戻ってからも、アポロンの頭から警察官の言葉は離れなかった。


――あなたが、いなくなったから。


あの男は、何を知っていたのだろう。


神社の奥にいた人影と、警察官が見たものは同じなのか。


そして、三十七年前に行方不明になった黒田修一は、今もどこかにいるのだろうか。


「アポロン、五番テーブル」


佐藤の声で、意識が現実に戻った。


「注文をお願いします」


「失礼しました」


アポロンは伝票を受け取り、料理を運んだ。


考え事をしていても、仕事は待ってくれない。


昼の営業が終わったあと、健一が水を飲みながら尋ねた。


「神社で何かあったのか?」


「警察官が倒れました」


「倒れた?」


「参道の奥に何かを見たようです。そのあと、私に向かって、妙なことを言いました」


アポロンは、聞いた言葉をそのまま伝えた。


健一は笑わなかった。


「救急車は?」


「来ました。意識はありましたが、かなり動揺しているようでした」


「そうか……」


健一はしばらく黙っていた。


「昨日までの話とは、少し違ってきたな」


「はい」


「もう警察が調べているんだろう。俺たちが無理に入り込む必要はないと思う」


「私も、そう考えています」


アポロンは頷いた。


「ただ、過去の記録については、もう少し調べたいと思います」


「黒田って人か?」


「はい」


健一は腕を組んだ。


「会長に、ほかの資料がないか聞いてみるよ。俺たちだけで分からないなら、知っている人を探すしかないからな」


「ありがとうございます」


その日の夕方、アポロンは美咲と一緒に帰宅した。


彼女はいつもより口数が少なかった。


家に着いて、荷物を置いたあと、美咲がスマートフォンを差し出した。


「これ、見てほしいんだけど」


画面には、神社の参道を撮影した写真が表示されていた。


昨日、美咲が撮ったものだった。


石畳は、鳥居の向こうから社殿まで、途切れることなく続いている。


「昨日は普通に写っていましたね」


「うん。でも、今日の写真は違うの」


美咲は別の画像を開いた。


今朝、神社の前を通った知人から送られてきた写真だという。


画面の中では、参道の途中に黒い人影が立っていた。


顔ははっきりしない。


しかし、その立ち位置は、今朝アポロンが見た男とよく似ていた。


「この人、誰だと思う?」


「分かりません」


「警察の人に聞いたら、そんな人は見ていないって」


美咲は画面を見つめた。


「それでね。変なのは、ここからなの」


写真を拡大する。


人影の足元に、白い紙のようなものが落ちていた。


アポロンは息を止めた。


今朝、参道の奥に見えたものと同じだった。


「この写真、いつ撮られたんですか?」


「午前八時十二分。送ってきた人が、撮影した時間も教えてくれた」


「その人は、何か見たのでしょうか」


「本人は、普通の参道を撮ったつもりだったみたい。あとで写真を見返して、気づいたんだって」


美咲はスマートフォンを下ろした。


「ねえ、アポロン。昨日から、何か変なことが起きてるよね」


「はい」


「それで、あなたは何か知ってるの?」


アポロンは、すぐには答えなかった。


彼女に隠しておきたいわけではない。


しかし、分かっていないことを、確かな事実のように話すこともできなかった。


「私が見たものと、写真に写っているものには、共通点があります。ただ、それが何を意味するのかは分かりません」


美咲は静かに頷いた。


「そっか」


それ以上、問い詰めなかった。


「でも、これだけは約束して」


「何でしょうか」


「一人で何とかしようとしないこと。何か分かったら、私にも教えてほしい」


アポロンは彼女を見た。


「分かりました」


「あと、危ないと思ったら、ちゃんと離れてね」


「はい」


美咲は少しだけ表情を和らげた。


「じゃあ、ご飯にしよう。今日は簡単なものでいい?」


「もちろんです」


食事のあいだ、二人は仕事の話をした。


美咲の職場では、急な予定変更があったらしい。


アポロンはそれを聞き、必要なときに助けを求めることと、自分で解決しようとすることの違いについて考えていた。


神だった頃の自分は、すべてを一人で解決できた。


しかし、人間の世界では、他者と情報を共有することにも意味がある。


知らないものに向き合うなら、なおさらだった。


食後、アポロンは写真を自分のスマートフォンに保存した。


人影の位置。


白い紙。


撮影時間。


一つずつ記録する。


そのとき、画像の端に小さな違和感を見つけた。


人影の背後にある社殿の柱。


その一本だけが、わずかに歪んでいた。


拡大しても、輪郭が揺れている。


アポロンは別の写真と比較した。


同じ柱は、昨日の写真にも写っている。


だが、そちらでは歪んでいなかった。


「……空間そのものが、変わっているのか」


思わず声が漏れた。


美咲が振り返る。


「何か分かった?」


「まだ、確かなことではありません」


アポロンは画面を閉じた。


「ただ、写真に写っているものが、単なる人影ではない可能性があります」


「どういうこと?」


「周囲の景色にも、影響が出ているのかもしれません」


美咲は難しい顔をした。


「それって、放っておいても大丈夫なの?」


「分かりません」


アポロンは正直に答えた。


「だから、明日はもう少し詳しく調べるつもりです」


翌日。


健一から連絡が入った。


商店街の会長が、黒田修一について一つだけ思い出したという。


黒田は当時、神社の近くに住んでいたわけではなかった。


それでも、祭りの日には必ず神社を訪れていたらしい。


理由は分からない。


ただ、行方不明になる数日前、彼は周囲の人間にこう話していたという。


「向こう側から、名前を呼ばれるんだ」


アポロンは、その言葉を聞き、しばらく黙っていた。


三十七年前。


黒田修一は、何かに呼ばれていた。


そして、今朝。


あの人影は、アポロンに向かって言った。


――遅かったな。


二つの出来事が同じ原因によるものかは、まだ分からない。


しかし、少なくとも一つの可能性が浮かび上がっていた。


神社の奥にある何かは、ただそこに存在しているだけではない。


人間を認識し、名前を知り、呼びかけることができるのかもしれない。


アポロンはスマートフォンを机に置いた。


彼は世界を創造した。


だからこそ、世界に存在するものは、すべて自分の理解の内側にあると考えていた。


その考えは、今、初めて揺らいでいる。


世界の中に、自分が知らないものがある。


それだけなら、まだよかった。


問題は、それがこちらを知っていることだった。


そして、次に呼ばれるのが誰なのか。


まだ、誰にも分からなかった。

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